
奥州藤原氏の繁栄
藤原氏といえば、朝廷で政治を動かしているイメージがほとんどだと思います。しかし、実際は藤原姓であっても地方長官として都から離れて住んでいたり、平将門の乱で活躍した「藤原秀郷(俵籐太)」のように武士であったりと様々です。奥州藤原氏の祖・藤原清衡はこの藤原秀郷の子孫とされ、清衡もまた武士でした。
後三年の役で棟梁の座についた清衡は奥州での力を強める一方、都で権勢を振るう藤原北家に貢ぎものを送って奥州の統治者としての立場を強めていきます。京都から物理的にも離れている上、朝廷から派遣される国司を拒まなかったために奥州は一種の独立を保ち、中央の権力争いとは無縁の土地になりました。このあたりが朝廷と真っ向から争おうとした平将門と違うところですね。
清衡の本拠地は現在の岩手県南西の平泉で、のちに世界遺産となる中尊寺を建設したのも彼でした。奥州は砂金が豊富に取れる土地であり、北宋(中国)との貿易で生じた莫大な資産まで持っています。屋根や柱にいたるまですべてに金を被せた金色堂から、奥州藤原氏が相当なセレブだったとわかりますね。金色堂の他にも中尊寺には多くの国宝や重要文化財が納められている他、清衡からひ孫の泰衡までの四代の当主のミイラが安置されています。
奥州の勢力を懸念した頼朝
潤沢な資金を持ち、さらに源平合戦に参加しなかった奥州は無傷のまま東北に君臨しているわけです。頼朝は京都の朝廷とこの奥州藤原氏の間の鎌倉を拠点としているのですから、もし、朝廷と奥州藤原氏に挟み撃ちにされたら、頼朝はかなりの苦戦を強いられるでしょう。そもそも、こんな巨大勢力が背後にあるという状況が怖くないはずがないのです。そんな折に、追われる身だった義経が逃げ込んだ先が奥州でした。
義経潜伏が発覚、泰衡追討の宣旨に屈した奥州
奥州に義経が匿われていると知り、頼朝は再三引き渡しを要求しましたが、当時の奥州藤原氏の当主・藤原秀衡は拒否し続けます。秀衡は以前から頼朝にいろいろと難癖や注文をつけられていましたから、いずれ衝突しなければならないことはわかっていました。しかし、このとき秀衡は六十代から七十代のおじいさんで、しばらくもしないうちに亡くなってしまいます。亡くなる前に泰衡、国衡兄弟と義経の間に前述の起請文(契約)を交わさせましたが、秀衡の跡を継いだ泰衡に朝廷から追討の宣旨が出てしまい、泰衡は頼朝に屈することになるのです。
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