芸術作品の作成
武蔵は、細川家で雇われ剣術を教える傍ら水墨画などを描いておりました。画を習ったとされる人物は、長谷川等伯・海北友松などの名が上げれます。正確に資料が残っていないため、あくまで画が似通っている理由で師ではないかと考えらました。
代表作は、鵜図・正面達磨図・面壁達磨図などで現在美術館等に展示または保管されています。主に描かれていたのは、花鳥画と道釈人物画がほとんどで馬画や龍図が一点が残されているものの戦災により焼失してしまいました。また、武蔵は署名や落款を一点を除いてしなかったので偽作が多数存在しています。
剣術だけでなく、芸術にも精通し文武両道という一面が見られる武蔵。人生の前半に剣を極め、後半で芸術や工芸などに勤しんだことは一剣士なのではなく哲人ともいうべき存在のかも知れません。
大剣豪武蔵の最後
細川忠利の客分として三百石を与えられ、何不自由なく熊本で生活していきました。忠利が急死した後も細川光尚からも同様に手厚い対応だったようです。そして、忠利の三回忌で1643年に金峰山の岩戸に赴きました。
岩戸の霊巖洞に籠り、五輪書と独行道もこの場所で書いたとされています。そして、亡くなる少し前に武蔵の弟子だった寺尾孫之充に兵法書を手渡しました。その後、武蔵は肥後国の千葉城屋敷で肺がんのため1645年に亡くなりました。年齢は六十二歳。
兵法書を受けった孫之充は、二代目二天一刀流となり後世へ広めていきました。
文武両道だった武蔵
公に知られている武蔵のイメージは、決闘で無類強さを誇り正々堂々と相手を倒したと思い浮かべる人が多いと思います。実際は今とはかけ離れた決闘だったようで、対面してから斬り合いが始まるものではなく如何に相手の隙を付き勝利掴むかが勝負だったように見受けられました。
強い者だけが生き残れる時代を知り得ていた武蔵だからこそ、勝つ手段を色々と模索し実行していったのでしょう。そして、その様子を見た伊織や孫之充もまた武蔵の魅力に惹かれ一人前になったのだと思います。
最も意外だと思うことは、画を書き後世で評価される程の物を執筆していたことでした。剣では天下無敗となり画でも才能を光らせた武蔵は、一つの物事の探求心が強く極められる程の精神力を持っていたから描くことができたのだと思います。