日本史

2代将軍「徳川秀忠」を歴女が解説!実直が服を着て歩いているような秀忠の生涯とは

5-1、秀頼と忠刻に嫁ぎ、晩年は徳川宗家の女主人代わりだった長女千姫(天樹院) 

豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
5歳で大坂城の従兄に当たる秀頼と結婚。大坂夏の陣で助け出されたとき、祖父家康は喜んだが、父秀忠はなぜ秀頼と死ななかったかと暴言を吐いたが、本気じゃなかったはず。その後、家康の曽孫にもなる本多忠刻と結婚、死別後に江戸に戻り、弟家光や春日局に信頼され、大奥設立にもかかわり、家光の息子綱重の養育を任されたことも。千姫の娘勝姫は祖父に当たる秀忠の養女として岡山藩主の池田光政と結婚。

5-2、3歳で前田利常に嫁いで幸せだったが、乳母のお節介が仇になった次女珠姫(天徳院)

加賀の前田利常室
千姫より早く3歳で加賀に嫁ぐ。利常との仲は良好で、次々と3男5女が生まれた。が、外様筆頭の利常に幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母が珠姫を隔離、珠姫は利常の愛が冷めたと勘違いし衰弱して24歳で死去。珠姫を愛していた利常は珠姫の遺言ですべてを知り、この乳母を蛇攻めで処刑した話は有名。

5-3、従兄忠直に嫁ぐが改易に、お家騒動にも口を出した三女勝姫(天崇院)

松平忠直室
従兄にあたる忠直に嫁ぐも、忠直は乱心で改易に。勝姫は孫娘の嫁ぎ先のお家騒動に口を出すほど気の強い女性で、その結果孫娘と婿が自殺というむごいことに。

5-4、伯母常高院の養女となった四女初姫(興安院)

京極忠高室
伏見城で生まれてすぐに、母江の姉京極家に嫁いだ初、常高院にもらわれたという。そして同じ名前を付けられて育てられ、京極家の跡取りで側室から生まれた忠高と結婚、しかし不仲で若死、臨終の際も忠高は相撲見物していたそう。葬儀も忠高シャットアウトで父秀忠や兄家光の手で徳川家で行われ徳川家の墓に入った薄幸の姫。

5-5、3代将軍次男徳川家光

幼名竹千代、子供の頃は病気がちで、吃音もあり、秀忠、江ともにあまり可愛がらず、弟の国松ばかり可愛がったが、乳母の春日局の尽力で家康が登場、しっかり跡継ぎの座を確保し、無事に江戸幕府3代将軍に。

5-6、駿河大納言と呼ばれた三男徳川忠長

駿府城主で駿河大納言と称される
幼名国松(または国千代)、子供の頃は容姿端麗才気煥発で母江に可愛がられ、引きずられた秀忠も可愛がっていたのは、なんと大伯父にあたる織田信長に似ていたからということ。あわや兄家光をさしおいて跡取りにと言うところだったが、家康采配で却下。その後は次男らしく駿河、遠江、甲斐合わせて55万石の大名になるも、不満たらたら。かばってくれた母江の死後はますます孤立し、罪のない家臣や農民を手討ちにするなど不行跡の数々、挙句、100万石くれ、それか大坂城主になりたいと父秀忠に書状を送り呆れられたそう。ご乱行がエスカレートし過ぎてとうとう知行召し上げて蟄居させ、秀忠寿命を縮めることになったが、危篤の父の病床へも面会拒否。織田家には美形と狂気の遺伝があるようでこの人にもそれが伝わったのかも。父秀忠死後1年で幕命で切腹、享年28歳。

5-7、中宮となり、後京都文化をリードした五女和子(東福門院)

後水尾天皇中宮、明正天皇生母
政略結婚で後水尾天皇に入内したけれど、天皇との仲は良好、気が強い後水尾天皇と押さえつけようとする幕府の間を取り持つために気を配る人生に。
また修学院離宮を建てた費用の大半を幕府から捻出させるなど、寛永文化といわれる文芸芸術の振興に後水尾天皇と共に貢献。茶道を好み、宮中に小袖を着用する習慣を持ち込み、尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立て、小袖のデザインは後に寛文小袖と言われるように。また押絵が得意な手先の器用な女性だったそう。

5-8、生母が静(浄光院) 四男保科正之

会津松平家初代
慶長16年(1611年)生まれ、幼名幸松
秀忠は江を恐れて側室を持たなかったけれど、唯一秀忠の乳母大姥局の侍女に手を付けて生まれたと言われる庶子。正之の出生は秀忠側近の老中土井利勝や井上正就他、数名のみしか知らぬことで、江存命中は決して名乗りをせず、保科家へ養子にやり、18歳のとき保科家相続の際、初めて対面したくらいで、息子家光や忠長にも言い残さなかったという。しかし、正之の存在を知った家光は大喜びしてすぐに面会、忠長も気に入ったということです。正之は有能な老中として兄家光とその息子4代将軍家綱を補佐。子孫は松平を名乗り親藩に。

6、秀忠にまつわる色々なエピソード

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