宮城県に行くと、伝統を感じさせる場所がたくさんある。そのなかには仙台藩の時代に始まったものが少なくなのです。伊達政宗が関わっているものも多い。宮城をめぐると仙台藩の歴史に触れる機会がたくさんある。

それじゃ、現代に継承されている仙台藩の伝統について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。宮城県にかかわる仕事が多いことから仙台の歴史に興味を持つように。宮城県に行くと、いろいろなところで「仙台藩」の話を耳にする。そこで現在の仙台に息づく「仙台藩」の歴史の記事をまとめた。

仙台藩は伊達政宗が樹立した藩

image by PIXTA / 5320799

仙台藩は仙台城を拠点とする藩。江戸時代に、岩手県南部から宮城県全域、福島県新地町あたりを治めていました。仙台藩を樹立したのが外様大名の伊達政宗。明治時代に廃藩置県が行われるまでのあいだ、伊達本家により統括されました。

伊達政宗とは?

伊達政宗は仙台藩の初代の当主。小さいころに、天然痘を患ったことから右目を失明します。そこから後に「独眼竜」という異名が浸透することになりました。

関ケ原の戦いを通じて力をつけた政宗は、徳川家康の許しを得て仙台に城と城下町の建設をはじめます。それが1601年のこと。これが仙台藩の始まりとなります。

仙台藩の勢力は関東大名を恐れさせた

伊達政宗は、戦国時代を生き延びた大名。生まれた時期が早かったら天下をとっていたかもしれないという声も。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の流れを変えていた可能性があるとも言われています。

伊達政宗は、関ヶ原の戦いでは家康のもとにつきました。しかし江戸幕府樹立以降も、彼の存在は恐れられていたようです。

家康は、河川が氾濫することと、伊達政宗が侵攻することを防ぐために利根川の工事を実行。利根川は、もともと江戸につながっていましたが、現在の千葉県銚子市の方に水路が変更されました。

仙台藩は宮城の祭り文化を生み出した

image by PIXTA / 31938480

仙台をはじめ宮城県内では、たくさんのお祭りが開催されています。その多くは仙台藩の時代に起源が。藩に対する求心力を高めるものとして仙台藩はお祭りを重視していたようです。

仙台・青葉祭りの起源は仙台藩主催によるもの

毎年5月に宮城県仙台市で開催される青葉祭り。このお祭りの起源は1655年までさかのぼります。由来となるのが東照宮のお祭りである「東照宮御祭礼」。仙台藩の2代目の藩主である伊達忠宗によりはじめられました。

江戸時代は9月17日に開催。江戸時代を通じて神輿をかついで練り歩く神輿渡御が行われました。明治維新による仙台藩の消滅や太平洋戦争の影響で中断。1985年に仙台・青葉祭りとして復活させました。

仙台七夕祭りは伊達政宗が推奨したことから盛んに?

伊達政宗が女性の文化向上のために推奨したことから、仙台には七夕の風習が強く根づいたとされています。詳細は不明。とはいえ政宗が詠んだ七夕に関する歌が7首のこされています。

まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ(1618年)
七夕の 逢夜なからも 暁の 別はいかに 初秋の空(1629年)

これらから政宗の時代にすでに年中行事の一環として開催されていたと推測。仙台七夕祭りは政宗に起源があるとされています。

\次のページで「仙台藩は温泉を楽しむために御殿湯を作った!」を解説!/

仙台藩は温泉を楽しむために御殿湯を作った!

image by PIXTA / 42678163

江戸時代を通じて仙台藩は藩の保養地として温泉施設を整備しました。そのときの温泉の多くは、今でも日本を誇る名湯としてたくさんの観光客を呼び寄せています。

仙台藩主専用の御殿湯が設置されたのが青根温泉

青根温泉は蔵王連峰の東側にある温泉街。温泉の歴史は1528年にさかのぼります。アオヌキの木の下からお湯が沸いていたため、青根温泉という名前がつけられたとのこと。

江戸時代には仙台藩主が使う湯治場として豪華な青根御殿が建てられました。しかし明治時代に焼失。現在あるものは昭和初期に再現されたものです。

東鳴子温泉は岩出山城主も楽しんでいた

東鳴子温泉のはじまりは諸説がありますが、すでに奈良時代にはあったと言われています。江戸時代は、青根温泉と並んで仙台藩主の保養地として発展。藩主専用の御殿も建てられました。

