日本史歴史江戸時代

生まれながらの将軍と宣言した3代目将軍「徳川家光」を歴女がわかりやすく解説

3-4、おまさの方

次男亀松(夭折)を出産。
尾張徳川家の付け家老成瀬隼人正の縁者とされ、春日局の部屋子。

3-5、京の町娘お夏の方

3男綱重 を出産。
父は京都の町人の弥市郎と言い、娘の夏が家光の子を出産したことで旗本4500石に出世、はじめ岡部八左衛門重家、のち藤枝重家と改名、尚、同じ京都出身のお玉の方のライバルだった。

綱重は家光の厄年の子であるせいで、家光姉の千姫天樹院の竹橋御殿で生まれ養育されました。後に甲府藩主となり、息子が6代将軍家宣に。

3-6、5代綱吉の母お玉の方(桂昌院)

4男5代将軍綱吉を出産。
実父は京都の八百屋、母が公家侍と再婚した縁で、公家のお万の方の部屋子募集に応じて大奥入りして、家光のお手付き女中に。尚、実家の本庄氏の兄や弟たちは、高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら大名に大出世。

お玉の出世から「玉の輿」という言葉が出来たという話

4、家光の後継者たち

家光の成人した3人の息子たちは、長男家綱が4代将軍、3男綱重は甲府藩主、4男綱吉は館林藩主に。将軍家綱の弟二人を、御両典(ごりょうてん)と称しました。御両典はともに25万石、位は正三位参議、甲府宰相、館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ家格。江戸定府で領地への参勤交代はなく、綱重は桜田御殿、綱吉は神田御殿、綱重の息子の綱豊は御浜御殿に居住。

家綱が後継ぎを残さずに亡くなった後、甲府綱重はそれ以前に亡くなっていたので4男の館林宰相綱吉が5代将軍に。綱吉も後継ぎがなく、3男綱重の息子の綱豊(徳川家宣)が6代目に。

5、家光のエピソード

家光にまつわる様々なエピソードをご紹介しましょう。

5-1、父秀忠より祖父家康を尊敬というか信仰

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By 狩野探幽大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, Link

家光は病弱で3歳のときに大病にかかったが、健康オタクだった祖父家康の調薬で回復。以後も病になるたびに祖父家康の霊夢を見て回復したという話があるそう。弟を可愛がる父母をけん制し、家光を後継ぎにと態度で示してくれたのは祖父家康、それに家康の命日と家光の誕生日が同じ17日だということで、祖父家康の恩を意識していたらしい。

寛永13年(1636年)に東照宮を造営なった後、家光は日光社参を生涯のうちに10回行い、晩年になっても家光はたびたび祖父家康の夢を見たと狩野探幽に家康の肖像を何度も描かせたほど。「二世ごんげん(権現)、二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙の入った守り袋を肌身離さず身に着けていたということです。

5-2、異母弟保科正之を信頼して重用

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By ? – 土津神社, パブリック・ドメイン, Link

正室江を愛するあまりか恐妻家の故か、父秀忠は自分の乳母の腰元との間に出来た庶子正之を養子にやり、江が生存中は対面もせず、正之が18歳になって養父の跡を継いだ時にやっと対面したということ。そのうえに正之のことを家光にも弟の忠長らにも言い残さずにあの世へ。なので家光はまったく保科正之のことを知らなかったのですが、ある日お忍びで目黒に行き立ち寄ったお寺が保科家の菩提寺で、住職がこっそりと家光の耳に。

家光は驚いて正之と対面、大いに喜んで信州高遠3万石から山形20万石へ、さらにその後会津藩23万石を与えたほど。あの問題児忠長も、正之を気に入り葵紋の入った家康の遺品を与えて、松平への復姓を薦めたということ。
正之はたいへん有能な人物で、養父の育て方も良かったのか日陰の身を恨んだりせず、家光に家臣として尽くす誠実な人柄で、老中、大老として家光とその子の次代家綱を支え、幕末まで続く会津松平家の祖に。

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異母弟が急に出て来ても大喜びで受け入れるなんて、家光はけっこう心の広いところがあるんだな。保科正之がそれだけ信頼に足る人物だったのか、これは良い話だぞ。

\次のページで「5-3、家光は武芸や能楽なども好んだ」を解説!/

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