源平合戦が幕を下ろし、鎌倉幕府が開かれる直前の戦争が「阿津賀志山の戦い」です。相手はそれまでに頼朝が戦っていた平家とはほとんど関係がない東北地方を支配していた奥州藤原氏です。

なぜ唐突に頼朝は奥州藤原氏と争うことになったのか、日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。

なぜ奥州と鎌倉は戦いに至ったのか?

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「阿津賀志山の戦い」を含む「奥州合戦」は、鎌倉幕府と東北地方を統治していた奥州藤原氏間に起こった戦争を指します。時は1189年7月、鎌倉幕府成立から四年後のことでした。

平家を滅ぼし、京都の朝廷から政権を奪った源頼朝はなぜ奥州藤原氏をも手にかけたのか。今回はその背景から解説していきます。

源平合戦の終結と義経の官位授与

1185年三月、壇ノ浦の戦いにて六年に及んだ源平合戦は源氏側の勝利に終わりました。源氏の代表は源頼朝でしたが、実際に戦場で指揮していたのは弟の源義経です。義経は後白河法皇にこの功績を認められ、検非違使少尉と左衛門少尉の役職を与えられた上、従五位下の位を下賜されて御所に昇殿する権利まで手に入れます。しかし、義経はあくまでも兄・頼朝の部下でしたから、本来なら頼朝の許可なく官職や位を受け取ってはいけなかったのです。義経に好き勝手されてしまうと頼朝のリーダーとしての資質を疑問視されてしまいますし、そもそも抑えつけておきたい朝廷が頼朝の部下に官職を与え始めると、頼朝自身が武士の職や土地を保証することができなくなる恐れがありました。

義経が官位を受け取ったと知って頼朝は当然激怒します。しかし、相手が後白河法皇となれば義経もなかなか断るわけにもいかなかったのです。義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉へ走りましたが、結局、頼朝に受け入れられずに京都に引き返すことになります。頼朝が義経を断罪する材料は他にもありましたが、官職と位の下賜が一番大きな問題となりました。

頼朝、義経を追うために全国に関所を設ける

Actors in Kanjincho, Ichikawa Kuzo II, Ichikawa Ebizo V and Ichikawa Danjuro VIII by Kuniyoshi.jpg
By 歌川国芳 - Museum of Fine Arts, Boston, online database, パブリック・ドメイン, Link

京都に戻った義経でしたが、後白河法皇が手のひらを返して義経追討の院宣を下して京都からも追われることとなります。義経一行は追っ手と戦いながら最初は九州を目指しましたが、暴風によって船が難破したために家臣たちとはぐれてしまう不運に見舞われてしまいました。後白河法皇に与えられた官職も解任され、しかも、ここでとうとう全国に義経捕縛の院宣が下されます。この院宣をきっかけに頼朝は日本に守護と地頭の設置を後白河院に認めさせ関所を増やしたのです。

兄と敵対し朝廷にも裏切られた義経は、人々から多くの同情を集めました。後世では義経や彼の家臣を主人公とした様々な創作作品が作られます。これがいわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」ですね。歌舞伎の「勧進帳」「義経千本桜」は義経のこの逃亡劇で、今でも人気作品として上演されています。

義経と奥州藤原氏の関係

九州行きに失敗した義経は次に奥州の統治者である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って北上をはじめます。義経は幼少期を鞍馬寺で過ごしていますが、そのまま僧になることを良しとせずに出奔し、母親である常盤御前の縁を頼って秀衡のもとへ身を寄せていたのです。少年期を平泉で過ごした義経にとって奥州は第二の故郷のようなものでした。

それまでの奥州は源平合戦の間も平家と源氏の両方に対して中立の態度を続け、さらに秀衡の巧みな外交によって朝廷ともうまくやり、平和と奥州の独立性を保ち続けていました。けれど、追われる身となった義経を受け入れれば、頼朝との関係が悪化するのは火を見るよりも明らかです。それでも秀衡は義経を匿い、さらに息子の泰衡(やすひら)と国衡(くにひら)と義経の間にある契約を交わさせるのでした。その内容は「義経を主として、三人で力を合わせて頼朝の攻撃に備える」というもので、秀衡が義経をどのように思っていたのかうかがえる契約ですね。