この御殿湯を利用していたのは仙台藩主と岩出山城主。岩出山城の初代城主は政宗の4男である宗泰。政宗の子孫である岩出山伊達家も温泉を楽しんでいたことになります。

仙台藩はスペインとの通商を目指して慶長遣欧使節団を派遣

image by PIXTA / 44291161

サン・ファン・バウティスタ号は江戸時代の初めに伊達政宗が作ったガレオン船。スペインとの通商を目指し、あわせて4回(2往復)の航海が試みられました。

伊達政宗がサン・ファン・バウティスタ号を建造

1614年に徳川家康から正式に許可をうけた政宗は、スペインとの貿易交渉を試みることに。仙台藩士である支倉常長を外交使節に任命。太平洋を横断する計画を立てました。そこで造船したのがサン・ファン・バウティスタ号です。

サン・ファン・バウティスタ号は現在の石巻にある月浦を出発。幕府直属の武士、仙台藩直属の武士、商人、水夫などをのせてアカプルコ(メキシコ)に向かいました。それから神奈川の浦賀-アカプルコを往来します。

しかし2往復目の帰路、スペインに対する防衛のためオランダに売却せざるを得ない状況に。そのため最後は別の船に乗って長崎に到着。そこから仙台に戻りました。

幕府の禁教令により挫折

2往復目が終わったころにはサン・ファン・バウティスタ号をめぐる状況は変化。キリスト教およびキリシタンの弾圧が強まり、スペインとの通商をすすめることは難しくなりました。

航海が復活することはなく、航海日誌などもすべて破棄。サン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公式の記録文書は消滅しました。

残っている主な記録が伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書。バチカンの教皇庁宝物館にて保管されています。

仙台藩の「伊達な文化」を満喫するなら寺院めぐりが欠かせない

Zuiho-den06s3200.jpg
By 663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

初代仙台藩主である伊達政宗は、京に負けない上方文化を当地に根づかせることを目標としていました。それが今日「伊達な文化」という言葉で表現されています。

「伊達な文化」の特徴は豪華絢爛さ。上方の桃山文化を影響を感じさせるものでした。上方から一流の職人を呼び寄せ、凝った作りの彫刻や極彩色からなる障壁画を取り入れた寺院を作らせていきます。

\次のページで「瑞鳳殿は桃山文化の影響を受けた霊廟」を解説!/

瑞鳳殿は桃山文化の影響を受けた霊廟

瑞鳳殿は、政宗が生前に残した遺言に従って建てられた霊廟。桃山文化の影響を受けた豪華絢爛な装飾が際立っています。

そのコンセプトは瑞雲なかを舞う天女が亡き政宗を慰めるというもの。仏教的な要素をベースに、蝶や牡丹のような中国絵画のスタイルも加えられました。さらに天を舞う竜は道教の影響を感じさせます。

色彩も漆黒、金、朱、緑、青などカラフルなデザイン。政宗が生前に企画した部分も大きいと言われる瑞鳳殿。彼がいかに華やかな文化が好きだったかがよく分かります。

大崎八幡宮は漆塗りがぜいたくにほどこされた建築物

大崎八幡宮がひらかれたのが1607年。室町時代につくられた大崎八幡宮を仙台に移転させたものです。御社殿は桃山文化の伝統を受け継ぐ豪華絢爛さが満載。瑞鳳殿と同じく、政宗の趣向が強く反映された建築物となっています。

漆塗りの手法をぜいたくに使った明るい雰囲気が特徴。彫刻や飾り金具はカラフルな極彩色で、凝ったデザインがほどこされました。この御社殿は、仙台市内でただひとつ国宝に指定されている建築物です。

グルメ王伊達政宗が着手した食の改革

image by PIXTA / 37240947

伊達政宗は、家康、秀忠、家光の3将軍を仙台藩屋敷に招待してもてなしたことがあります。そのときの懐石料理のメニューは政宗自身が考えました。食通エピソードも多数ある政宗。そこから仙台藩の地盤となる「食」の改革を実践することに。それらは宮城県の名産品として今なお受け継がれています。

