日本史

2代将軍「徳川秀忠」を歴女が解説!実直が服を着て歩いているような秀忠の生涯とは

3-1、秀忠、関ケ原の戦いでやらかす

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秀忠21歳のとき、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが勃発。徳川軍は、家康が江戸から東海道を進む本隊を率いて進み、秀忠は中山道を進む別働隊を率いて西を目指しました。秀忠は初陣ではりきっていましたが、3万8000人の大軍を率いながら、わずか2000人が籠城する信州上田城での真田昌幸、信繁(幸村)父子の奮闘に手こずり、天候不順による進発命令と行軍の遅れもあって、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、家康激怒。

9月20日に大津に到着した秀忠は、戦勝祝いと合戦に遅れた弁明のために父家康に面会を求めたが家康に面会断られ、重臣の榊原康政らのとりなしで、翌日か3日後にようやく面会してもらえました。

関が原合戦はまさか1日で終わるとは思えなかった戦いですが、それにしても5日も遅れるとは。

3-2、秀忠、正式に家康の跡継ぎに決定

関ヶ原の戦いのあとで家康は、結城秀康、秀忠、松平忠吉のうちどの息子を後継者を誰にすべきかを家臣に相談。その結果、本多正信は結城秀康を、井伊直政と本多忠勝は松平忠吉、大久保忠隣は、乱世においては武勇が肝要だけれど、天下を治めるための文徳も必要なので、知勇と文徳を持ちしかも謙譲な人柄の秀忠、と秀忠に1票。

それを聞いた家康は、改めて正式に後継者を秀忠とすると決定

4-1、家康、征夷大将軍に就任し幕府を開き、2年後秀忠に譲る

慶長8年(1603年)家康は征夷大将軍に就任。江戸に幕府を開いた家康は、徳川家の将軍職世襲を確実にするために秀忠を右近衛大将にと朝廷に奏上。秀忠は慶長8年(1603年)に右近衛大将に任命されたことで、将軍の世襲と徳川宗家の継承がほぼ内定。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれていましたが、以後代々の徳川将軍家で右大将といえば、将軍家世嗣という意味に。

そして2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代将軍、家康は隠居して大御所と呼ばれるように。家康が亡くなるまで、江戸の将軍と駿河の大御所の二元体制が機能していました。

4-2、秀忠将軍、大坂の陣でもやらかし、家康激怒

慶長19年(1614年)に、大坂冬の陣が勃発。秀忠将軍は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発。関ヶ原の戦いの時に遅延した失敗を取り返そうとしたのか、かなりの強行軍で東海道を突っ走って、わずか17日で伏見城に到着。しかし軍勢はあまりの強行軍に疲労困憊、とてもこれから戦える状況ではなかったそう
途中でこのことを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて進軍するよう命じる手紙を送ったが、秀忠無視して強行軍を続け、家康は叱責する使者も送ったけれど、更に無視して強行軍を続行したこともあって家康は怒り心頭に。そして慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、秀忠先陣を主張して名誉挽回をはかり先陣を務めたものの、大坂城の真田信繁(幸村)らの狙いはひとえに家康の首だったため、激戦は家康の陣が中心に。

秀忠の長兄の信康、次兄秀康、弟の忠吉は、カリスマ性があり武勇も知略もある名将とされているので、秀忠は家康の跡継ぎとして武功を立てたいと焦る気持ちがあったはずだけど、どうも空回りしているとしか思えないですね。

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うむ、関が原で遅れたから大坂の陣では遅れないように必死で強行軍とは、笑えるくらい秀忠の愚直な性格が表れているが、親近感がもてるような人間らしいエピソードだな。

4-3、秀忠、内政ではリーダーシップを発揮する

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元和2年(1616年)に家康が死去。いよいよ秀忠将軍の親政開始。秀忠は、譜代大名の酒井忠世、土井利勝らを老中に任命、幕府の中枢を側近で固め、大名統制を強化。まず、福島正則ら多くの外様大名から松平忠輝などの身内までも改易、配流し、熊本藩の内紛も裁き、家康晩年の子で息子と同世代の3人の末弟たちに尾張、紀伊、水戸を与え、次男の忠長は駿河、遠江、甲斐の大名に。また朝廷に対しても厳しい監視、引き締めを行うためか、末娘の和子を後水尾天皇の中宮に入内。そして鎖国のための布石として、外国船寄港を平戸と長崎に限定させる処置も。
公家諸法度、武家諸法度などの法を整備して定着させ、紫衣事件では寺社勢力を処断、後水尾天皇をけん制して激怒させるほどの強引さをもって武家政権の基礎を確立させました。

紫衣事件(しえじけん)

紫衣とは、古くから宗派を問わず高徳の僧や尼が朝廷から賜った紫色の法衣や袈裟のことで、いかに位の高い僧や尼かということを表す物で、朝廷、天皇にとっては大事な収入源の一つでもありました。
しかし江戸幕府が慶長18年(1613年)に、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を、さらに慶長20年(1615年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、幕府が認めた以外に朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁止する処置を。
しかし幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例に従って、幕府に無断で十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたので、幕府は寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がないので違反とみなし、多くの勅許状の無効として、京都所司代の板倉重宗に天皇が下賜した紫衣を取り上げたのですね。
このことで後水尾天皇は激怒して中宮和子の産んだ女一の宮に譲位したほど。また、大徳寺住職の沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出したものの、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪、後に大御所秀忠死去に伴う大赦令で許され、高僧たちの紫衣も元通りになりましたが、この事件で江戸幕府の方が天皇よりも上から命令する存在ということが明確になった次第。

4-4、秀忠、息子家光に将軍職を譲って大御所に

秀忠は元和9年(1623年)に上洛し御所へ参内、そして将軍職を嫡男家光に譲りました。このとき44歳。父家康と同じく引退後も大御所として二元政治に。当初は小田原城に移る予定だったが、江戸城本丸から西の丸に移っただけ。
寛永7年(1630年)には秀忠娘の和子が産んだ孫の女一宮が天皇に即位して明正天皇に、秀忠は天皇の外戚になりました。
寛永8年(1631年)に乱行乱心の噂があった次男忠長の領地を召し上げて蟄居させた後体調を崩して寛永9年(1632年)1月に死去。享年54歳

5、秀忠の子供たち

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By 不詳 – 弘経寺(茨城県常総市)所蔵「千姫姿絵」, パブリック・ドメイン, Link

生母が江の子供たちがほとんどで、たったひとりの庶子が保科正之というのもすごいですね。生母不明で夭折した長男長丸以外は全員成人しています。

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angelica