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頼朝と奥州藤原氏の関係

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奥州藤原氏の繁栄

藤原氏といえば、朝廷で政治を動かしているイメージがほとんどだと思います。しかし、実際は藤原姓であっても地方長官として都から離れて住んでいたり、平将門の乱で活躍した「藤原秀郷(俵籐太)」のように武士であったりと様々です。奥州藤原氏の祖・藤原清衡はこの藤原秀郷の子孫とされ、清衡もまた武士でした。

後三年の役で棟梁の座についた清衡は奥州での力を強める一方、都で権勢を振るう藤原北家に貢ぎものを送って奥州の統治者としての立場を強めていきます。京都から物理的にも離れている上、朝廷から派遣される国司を拒まなかったために奥州は一種の独立を保ち、中央の権力争いとは無縁の土地になりました。このあたりが朝廷と真っ向から争おうとした平将門と違うところですね。

清衡の本拠地は現在の岩手県南西の平泉で、のちに世界遺産となる中尊寺を建設したのも彼でした。奥州は砂金が豊富に取れる土地であり、北宋(中国)との貿易で生じた莫大な資産まで持っています。屋根や柱にいたるまですべてに金を被せた金色堂から、奥州藤原氏が相当なセレブだったとわかりますね。金色堂の他にも中尊寺には多くの国宝や重要文化財が納められている他、清衡からひ孫の泰衡までの四代の当主のミイラが安置されています。

奥州の勢力を懸念した頼朝

潤沢な資金を持ち、さらに源平合戦に参加しなかった奥州は無傷のまま東北に君臨しているわけです。頼朝は京都の朝廷とこの奥州藤原氏の間の鎌倉を拠点としているのですから、もし、朝廷と奥州藤原氏に挟み撃ちにされたら、頼朝はかなりの苦戦を強いられるでしょう。そもそも、こんな巨大勢力が背後にあるという状況が怖くないはずがないのです。そんな折に、追われる身だった義経が逃げ込んだ先が奥州でした。

義経潜伏が発覚、泰衡追討の宣旨に屈した奥州

奥州に義経が匿われていると知り、頼朝は再三引き渡しを要求しましたが、当時の奥州藤原氏の当主・藤原秀衡は拒否し続けます。秀衡は以前から頼朝にいろいろと難癖や注文をつけられていましたから、いずれ衝突しなければならないことはわかっていました。しかし、このとき秀衡は六十代から七十代のおじいさんで、しばらくもしないうちに亡くなってしまいます。亡くなる前に泰衡、国衡兄弟と義経の間に前述の起請文(契約)を交わさせましたが、秀衡の跡を継いだ泰衡に朝廷から追討の宣旨が出てしまい、泰衡は頼朝に屈することになるのです。

奥州合戦に散った奥州藤原氏

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義経自害、首を鎌倉へ送る

頼朝が朝廷に泰衡追討を要求し、とうとうそれがかなうやいなや、頼朝は本腰を入れて奥州攻略に乗り出しました。父・秀衡の遺言に従って義経の受け渡しを拒んでいた泰衡でしたが、自分自身が朝敵とみなされると頼朝に膝を折るしかありませんでした。泰衡追討を取り下げさせるため、彼は再三要求されていた義経の首を差し出すことにします。かくして、泰衡はこれまで匿っていた義経を討つことになりました。

泰衡は500人の兵を従えて義経が居を置いていた衣川館に攻め入ります。対する義経は腹心の弁慶を含めてたった10人。必死に応戦しましたが、いくら源平合戦を戦い抜いた猛将であってもこの数では多勢に無勢です。ひとり、またひとりと討死する中、弁慶は多くの矢を体中に受けて絶命しますが、仁王立ちしたまま倒れなかったために敵方は警戒してしばらく近寄れませんでした。これがあの「弁慶の立往生」です。家臣が死に絶え、残された義経も衣川館で自害してしまいます。

頼朝、全国に動員令を通達

「衣川の戦い」で勝利した泰衡は義経の首を美酒につけて鎌倉に送り、これで奥州を攻めないでほしい、と頼朝に従う意思を示します。けれど、「頼朝の家人である義経」を「頼朝の許可も得ずに殺害」したとして頼朝は泰衡追討を取り下げません。さらに、それまで義経を匿っていたことは許しがたい大罪だとし、日本全国の兵を集めて奥州へ攻め入ります。頼朝は全国統治が目標だったので、奥州に別の統治者がいるのはとても都合が悪いわけです。泰衡追討は何が何でも絶対に成功させなければなりませんでした。

阿津賀志山の戦いの推移

泰衡としても、簡単に侵略を許すわけにはいかないので防戦せざるを得ません。奥州側は阿津賀志山の麓に堀を造り、阿武隈川の水を引いて「阿津賀志山防塁」を築き、国衡を総大将として頼朝の進行に備えました。奥州軍は防塁を盾に激しく抵抗を繰り返しましたが、しかし、鎌倉軍の奇襲で大将首を取られると混乱に陥り、敗退していきます。国衡が討ち取られ、阿津賀志山防塁の後方に造設した根無藤の城郭が激戦の末に陥落すると、もう勝敗は決したようなものでした。

奥州藤原氏の滅亡

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「阿津賀志山防塁」で激戦が繰り広げられる一方、泰衡は国分原に陣を構えていました。けれど、「阿津賀志山の戦い」で勝敗が決したとみるや平泉へ逃げ帰ります。この戦いで多くの兵を失った泰衡には、もはや頼朝に逆転するような手はありませんでした。平泉までの城は次々と落とされ、泰衡はとうとう平泉からも逃亡しました。その際、自ら邸宅に火を放っていきます。奥州藤原氏が建立した中尊寺にたくさんの国宝が眠っているのですから、本宅にはいったいどれほどの財宝があったことか。敵の手に渡るくらいならと燃やしたのでしょうが、惜しいことこの上ありません。

そして、数日後には泰衡から頼朝に助命を求める手紙を投げ込まれますが、頼朝はこれをまったく無視してしまうのです。逃げるよりなくなった泰衡は北へ向かうのですが、その途中で奥州藤原氏に古くから仕えていた家臣の裏切りに合って殺されてしまいました。泰衡は晒し首にされたのち、父・秀衡たちと同じように中尊寺に埋葬されます。平泉の炎上と泰衡の死をもって、四代続いた奥州藤原氏と平泉の栄華はここに幕を下ろすのでした。

奥州合戦の戦後処理

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熾烈な争いとなった奥州合戦でしたが、その期間は二ヶ月。阿津賀志山の戦いから泰衡の死まではわずか26日ほどの出来事でした。

その後、泰衡の家臣の生き残りが仇討に乱を起こしますが、これも三ヶ月で平定されてしまいます。奇しくもこの反乱によって奥州にくすぶっていた残存勢力が排除され、鎌倉幕府の支配が奥州に行き渡ることとなりました。また。奥州は砂金の産地でしたが、もともと秀衡の代には産出量が減っていたこともあり、全盛期のような富は徐々になくなっていきます。

後世では、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉が平泉を訪れた際に「夏草や 兵どもが 夢のあと」という句を『おくのほそ道』に残していますね。これは奥州合戦で滅んだ奥州藤原氏や、自害に追い込まれた義経に寄せられた一句です。簡単に訳しますと「あれほど栄えた奥州藤原氏や英雄であった義経が夢のように消え、今は夏草が生い茂るのみ」。なんとも物悲しい風景を想像してしまいますね。

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明日をも我が身「盛者必衰の理」

松尾芭蕉の「兵どもが 夢のあと」や『平家物語』冒頭の「盛者必衰の理あり」というように、繁栄していた奥州藤原氏もまた歴史の露と消えてしまいました。もともと奥州藤原氏は、平家と違って中立であり、朝廷や頼朝とも穏便にしてきましたが、栄華を極めてしまったがゆえに頼朝に目を付けられた感が否めませんね。落ち目にあった平家とは違って奥州は元気なわけですから気合の入り方も違います。

絶対に奥州藤原氏を許さず徹底的に滅ぼした頼朝ですが、残念なことに彼の生涯は長くはありませんでした。頼朝の死因は落馬であったとされています。武士なのに落馬が原因で亡くなるとは尋常ではありません。これは義経の祟りではないか、と歴史書にも書かれるほどのことです。これもまた「盛者必衰の理」ですね。

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日本史歴史鎌倉時代

「阿津賀志山の戦い」でなぜ奥州藤原氏は滅ばなければならなかったのか。源平マニアが5分でわかりやすく解説

源平合戦が幕を下ろし、鎌倉幕府が開かれる直前の戦争が「阿津賀志山の戦い」です。相手はそれまでに頼朝が戦っていた平家とはほとんど関係がない東北地方を支配していた奥州藤原氏です。

なぜ唐突に頼朝は奥州藤原氏と争うことになったのか、日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。

なぜ奥州と鎌倉は戦いに至ったのか?

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「阿津賀志山の戦い」を含む「奥州合戦」は、鎌倉幕府と東北地方を統治していた奥州藤原氏間に起こった戦争を指します。時は1189年7月、鎌倉幕府成立から四年後のことでした。

平家を滅ぼし、京都の朝廷から政権を奪った源頼朝はなぜ奥州藤原氏をも手にかけたのか。今回はその背景から解説していきます。

源平合戦の終結と義経の官位授与

1185年三月、壇ノ浦の戦いにて六年に及んだ源平合戦は源氏側の勝利に終わりました。源氏の代表は源頼朝でしたが、実際に戦場で指揮していたのは弟の源義経です。義経は後白河法皇にこの功績を認められ、検非違使少尉と左衛門少尉の役職を与えられた上、従五位下の位を下賜されて御所に昇殿する権利まで手に入れます。しかし、義経はあくまでも兄・頼朝の部下でしたから、本来なら頼朝の許可なく官職や位を受け取ってはいけなかったのです。義経に好き勝手されてしまうと頼朝のリーダーとしての資質を疑問視されてしまいますし、そもそも抑えつけておきたい朝廷が頼朝の部下に官職を与え始めると、頼朝自身が武士の職や土地を保証することができなくなる恐れがありました。

義経が官位を受け取ったと知って頼朝は当然激怒します。しかし、相手が後白河法皇となれば義経もなかなか断るわけにもいかなかったのです。義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉へ走りましたが、結局、頼朝に受け入れられずに京都に引き返すことになります。頼朝が義経を断罪する材料は他にもありましたが、官職と位の下賜が一番大きな問題となりました。

頼朝、義経を追うために全国に関所を設ける

Actors in Kanjincho, Ichikawa Kuzo II, Ichikawa Ebizo V and Ichikawa Danjuro VIII by Kuniyoshi.jpg
By 歌川国芳Museum of Fine Arts, Boston, online database, パブリック・ドメイン, Link

京都に戻った義経でしたが、後白河法皇が手のひらを返して義経追討の院宣を下して京都からも追われることとなります。義経一行は追っ手と戦いながら最初は九州を目指しましたが、暴風によって船が難破したために家臣たちとはぐれてしまう不運に見舞われてしまいました。後白河法皇に与えられた官職も解任され、しかも、ここでとうとう全国に義経捕縛の院宣が下されます。この院宣をきっかけに頼朝は日本に守護と地頭の設置を後白河院に認めさせ関所を増やしたのです。

兄と敵対し朝廷にも裏切られた義経は、人々から多くの同情を集めました。後世では義経や彼の家臣を主人公とした様々な創作作品が作られます。これがいわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」ですね。歌舞伎の「勧進帳」「義経千本桜」は義経のこの逃亡劇で、今でも人気作品として上演されています。

義経と奥州藤原氏の関係

九州行きに失敗した義経は次に奥州の統治者である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って北上をはじめます。義経は幼少期を鞍馬寺で過ごしていますが、そのまま僧になることを良しとせずに出奔し、母親である常盤御前の縁を頼って秀衡のもとへ身を寄せていたのです。少年期を平泉で過ごした義経にとって奥州は第二の故郷のようなものでした。

それまでの奥州は源平合戦の間も平家と源氏の両方に対して中立の態度を続け、さらに秀衡の巧みな外交によって朝廷ともうまくやり、平和と奥州の独立性を保ち続けていました。けれど、追われる身となった義経を受け入れれば、頼朝との関係が悪化するのは火を見るよりも明らかです。それでも秀衡は義経を匿い、さらに息子の泰衡(やすひら)と国衡(くにひら)と義経の間にある契約を交わさせるのでした。その内容は「義経を主として、三人で力を合わせて頼朝の攻撃に備える」というもので、秀衡が義経をどのように思っていたのかうかがえる契約ですね。

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