東北を小京都にするためにお茶の栽培を開始

仙台藩時代の財政を支えた生産物のひとつがお茶。そのきっかけを作ったのが伊達政宗です。もともとお茶好きであった政宗。仙台藩内でお茶の栽培を始めさせます。

政宗が目指していたのが、仙台藩を「宇治」と並ぶお茶の産地に成長させること。実際、仙台藩は江戸時代を通じて茶の産地として名をはせます。しかし、明治期以降は静岡等に押されて生産農家は少なくなりました。

最近の宮城県では仙台藩時代にさかえたお茶づくりを復興させる動きが。そうして作られたお茶が「伊達茶」です。希少なお茶として贈答用などに利用されるようになりました。

仙台味噌は城中の食事を通じて広まった?

仙台味噌は、仙台藩にゆかりがある赤味噌です。伊達政宗は仙台城下で味噌を作らせていました。その理由のひとつが城に仕える人々の食料。品質を高めながら、仙台藩直属の味噌醸造所にて大量生産されました。

江戸に仙台味噌を伝えたのが二代目藩主の伊達忠宗。江戸の仙台藩邸に住んでいる武士たちが仙台味噌を食べられるように、原料を江戸に送って味噌を作り始めます。

仙台味噌を特徴づける辛味に、江戸で好まれる甘さをくわえて改良。江戸でも仙台味噌が知られるようになりました。

仙台藩の海の幸は幕府に外貨をもたらす

image by PIXTA / 10605954

江戸時代、三陸海岸の北側は南部藩、南側は仙台藩が治めるエリアとなっていました。当時から海の幸に恵まれており、とくに高級食材は輸出のための「俵物」として長崎に送られました。

\次のページで「長崎俵物は外国に輸出するための商品」を解説!/

長崎俵物は外国に輸出するための商品

江戸時代に海外に輸出された品々のことを俵物と言います。俵につめて船に乗せられたことから、俵物という名前がつきました。俵物の輸出先は中国(清)。いりなまこ、ほしあわび、ふかひれの3品が対象。いずれも乾物として出荷されました。

仙台藩は「ほしあわび」と「ふかひれ」を輸出

仙台藩は三陸海岸でとれるあわびやサメを加工。ほしあわび、ふかひれを長崎俵物として輸出しました。とくに有名だったのがほしあわび。仙台藩領にあった気仙郡吉浜村の名前をとり、吉品鮑(かっぱんぱお)と呼ばれていたそうです。

この3品は高級食材として需要が高く、中国に広まっていきました。長崎俵物は中国にて生糸などに変えられ逆輸入されました。

仙台藩は経済力を高めるためにお米を増産

image by PIXTA / 38967919

仙台藩の主要な生産物はお米。江戸時代を通じて広いエリアが開拓され新田に。多くのお米が収穫されるようになりました。それらは石巻の港から江戸に運ばれ、仙台藩に多額の利益をもたらしました。

仙台藩のお米のニーズの高まりは江戸の人口増加

伊達政宗が仙台藩を開いたとき、このエリアは何もない野原。とはいえ仙台藩内をながれる河川の周囲は米作りにぴったりでした。そこで政宗は新田開発を推し進めていきます。

この政策は功を奏しました。江戸は爆発的に人口が増えて食料不足に。そこで仙台藩内で収穫されたお米が江戸につみだされるようになったのです。

お米を効率的につみだすために治水工事を慣行

それから仙台藩主の2代目、3代目と新田開発が引き継がれていきます。それに伴い、お米を効率よく石巻の港から江戸に運ぶために治水工事も行われました。

石巻の港にそのまま運べるように最上川の水路を変更。それにより大崎→石巻→江戸というお米を運搬する経路が確立しました。石巻は東北地方を代表する港として発展。たくさんの船が出入りするようになりました。

