剣豪と聞くと沢山の武将・剣士の名前が出てくるでしょうが、二刀流と聞けば宮本武蔵と答えるでしょう。武蔵といえば、無敗の剣豪だったり巌流島の決闘で剣豪の佐々木小次郎を破るなど武勇に優れた人物だったようです。

そこで、今回は宮本武蔵の幼少時代から見ていこう。今回は、戦国ライターのwhat_0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

戦国に関する書籍を熟読し、知識を深めた。戦国時代のことなら知らないことはない。今回は、二刀流剣豪の宮本武蔵を紹介する。

武蔵の生い立ち

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武蔵にはなにかと、伝承が数多く残されています。無敗の話ですと後世で、少々盛られている形で本が作られても不思議はありません。そこで、二刀流となる前の武蔵を見ていきましょう。

生誕から幼少時代

武蔵の生まれから子供時代については、正確な記録がありませんが通説は生国播磨(兵庫県姫路市)で1584年に誕生しました。まず、父は新面無二だったとされております。母に関しては、武蔵を出産した時に無二と別れて他家の妻となりました。

無二は、父ではあるものの実父なのか養父なのかはっきりとしていませんでした。武蔵の祖父にあたる平田将監も剣豪だったため、幼少期から十手術・刀術について学ぶ機会が多かったでしょう。武蔵の幼少時代は、あまり記録に残っていないため武蔵著書の五輪書に書かれているのが十三歳からとなっております。

一対一において無敗となれたのは、父そして祖父の存在があってこそ武蔵は強くなれたのでしょう。

最初の決闘

五輪書で一番最初の決闘相手は、有馬喜兵衛でした。武蔵の住む村にやって来て、浜辺近くに試合場を作り決闘者を募っていました。そこの高札を見た武蔵は、明日相手をすべしと書き込みました。この時、武蔵の世話役をしていた林道坊は武蔵のおもいたった行動を見て驚きました。

翌日、喜兵衛のところに林道坊と共に試合場に向かいました。林道坊は子供が書いてしまったからと言い、喜兵衛へお詫びをするといきなり武蔵がいざ勝負と言い喜兵衛に立ち向かっていきます。不意を突かれた喜兵衛は、何とか応戦するも棒を受けきれなくなり武蔵に担がれ地面に叩き付けられました。そこに、追い打ちをかけた武蔵は棒で喜兵衛と数十発と殴り撲殺してしまいました。

正々堂々の決闘ではありませんでしたが、一番最初の白星となりました。

父への敵愾心

丹治峰均筆記に、書かれている内容の一部に無二との関係が分かるところがありました。将監は、十手術を極めていて室町幕府将軍の足利義昭から招かれ武芸の名門だった吉岡兼法と試合を行い見事を勝利します。無二もまた将監同様に十手術に秀でていた存在でした。

無二の十手術を見ていた武蔵は、不満があり批判することが多々ありました。武芸一門の血を受け継いでいる武蔵は、無二の十手術に関して弱点を見透かしたうえで批判していたのかもしれません。

こんな関係でしたので長続きするわけもなく、家出したとされていますが実際のところは不明のようです。子供の分際で父に反抗するなということが続き、余計に親子関係が悪化したのでしょう。それでも、無二とは縁切りはしませんでした。

 

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生涯唯一参戦した戦いと幕府の剣術師範との決闘へ

剣術の達人ではあるものの、戦に参戦した記録が残っているのは関ヶ原の戦いでした。通説ですと東軍方に従軍したとされております。東軍で活躍することができたのか、そして関ヶ原の戦い以降に幕府の剣術師範と決闘していくところを紹介していきましょう。

関ヶ原の戦いから武芸一門との決闘

一度は、無二のもとを離れていたとされるが関ヶ原の戦いで無二と一緒に徳川方として参戦していました。所属していたところは、黒田家の黒田如水の下に仕えたと黒田藩分限帖に書かれています。剣術に覚えがあった無二と武蔵は、一国の大名となることを夢見ていたのでしょう。

全国で戦が発生した中、石垣原を中心とした戦は西の関ヶ原とも呼ばれています。しかしこの戦で主だった戦功は上げられずに終わってしまったようです。

関ヶ原の戦いから四年後に、三度に渡り決闘をした吉岡一門でした。吉岡家は代々、室町幕府の剣術師範役を務めていた剣術名門一家です。一回目は吉岡憲法四代目だった吉岡清十郎に決闘を申し込みましたが、留守だったため弟子達を全員倒してしまいました。その後、清十郎に挑戦状を送り付け清十郎の返事を待っていると決闘を受ける返事をもらいます。

吉岡一門と決闘を二度制した武蔵

清十郎と決闘することになり、朝早くから指示された決闘場で弟子と待っているも時間になっても現れなかった。そこに突然現れた武蔵に苛立ち、清十郎は武蔵めがけて刀を振りかざします。しかし、武蔵の方が一瞬早く動いていたため太刀筋を躱し武蔵から清十郎の腕へと木刀を振りかざしました。すると清十郎の、腕の骨を折り倒れこんでしまいます。駆け寄った弟子達に担がれ、武蔵の勝利となりました。

清十郎を倒して間もなく、弟の伝七郎が兄の仇を討つべく武蔵に決闘を申し込みます。戦った場所が記されていないので分かりませんが、伝七郎は五尺あまりの木刀で武蔵に挑んでいきました。ところが、いとも簡単に武蔵に木刀を奪われてしまい返り討ちにしてしまいます。

吉岡一門を次々と倒してしまい、面目が丸つぶれの弟子達でしたが総出で武蔵を倒すためを決意しました。それが、一条寺下り松の決闘です。細川家家老のに二天一刀流師範だった豊田正脩が完成させた武公伝に決闘の様子が描かれています。

一条寺下り松の決闘

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武公伝に書かれていた内容は、清十郎と伝七郎には決闘時間に遅れていきました。ただ今回は、その逆をしようと企みます。そして下り松に向かう道中に八大神社に立ち寄り普段は、一切しない戦勝祈願をしようと思ったが、気が変わりそのまま下り松に深夜に吉岡一門を待ち伏せていました。

戦勝祈願を止めてしまった理由は、我神仏を尊んで神仏に恃まずと武蔵が晩年に残した独行道に書かれています。これは個人の訳しになりますが、仏を頼らずとも己自身の力を信じて戦い生死に関しては仏のみ知るといったところでしょう。

先に待ち伏せしていた武蔵は、夜明け前に清十郎の子である又七郎と弟子十名ほどが下り松に集まってきました。そして、又七郎の位置を把握した武蔵はいきなり又七郎めがけて切り伏せてしまいます。この様子に動揺してしまった弟子達は、弓矢を射ました。矢は武蔵の袖に刺さりましたが、進みながら弟子を切り伏せていき狼狽した弟子達は走散して武蔵の勝利となります。

巌流島から各地を転々と

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武蔵の決闘といえば巌流島の決闘でしょう。決闘が行われた時期が明確ではないことと、それぞれの書物により内容が違っています。今回は、通説となっている小倉碑文での話を紹介していきましょう。

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巌流小次郎

佐々木小次郎としての名が一般的ではありますが、残された書物により少し違いあるものの巌流・小次郎・岩流といった名で表記されております。出身地は、豊前国田川郡副田庄(福岡県)の生まれてでその地の有力豪族佐々木一族の子供として誕生しました。

剣術は、中条流と鐘捲流を学んだ後に燕返しを習得して巌流という流派を創案しました。初めに毛利家に志願して仕えてた、細川家の剣術指南役として雇われることになります。武蔵は、吉岡一門を破り細川忠興の家臣だった長岡興長を頼り小倉に移っていました。そして、小次郎が剣術指南を務めていたころ興長つてで武蔵に決闘を申し込みました。

また、決闘の時に使用していた刀は三尺の太刀とされており約九十wp_以上の物を扱っていたとされております。特徴として、刀の間合いの外から攻撃を仕掛けることが可能で間合いに入ってきた者を切り上げることができることでした。

重い刀に加えて、瞬時に刀を振り下ろすことができた小次郎も只者ではないことがよく分かります。

巌流島の決闘

決闘の申し込みをした小次郎は、武蔵とある約束を交わすことなりました。小次郎は真剣を使用していいので、自分は木刀で使用するといい硬い勝負の約束し決闘へ挑むことになります。決闘する場所は、長門と豊前国の間にある舟嶋という場所で両者の雌雄を決することになりました。

愛用の三尺の太刀を使い、武蔵に全身全霊で挑むも小次郎が一振りする間に武蔵は電光よりも速い速度で小次郎の頭に一太刀を打ち込みます。この一太刀で小次郎は致命傷となり亡くなってしました。その後、小次郎が創案した巌流の名前を取り舟嶋を巌流島と呼ぶようになったとされています。

しかし、この決闘にも謎が多く決闘時間に遅れて参上したことで小次郎が冷静差を欠きその隙をついて倒しとされる説。また、一太刀を加えることができたが小次郎は一命を取り留めるも武蔵の弟子達に撲殺されたとする説。

いずれにしても色々な話に尾ひれがついて、後世に伝わってしまったと個人的に感じています。

各地をめぐり伊織を養子に

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巌流と名高い小次郎を倒した武蔵は、各地を転々としていきました。転々とした際に、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し大阪城を中心とした戦が始まります。これが、大阪の陣です。大阪の陣は、冬と夏と二回の大規模な戦であり豊臣家が滅亡したことでも知られています。

大坂御陳御人数附覚に書かれている内容は、武蔵が水野勝成の一兵として戦ったとされていました。ここでも主だった武功は上げられず、戦が終わってしまったようです。

大坂の陣が終わった後、弟子だった伊織を養子として迎え入れ自身の子供として育てていきます。伊織の出生は、武蔵同様にはっきりと分かっていないことが多いく天狗攫われて育てられてなどの伝説もあるようです。伊織が十二歳の時に養子にしました。

弟子の中でも優秀な存在で、播磨の国明石藩主の小笠原忠真へ士官し若干二十歳で家老まで昇りつめました。

武蔵の愛刀と芸術家の一面そして武蔵の最後

日本一の剣豪だった武蔵は、当然ながら自身の腕で勝利してきたことでしょう。しかし、武蔵の腕だけでなく刀のおかで勝利したこともあるかも知れません。また、家剣術だけでなく芸術家としての一面もありました。使用していたとされる刀と、武蔵が描いた美術品を見ていきましょう。

名刀三振り

剣士であれば、扱う刀にも愛着があり大切にすることがこの時代では当たり前だったことでしょう。それは、武蔵も同様で確認されている愛刀は三振りあるとされています。まず一つ目が、無名金重です。無名金重は、南北朝時代に金重名のっていた僧が六十一歳で現代でも有名な正宗を打った五郎入道正宗の弟子となり完成させた一品でした。

二振り目は、無名金重よりも刃渡りが長く吉岡一門との決闘した時に使用した刀が和泉守藤原兼定です。初代兼定の弟子となり後に養子として名刀匠として育て上げられました。最上大業物に該当するので大変切れ味は良く、武蔵の他に柴田勝家や明智光秀などが使用していた記録が残っています。

最後は、これも決闘の時に使用されたとされていますが近年の技術で確認したところ刃こぼれや砥ぎ直していないことが分かっている刀です。了戒といって、他の愛用刀と比べると尺はそこまで変わりませんが、刀身が細く素早く振ることができます。鎌倉時代の山城出身の了戒が打った一振りであり、武蔵が生涯手放さなかった刀でした。

\次のページで「芸術作品の作成」を解説!/

芸術作品の作成

武蔵は、細川家で雇われ剣術を教える傍ら水墨画などを描いておりました。画を習ったとされる人物は、長谷川等伯・海北友松などの名が上げれます。正確に資料が残っていないため、あくまで画が似通っている理由で師ではないかと考えらました。

代表作は、鵜図・正面達磨図・面壁達磨図などで現在美術館等に展示または保管されています。主に描かれていたのは、花鳥画と道釈人物画がほとんどで馬画や龍図が一点が残されているものの戦災により焼失してしまいました。また、武蔵は署名や落款を一点を除いてしなかったので偽作が多数存在しています。

剣術だけでなく、芸術にも精通し文武両道という一面が見られる武蔵。人生の前半に剣を極め、後半で芸術や工芸などに勤しんだことは一剣士なのではなく哲人ともいうべき存在のかも知れません。

大剣豪武蔵の最後

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細川忠利の客分として三百石を与えられ、何不自由なく熊本で生活していきました。忠利が急死した後も細川光尚からも同様に手厚い対応だったようです。そして、忠利の三回忌で1643年に金峰山の岩戸に赴きました。

岩戸の霊巖洞に籠り、五輪書と独行道もこの場所で書いたとされています。そして、亡くなる少し前に武蔵の弟子だった寺尾孫之充に兵法書を手渡しました。その後、武蔵は肥後国の千葉城屋敷で肺がんのため1645年に亡くなりました。年齢は六十二歳。

兵法書を受けった孫之充は、二代目二天一刀流となり後世へ広めていきました。

文武両道だった武蔵

公に知られている武蔵のイメージは、決闘で無類強さを誇り正々堂々と相手を倒したと思い浮かべる人が多いと思います。実際は今とはかけ離れた決闘だったようで、対面してから斬り合いが始まるものではなく如何に相手の隙を付き勝利掴むかが勝負だったように見受けられました。

強い者だけが生き残れる時代を知り得ていた武蔵だからこそ、勝つ手段を色々と模索し実行していったのでしょう。そして、その様子を見た伊織や孫之充もまた武蔵の魅力に惹かれ一人前になったのだと思います。

最も意外だと思うことは、画を書き後世で評価される程の物を執筆していたことでした。剣では天下無敗となり画でも才能を光らせた武蔵は、一つの物事の探求心が強く極められる程の精神力を持っていたから描くことができたのだと思います。

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日本史歴史江戸時代

大剣豪「宮本武蔵」を戦国通のサラリーマンが5分でわかりやすく解説!

