

応仁の乱の勉強で難しいのはそれが起こった「原因」であり、ここは実に多くの人物が関わってくるのだ。そこでだ、今回は応仁の乱をテーマにして、その原因を中心に日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から応仁の乱をわかりやすくまとめた。
応仁の乱が起こるまで・幕府の状況
応仁の乱が起こったのは1467年、時代で言えば室町時代になります。日本の歴史上においては3つの幕府が存在しますが、室町時代の室町幕府もその1つであり、室町幕府の将軍は足利家です。そして、応仁の乱には3人の将軍が関係してきます。
まず室町幕府・第8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)、さらにその後継者候補となった足利義尚(あしかがよしひさ)と足利義視(あしかがよしみ)です。ちなみに足利義尚は足利義政と正室の子、足利義視は足利義政の弟になります。
さて、この説明から足利義尚と足利義視が足利義政の後継者争いをすることが想像できるでしょう。しかし、イコールそれが応仁の乱の全てというわけではなく、ここでさらに全く別の争いが加わって起こったのが応仁の乱です。
応仁の乱が起こるまで・守護大名と菅領の状況
室町時代では将軍が日本の全てを治めていたわけではなく、各地の支配はその地方ごとの守護大名が任されている状態です。さらに、将軍を補佐して内外の政務をまとめる管領と呼ばれる役職もあり、これは室町幕府において将軍に次ぐ権力を持っていました。
つまり、征夷大将軍を筆頭にその征夷大将軍に次ぐ最高権力を持つ管領、さらに各地を支配する守護大名、室町時代はこの図式で成り立っていたのです。しかし、室町時代が始まって130年経った頃にこの図式が徐々に傾いてきます。
まず将軍の力が衰えを見せ、そのため各地の守護大名を抑えられなくなりました。さらに管領も将軍に従順でなくなり、やはり将軍では抑えられないほど争うになります。そして、図式が傾いて起こった争いこそ1467年の応仁の乱なのです。

応仁の乱が起こった1467年は室町時代だ。そして室町時代では征夷大将軍、将軍に次ぐ権力を持つ管領、各地を支配する守護大名が力を持っていた。やがてこれらの役職ではそれぞれ争いが起こるようになり、大規模な内乱となったのが応仁の乱だぞ。
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