宮城を歩くと仙台藩時代の名残にたくさん出会える

仙台藩というと初代の伊達政宗のキャラクターや活躍に目が行きがち。しかし、江戸時代を通じて外交、貿易、文化など、いろいろな挑戦が続けられていることも見逃せません。とくにうれしいことは、仙台藩時代の名残にじかに触れられる寺院、イベント、観光施設、食文化などが、たくさん宮城に残っていること。宮城県に観光に行くときは仙台藩の情報を頭にいれておくとさらに楽しめると思います。

" /> 「仙台藩」を元大学教員がわかりやすく解説!仙台藩の歴史を感じられるゆかりの場所・イベントもご紹介 – ページ 3 – Study-Z
日本史歴史江戸時代

「仙台藩」を元大学教員がわかりやすく解説!仙台藩の歴史を感じられるゆかりの場所・イベントもご紹介

瑞鳳殿は桃山文化の影響を受けた霊廟

瑞鳳殿は、政宗が生前に残した遺言に従って建てられた霊廟。桃山文化の影響を受けた豪華絢爛な装飾が際立っています。

そのコンセプトは瑞雲なかを舞う天女が亡き政宗を慰めるというもの。仏教的な要素をベースに、蝶や牡丹のような中国絵画のスタイルも加えられました。さらに天を舞う竜は道教の影響を感じさせます。

色彩も漆黒、金、朱、緑、青などカラフルなデザイン。政宗が生前に企画した部分も大きいと言われる瑞鳳殿。彼がいかに華やかな文化が好きだったかがよく分かります。

大崎八幡宮は漆塗りがぜいたくにほどこされた建築物

大崎八幡宮がひらかれたのが1607年。室町時代につくられた大崎八幡宮を仙台に移転させたものです。御社殿は桃山文化の伝統を受け継ぐ豪華絢爛さが満載。瑞鳳殿と同じく、政宗の趣向が強く反映された建築物となっています。

漆塗りの手法をぜいたくに使った明るい雰囲気が特徴。彫刻や飾り金具はカラフルな極彩色で、凝ったデザインがほどこされました。この御社殿は、仙台市内でただひとつ国宝に指定されている建築物です。

グルメ王伊達政宗が着手した食の改革

image by PIXTA / 37240947

伊達政宗は、家康、秀忠、家光の3将軍を仙台藩屋敷に招待してもてなしたことがあります。そのときの懐石料理のメニューは政宗自身が考えました。食通エピソードも多数ある政宗。そこから仙台藩の地盤となる「食」の改革を実践することに。それらは宮城県の名産品として今なお受け継がれています。

東北を小京都にするためにお茶の栽培を開始

仙台藩時代の財政を支えた生産物のひとつがお茶。そのきっかけを作ったのが伊達政宗です。もともとお茶好きであった政宗。仙台藩内でお茶の栽培を始めさせます。

政宗が目指していたのが、仙台藩を「宇治」と並ぶお茶の産地に成長させること。実際、仙台藩は江戸時代を通じて茶の産地として名をはせます。しかし、明治期以降は静岡等に押されて生産農家は少なくなりました。

最近の宮城県では仙台藩時代にさかえたお茶づくりを復興させる動きが。そうして作られたお茶が「伊達茶」です。希少なお茶として贈答用などに利用されるようになりました。

仙台味噌は城中の食事を通じて広まった?

仙台味噌は、仙台藩にゆかりがある赤味噌です。伊達政宗は仙台城下で味噌を作らせていました。その理由のひとつが城に仕える人々の食料。品質を高めながら、仙台藩直属の味噌醸造所にて大量生産されました。

江戸に仙台味噌を伝えたのが二代目藩主の伊達忠宗。江戸の仙台藩邸に住んでいる武士たちが仙台味噌を食べられるように、原料を江戸に送って味噌を作り始めます。

仙台味噌を特徴づける辛味に、江戸で好まれる甘さをくわえて改良。江戸でも仙台味噌が知られるようになりました。

仙台藩の海の幸は幕府に外貨をもたらす

image by PIXTA / 10605954

江戸時代、三陸海岸の北側は南部藩、南側は仙台藩が治めるエリアとなっていました。当時から海の幸に恵まれており、とくに高級食材は輸出のための「俵物」として長崎に送られました。

\次のページで「長崎俵物は外国に輸出するための商品」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: