日本史歴史江戸時代

生まれながらの将軍と宣言した3代目将軍「徳川家光」を歴女がわかりやすく解説

5-3、家光は武芸や能楽なども好んだ

家光は将軍になって以降も、遠乗りや諸大名の邸への御成など、外出が大好きで、夜な夜な市中に出て辻斬りをしたという話まである(男色の相手と密会していたらしい)ほど、お忍びで外出することも多かったよう。
また、柳生新陰流の柳生宗矩に師事し免許皆伝の腕前で、寛永御前試合や慶安御前試合などや武芸上覧などを主宰。家康や秀忠と同じく能が好きだったが、能役者の能楽を見る以外に、諸大名や家臣など素人に演じさせて面白がるちょっと変わった趣向も。

また墨絵などの趣味もあり、最近家光が描いたという何の動物かわからない、へたうまの墨絵も話題に

5-4、伊達政宗を親父と呼ぶほど慕う

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By 土佐光貞 – 東福寺塔中霊源院, パブリック・ドメイン, Link

寛永12年に家光が参勤交代制を強化し、今後は諸大名を家臣として遇すと宣言したとき、伊達政宗は真っ先に進み出て家光に、「上様の命に背く者は、それがしに討伐を仰せ付けあれ」と言ったために、他の大名たちは一言もなかったそう。そして家光は政宗のために護身用に10挺の火縄銃を与えたという話。戦国武将の生き残りで高齢になっても江戸参府を欠かさなかった政宗を伊達のおやじ殿と呼んで慕いまくり、色々な体験談や思い出の昔話をせがんだという。そして京都二条城へと参上する際に、御三家も許可されないという紫の馬の総を政宗に授与したり、政宗が病床についたときは医者を手配し、江戸中の寺社に祈祷まで行わせたうえ、亡くなる3日前には家光自らがお見舞いに。そして政宗が亡くなると、父秀忠が亡くなったときよりも嘆いたのでした。家光は自分と同じように、政宗も弟小次郎の方が母に可愛がられ争いになった話を聞いて親近感を持っていたのかも。

また同様に、関が原で西軍に加担して改易の後復帰した唯一の大名の立花宗茂も好きで、殿中での頭巾や杖の使用を認めるなど特別扱いをし、能、狂言、茶席など宴を催した際や、上洛、大坂行き、日光社参など、家光は宗茂を伴って行ったということです。

5-5、お福に春日局という敬称を後水尾天皇から賜る

家光は乳母お福に育てられて今日の自分があるということがわかっていたようで、お福の息子たちや孫たちまで大名にして重用しました。そしてお福に名誉を授けようとしてか、お福を家光の妹で後水尾天皇の中宮和子を通し、後水尾天皇に拝謁するために、京都御所に参内までさせたほど。

しかし格式の高い御所への参内に、将軍の乳母に過ぎない無位無官のお福(公家の三條西家の親戚であったので、妹分という肩書を使用)を参内させて天皇に拝謁と言うのは、相当強引なことであったそう。後水尾天皇はお福に緋の袴を許し、将軍の乳母に与えられる敬称である「春日局」を下賜したものの、紫衣事件以上に徳川幕府に侮辱されたという気持ちが強かったということ。

6、家光、家康と共に日光に祀られる

慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去。死因は脳卒中だったよう。享年48歳。この頃は殉死が行われていて、男色の相手だったと言われる堀田正盛や阿部重次らが殉死。遺骸は遺言により日光の輪王寺に埋葬され、翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営されました。

長男相続の前例を作った家光

子供の頃からぱっとせず、利発で美形の弟に出し抜かれるところを偉大な祖父に認められて3代将軍となった家光は、父よりも祖父を尊敬し崇拝していました。またもはや戦国時代ではない、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれる平和な時代にあって、伊達政宗や立花宗茂などの戦国生き残りの英雄を慕い、柳生宗矩に剣術指南を受けと、祖父家康の時代に憧れるような風もあったようです。自分は生まれながらの将軍であるという宣言は、一世一代の見栄を張ったような感じもしますが、ボロを出さずにやり遂げたのは家光を支えた春日局や松平信綱らの名臣あってこそ、そして徳川宗家の長男相続の前例を作ったことで、この後派手なお家騒動がなかったのも家光のおかげかもしれないですね。

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