巌流小次郎

佐々木小次郎としての名が一般的ではありますが、残された書物により少し違いあるものの巌流・小次郎・岩流といった名で表記されております。出身地は、豊前国田川郡副田庄(福岡県)の生まれてでその地の有力豪族佐々木一族の子供として誕生しました。

剣術は、中条流と鐘捲流を学んだ後に燕返しを習得して巌流という流派を創案しました。初めに毛利家に志願して仕えてた、細川家の剣術指南役として雇われることになります。武蔵は、吉岡一門を破り細川忠興の家臣だった長岡興長を頼り小倉に移っていました。そして、小次郎が剣術指南を務めていたころ興長つてで武蔵に決闘を申し込みました。

また、決闘の時に使用していた刀は三尺の太刀とされており約九十wp_以上の物を扱っていたとされております。特徴として、刀の間合いの外から攻撃を仕掛けることが可能で間合いに入ってきた者を切り上げることができることでした。

重い刀に加えて、瞬時に刀を振り下ろすことができた小次郎も只者ではないことがよく分かります。

巌流島の決闘

決闘の申し込みをした小次郎は、武蔵とある約束を交わすことなりました。小次郎は真剣を使用していいので、自分は木刀で使用するといい硬い勝負の約束し決闘へ挑むことになります。決闘する場所は、長門と豊前国の間にある舟嶋という場所で両者の雌雄を決することになりました。

愛用の三尺の太刀を使い、武蔵に全身全霊で挑むも小次郎が一振りする間に武蔵は電光よりも速い速度で小次郎の頭に一太刀を打ち込みます。この一太刀で小次郎は致命傷となり亡くなってしました。その後、小次郎が創案した巌流の名前を取り舟嶋を巌流島と呼ぶようになったとされています。

しかし、この決闘にも謎が多く決闘時間に遅れて参上したことで小次郎が冷静差を欠きその隙をついて倒しとされる説。また、一太刀を加えることができたが小次郎は一命を取り留めるも武蔵の弟子達に撲殺されたとする説。

いずれにしても色々な話に尾ひれがついて、後世に伝わってしまったと個人的に感じています。

各地をめぐり伊織を養子に

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巌流と名高い小次郎を倒した武蔵は、各地を転々としていきました。転々とした際に、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し大阪城を中心とした戦が始まります。これが、大阪の陣です。大阪の陣は、冬と夏と二回の大規模な戦であり豊臣家が滅亡したことでも知られています。

大坂御陳御人数附覚に書かれている内容は、武蔵が水野勝成の一兵として戦ったとされていました。ここでも主だった武功は上げられず、戦が終わってしまったようです。

大坂の陣が終わった後、弟子だった伊織を養子として迎え入れ自身の子供として育てていきます。伊織の出生は、武蔵同様にはっきりと分かっていないことが多いく天狗攫われて育てられてなどの伝説もあるようです。伊織が十二歳の時に養子にしました。

弟子の中でも優秀な存在で、播磨の国明石藩主の小笠原忠真へ士官し若干二十歳で家老まで昇りつめました。

武蔵の愛刀と芸術家の一面そして武蔵の最後

日本一の剣豪だった武蔵は、当然ながら自身の腕で勝利してきたことでしょう。しかし、武蔵の腕だけでなく刀のおかで勝利したこともあるかも知れません。また、家剣術だけでなく芸術家としての一面もありました。使用していたとされる刀と、武蔵が描いた美術品を見ていきましょう。

名刀三振り

剣士であれば、扱う刀にも愛着があり大切にすることがこの時代では当たり前だったことでしょう。それは、武蔵も同様で確認されている愛刀は三振りあるとされています。まず一つ目が、無名金重です。無名金重は、南北朝時代に金重名のっていた僧が六十一歳で現代でも有名な正宗を打った五郎入道正宗の弟子となり完成させた一品でした。

二振り目は、無名金重よりも刃渡りが長く吉岡一門との決闘した時に使用した刀が和泉守藤原兼定です。初代兼定の弟子となり後に養子として名刀匠として育て上げられました。最上大業物に該当するので大変切れ味は良く、武蔵の他に柴田勝家や明智光秀などが使用していた記録が残っています。

最後は、これも決闘の時に使用されたとされていますが近年の技術で確認したところ刃こぼれや砥ぎ直していないことが分かっている刀です。了戒といって、他の愛用刀と比べると尺はそこまで変わりませんが、刀身が細く素早く振ることができます。鎌倉時代の山城出身の了戒が打った一振りであり、武蔵が生涯手放さなかった刀でした。

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