南北朝時代室町時代戦国時代日本史歴史

室町幕府の衰退を加速させた内乱「応仁の乱」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

背景1. 足利義政の後継者

1443年、足利義視はまだ5歳の時に浄土寺に入室、この時に義尋(ぎじん)と号しました。僧侶の道を進む足利義視にとって将軍の職は無縁に思えましたが、1464年に状況が一変します。当時将軍だったのは足利義視の兄・足利義政でしたが、彼には子供がいませんでした

そこで、足利義政は弟・足利義視を将軍の後継ぎにしようと考えたのです。このため足利義視は還俗(僧侶になった者が僧侶を捨てること)、そして将軍家の誰もが最初に就く官職・左馬頭に就き、ここで改めて義視と名乗るようになりました。

その後も足利義視は順調に出世していき、足利義政の後継者……つまり将軍への道を歩んでいったのです。しかし、ここで思わぬ出来事が起こります。子供のいなかった足利義政と正室である日野富子との間に子供が生まれたのです。そして、生まれたその子供というのが足利義尚でした

背景2. 守護大名・山名宗全と細川勝元の対立

子・足利義尚が誕生したことで、日野富子は自分の子供……つまり足利義尚を将軍の後継者にしたいと考えます。とは言え、現状での後継者は足利義視であり、そのための準備も順調に整ってきていました。そこで日野富子は守護大名・山名宗全(やまなそうぜん)に接近、足利義視の将軍への就任を阻止しようと暗躍します。

一方、足利義視には守護大名・細川勝元(ほそかわかつもと)という後見人がいました。足利義尚を推す山名宗全と足利義視を推す細川勝元、どちらも守護大名であるため対立するのは必至でしょう。そして、この対立による将軍家の家督争いは全国の守護大名が勝元派と宗全派に分かれるほどの大きな事態となったのです。

また、1466年には足利義政の側近が諸大名の反発によって追放される事件が起こり、これで足利義政は側近を中心とした政治が行えなくなります。これが文正の政変であり、側近を失った足利義政は独自の政治が行えなくなり、以降諸大名中心の政治へと移行していきました。

応仁の乱の時代背景・畠山家

image by PIXTA / 42992966

背景1. 管領・畠山持国の後継者争い

管領の役職に就いていた畠山持国(はたけやまもちくに)には子供がおらず、そのため弟の畠山持富(もちとみ)を養子にしていました。しかし1437年に子供が生まれ、その子供が畠山義就です。そこで畠山持国は実の子の畠山義就を後継者にしようと、将軍・足利義政の許可を得ることに成功します。

これに納得できなかったのが一部の重臣達で、畠山持冨の子である畠山弥三郎を推そうとしました。畠山持国はその対処として畠山弥三郎派を厳しく取り締まり、怖れた畠山弥三郎は逃亡します。しかし、1454年に畠山弥三郎派だった細川勝元山名宗全らに襲撃され、今度は畠山持国が京都を追われて隠居させられることになったのです。

この状況に対して足利義政は山名宗全らの力を無視できず、望みどおり畠山弥三郎を後継者として認めます。しかしこの争いに山名宗全も無傷では済まず、その結果隠居することになりました。そして、頼れる山名宗全が隠居したことで畠山弥三郎は再び窮地に立たされたのです

背景2. 畠山政長の管領就任

足利義政は畠山弥三郎を畠山持国の後継者と認めたものの、細川勝元や山名宗全の存在が疎ましく、そのため畠山義就の復帰を画策しました。畠山義就はこれに応じ、山名宗全のいない状況を狙って兵を引き連れてやってきます。再び危機に陥った畠山弥三郎は逃亡、これによってまたも立場は逆転、今度は畠山義就が畠山持国の後継者になったのです

1455年、畠山持国が死去すると畠山義就は正式に家督を相続しました。足利義政もこれを支持していましたが、1457年に起こった大和の争乱の処置で致命的な失敗をしてしまい、以後足利義政からの信頼は徐々に失われていきます。しかもこのタイミングで畠山弥三郎が赦免、畠山義就は不利な状況に立たされてしまったのです

最も、畠山弥三郎は間もなく死去するものの、今度はその弟・畠山政長(はたけやままさなが)が登場します。そこで足利義政は畠山義就に対して家督を畠山政長に譲るように要求、畠山義就はこれを拒否、室町幕府に戦いを仕掛けるも敗れて逃亡しました。一方、畠山政長は1464年に管領へと就任したのです

\次のページで「応仁の乱の発生」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: