巌流小次郎
佐々木小次郎としての名が一般的ではありますが、残された書物により少し違いあるものの巌流・小次郎・岩流といった名で表記されております。出身地は、豊前国田川郡副田庄(福岡県)の生まれてでその地の有力豪族佐々木一族の子供として誕生しました。
剣術は、中条流と鐘捲流を学んだ後に燕返しを習得して巌流という流派を創案しました。初めに毛利家に志願して仕えてた、細川家の剣術指南役として雇われることになります。武蔵は、吉岡一門を破り細川忠興の家臣だった長岡興長を頼り小倉に移っていました。そして、小次郎が剣術指南を務めていたころ興長つてで武蔵に決闘を申し込みました。
また、決闘の時に使用していた刀は三尺の太刀とされており約九十wp_以上の物を扱っていたとされております。特徴として、刀の間合いの外から攻撃を仕掛けることが可能で間合いに入ってきた者を切り上げることができることでした。
重い刀に加えて、瞬時に刀を振り下ろすことができた小次郎も只者ではないことがよく分かります。
巌流島の決闘
決闘の申し込みをした小次郎は、武蔵とある約束を交わすことなりました。小次郎は真剣を使用していいので、自分は木刀で使用するといい硬い勝負の約束し決闘へ挑むことになります。決闘する場所は、長門と豊前国の間にある舟嶋という場所で両者の雌雄を決することになりました。
愛用の三尺の太刀を使い、武蔵に全身全霊で挑むも小次郎が一振りする間に武蔵は電光よりも速い速度で小次郎の頭に一太刀を打ち込みます。この一太刀で小次郎は致命傷となり亡くなってしました。その後、小次郎が創案した巌流の名前を取り舟嶋を巌流島と呼ぶようになったとされています。
しかし、この決闘にも謎が多く決闘時間に遅れて参上したことで小次郎が冷静差を欠きその隙をついて倒しとされる説。また、一太刀を加えることができたが小次郎は一命を取り留めるも武蔵の弟子達に撲殺されたとする説。
いずれにしても色々な話に尾ひれがついて、後世に伝わってしまったと個人的に感じています。
各地をめぐり伊織を養子に
巌流と名高い小次郎を倒した武蔵は、各地を転々としていきました。転々とした際に、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し大阪城を中心とした戦が始まります。これが、大阪の陣です。大阪の陣は、冬と夏と二回の大規模な戦であり豊臣家が滅亡したことでも知られています。
大坂御陳御人数附覚に書かれている内容は、武蔵が水野勝成の一兵として戦ったとされていました。ここでも主だった武功は上げられず、戦が終わってしまったようです。
大坂の陣が終わった後、弟子だった伊織を養子として迎え入れ自身の子供として育てていきます。伊織の出生は、武蔵同様にはっきりと分かっていないことが多いく天狗攫われて育てられてなどの伝説もあるようです。伊織が十二歳の時に養子にしました。
弟子の中でも優秀な存在で、播磨の国明石藩主の小笠原忠真へ士官し若干二十歳で家老まで昇りつめました。
武蔵の愛刀と芸術家の一面そして武蔵の最後
日本一の剣豪だった武蔵は、当然ながら自身の腕で勝利してきたことでしょう。しかし、武蔵の腕だけでなく刀のおかで勝利したこともあるかも知れません。また、家剣術だけでなく芸術家としての一面もありました。使用していたとされる刀と、武蔵が描いた美術品を見ていきましょう。
名刀三振り
剣士であれば、扱う刀にも愛着があり大切にすることがこの時代では当たり前だったことでしょう。それは、武蔵も同様で確認されている愛刀は三振りあるとされています。まず一つ目が、無名金重です。無名金重は、南北朝時代に金重名のっていた僧が六十一歳で現代でも有名な正宗を打った五郎入道正宗の弟子となり完成させた一品でした。
二振り目は、無名金重よりも刃渡りが長く吉岡一門との決闘した時に使用した刀が和泉守藤原兼定です。初代兼定の弟子となり後に養子として名刀匠として育て上げられました。最上大業物に該当するので大変切れ味は良く、武蔵の他に柴田勝家や明智光秀などが使用していた記録が残っています。
最後は、これも決闘の時に使用されたとされていますが近年の技術で確認したところ刃こぼれや砥ぎ直していないことが分かっている刀です。了戒といって、他の愛用刀と比べると尺はそこまで変わりませんが、刀身が細く素早く振ることができます。鎌倉時代の山城出身の了戒が打った一振りであり、武蔵が生涯手放さなかった刀でした。
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