日本史歴史江戸時代

生まれながらの将軍と宣言した3代目将軍「徳川家光」を歴女がわかりやすく解説

2-2、秀忠死去で家光の親政が開始

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寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると、いよいよ28歳の家光が将軍として独り立ちです。
まず外様大名を招集し、自分は生まれながらの将軍であると宣言、そして「大名は今後余に臣下の礼を取るべき。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の準備を始めろ」とまで。家光は加藤清正の息子忠広熊本52万石を改易したのを皮切りに秀忠より多くの大名を改易し、知行を親藩や譜代大名に分けたということ。
また幕政の中枢機関である老中、若年寄、奉行、大目付を制定し、将軍が最高権力者である幕府機構を確立。 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂で、大名に参勤交代を義務づける規定を追加。それに島原の乱の影響でキリシタン弾圧と対外貿易の管理と統制を強化、寛永18年(1641年)オランダ商館を出島に移転、貿易の管理統制を行い鎖国に突入。

島原の乱とは

島原はもとはキリシタン大名の有馬晴信の領地で、キリシタンを匿うなどの寛大な対応をしたため、キリシタン信仰の盛んな土地でしたが、有馬氏の後に領主となった松倉政重は、島原へ入ると新しい城を築城、その後江戸城の普請も負担したなどで年貢米の取り立てを強化、それに加えてキリシタンを弾圧、そして松倉政重から子の勝家の代になって、毎年天候不順で米の凶作が続いたために立て続けに飢饉に。こういう状態のなか、寛永14年10月25日(1637年12月11日)ある切っ掛けから農民たちの不満が爆発し代官を殺害。あちこちで一揆が起り島原藩だけでは収められない状態に拡大し、その後一揆勢は天草四郎と言う少年を奉じて原城に籠城。この籠城軍には弾圧されたキリシタンたちと、大名の改易が続いて巷に溢れかえっていた浪人たちで占められていました。最初、九州の大名諸侯軍の総大将として御書院番の板倉重昌の格が軽すぎて統制とれず難航、最後には松平信綱が登場し、兵糧攻めと総攻撃で寛永15年2月28日(1638年4月12日)やっと終結。籠城軍は皆殺し、松倉勝家は圧政の責任を取らされて斬首に。

2-3、家光、重臣に恵まれる

家光の時代にはほぼ江戸幕府の基盤が固まり、後々まで続く制度も確定。
それもこれも家臣が立派だったから。家光は「我が右手は忠勝、我が左手は信綱」と酒井忠勝や知恵伊豆と言われた松平信綱を全面的に信頼してお任せ。父秀忠の近習から仕え家康御落胤の噂もある大老土井利勝もいて、家光が何もしなくても彼らがすべてやってくれたと言っても過言ではないでしょう。剣道指南役で大目付の柳生宗矩、禅の道について語る沢庵和尚といったアドバイザーもいました。

尚、松平信綱、春日局、柳生宗矩は、共に家光を支えた「鼎の脚」と称されているとか。

2-4、家光、女性に興味を示さず、春日局が大奥を設立

前述のごとく、19歳で将軍になると同時に五摂家のお姫様孝子と結婚した家光ですが、最初から嫌ってしまい別居という事態に。家光は男色家、ゲイの疑い濃厚で若い頃はまったく女性に興味を示さなかったため、お世継ぎが出来ないと徳川宗家が絶える恐れを抱いた春日局は、あの手この手で女性を集め、ハーレムのような大奥を作り上げました。家光の好みのタイプはボーイッシュな女性だったよう、もう素性などめんどくさいことは関係ないとばかりに、なりふり構わず集めたので、以後、大奥ではどんな身分の女性でも、将軍の好みのタイプの美女ならば受け入れる体制になってしまったのでした。

3、家光の側室と子供たち

家光の子は1女5男(夭折2人)、側室は公家の娘、石田三成の曽孫、京都の八百屋の娘、なんと死罪人の娘まで、バラエティーに富んでいます。

3-1、石田三成の曽孫に当たるお振の方

長女千代姫を出産。
母は春日局の腹心である祖心尼の娘で父は蒲生家臣の岡重政の息子の岡吉右衛門。この岡吉右衛門の母はなんと石田三成の娘なので、お振は三成の曾孫。

千代姫は3歳で尾張家光友に嫁入りし綱誠らを出産。豪華な嫁入り道具は一度も使われず蔵で保存されていたが、今や国宝に。尾張徳川家には千代姫によって石田三成の血が入ったわけですね。

3-2、元尼僧の公家娘お万の方(永光院)

公家の六条有純の娘、伊勢慶光院の院主として寛永16年(1639年)に家光に謁見した時に家光が一目惚れして、春日局の指導で還俗して大奥入り。子供はないけれど、京都の公家の出で作法にも通じていたためか、春日局の死後の大奥で、家光が春日局と同様の取締まり役に任命。側室を辞してからも上臈として大奥の支配者として、第二の春日局と恐れられたということ。春日局の時代は質実剛健な武家風だった大奥をお万の方は華美で豪奢な京都の公家風に変えたそう。

尚、弟は戸田氏豊、京都から下って高家となって仕えました。

3-3、死罪人の娘お楽の方

長男4代将軍家綱を出産。
後に下級武士となった農民の青木三太郎利長の娘、または朝倉惣兵衛の娘と言う説も。お楽の方の父は江戸の旗本朝倉家に仕官するが、主君の金を使い込んで江戸追放され鹿麻村で蟄居。そして禁猟の鶴を撃って死罪となった人。

尚、お楽の方の弟の増山正利は、甥が将軍になったことで三河国西尾藩主2万石の大名に。

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