生涯唯一参戦した戦いと幕府の剣術師範との決闘へ
剣術の達人ではあるものの、戦に参戦した記録が残っているのは関ヶ原の戦いでした。通説ですと東軍方に従軍したとされております。東軍で活躍することができたのか、そして関ヶ原の戦い以降に幕府の剣術師範と決闘していくところを紹介していきましょう。
関ヶ原の戦いから武芸一門との決闘
一度は、無二のもとを離れていたとされるが関ヶ原の戦いで無二と一緒に徳川方として参戦していました。所属していたところは、黒田家の黒田如水の下に仕えたと黒田藩分限帖に書かれています。剣術に覚えがあった無二と武蔵は、一国の大名となることを夢見ていたのでしょう。
全国で戦が発生した中、石垣原を中心とした戦は西の関ヶ原とも呼ばれています。しかしこの戦で主だった戦功は上げられずに終わってしまったようです。
関ヶ原の戦いから四年後に、三度に渡り決闘をした吉岡一門でした。吉岡家は代々、室町幕府の剣術師範役を務めていた剣術名門一家です。一回目は吉岡憲法四代目だった吉岡清十郎に決闘を申し込みましたが、留守だったため弟子達を全員倒してしまいました。その後、清十郎に挑戦状を送り付け清十郎の返事を待っていると決闘を受ける返事をもらいます。
吉岡一門と決闘を二度制した武蔵
清十郎と決闘することになり、朝早くから指示された決闘場で弟子と待っているも時間になっても現れなかった。そこに突然現れた武蔵に苛立ち、清十郎は武蔵めがけて刀を振りかざします。しかし、武蔵の方が一瞬早く動いていたため太刀筋を躱し武蔵から清十郎の腕へと木刀を振りかざしました。すると清十郎の、腕の骨を折り倒れこんでしまいます。駆け寄った弟子達に担がれ、武蔵の勝利となりました。
清十郎を倒して間もなく、弟の伝七郎が兄の仇を討つべく武蔵に決闘を申し込みます。戦った場所が記されていないので分かりませんが、伝七郎は五尺あまりの木刀で武蔵に挑んでいきました。ところが、いとも簡単に武蔵に木刀を奪われてしまい返り討ちにしてしまいます。
吉岡一門を次々と倒してしまい、面目が丸つぶれの弟子達でしたが総出で武蔵を倒すためを決意しました。それが、一条寺下り松の決闘です。細川家家老のに二天一刀流師範だった豊田正脩が完成させた武公伝に決闘の様子が描かれています。
一条寺下り松の決闘
武公伝に書かれていた内容は、清十郎と伝七郎には決闘時間に遅れていきました。ただ今回は、その逆をしようと企みます。そして下り松に向かう道中に八大神社に立ち寄り普段は、一切しない戦勝祈願をしようと思ったが、気が変わりそのまま下り松に深夜に吉岡一門を待ち伏せていました。
戦勝祈願を止めてしまった理由は、我神仏を尊んで神仏に恃まずと武蔵が晩年に残した独行道に書かれています。これは個人の訳しになりますが、仏を頼らずとも己自身の力を信じて戦い生死に関しては仏のみ知るといったところでしょう。
先に待ち伏せしていた武蔵は、夜明け前に清十郎の子である又七郎と弟子十名ほどが下り松に集まってきました。そして、又七郎の位置を把握した武蔵はいきなり又七郎めがけて切り伏せてしまいます。この様子に動揺してしまった弟子達は、弓矢を射ました。矢は武蔵の袖に刺さりましたが、進みながら弟子を切り伏せていき狼狽した弟子達は走散して武蔵の勝利となります。
巌流島から各地を転々と
武蔵の決闘といえば巌流島の決闘でしょう。決闘が行われた時期が明確ではないことと、それぞれの書物により内容が違っています。今回は、通説となっている小倉碑文での話を紹介していきましょう。
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