今回は、北近江浅井家三代目でお市の方の夫でもある浅井長政を取り上げるぞ。信長と同盟したが、朝倉との同盟を重視して結局は信長に滅ぼされてしまったが、前途有望な有能な戦国大名だったのは間違いない人です。

このへんに興味を持ってよく調べてみた歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。お市の方にスポットライトが当たり過ぎて影が薄くなくもない浅井長政が、なぜ義兄の信長を裏切ったのか気になって調べまくった結果を5分でわかるようまとめた。

1-1、長政は浅井家の3代目

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By 不明 - File:Azai nagamasa.jpg 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

浅井長政(あざいながまさ)は、天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城である南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で誕生。幼名は猿夜叉丸(さるやしゃまる)。母は小野殿で、長政は小野殿が六角氏の人質になっているときに生まれたということです。兄弟は弟が4人、姉が京極氏へ嫁ぎ、後にキリシタンになった京極マリアなど女兄弟が3人。子供時代の話は伝わっていません。

1-2、長政祖父が興したが、父は弱腰で領土も縮小

浅井氏は長政の祖父亮政のときに勃興した家で、直接の主筋で北近江の守護大名の京極氏を追い落としたのでした。しかし亮政の息子久政がいまいちの人物で、せっかく亮政の時代に手に入れた領地も南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れてしまい失ったうえ六角氏に臣従していたのです。
なので長政は、生母の小野殿と共に六角氏の人質として六角氏の城下で子供時代を過ごしたんですね。父久政は六角氏との外交関係のおかげでようやく北近江を維持しているという状態で、亮政の時代をよく知る家臣たちの中には、不甲斐ない久政の弱腰に反発する者も多くいたようです

1-3、長政は元服後、初陣で頭角をあらわす

長政は15歳で元服、六角義賢の一字をもらい賢政という名乗りに、そして六角氏の家臣の平井定武の娘と結婚。
永禄3年(1560年)8月中旬、長政(通称は新九郎)は六角軍を相手に、わずか15歳で軍を率い野良田の戦いで見事な戦い振り。この働きを見て、浅井家の重臣の赤尾清綱、海北綱親、遠藤直経らは、頼りない久政に代わってはやく長政を後継ぎに、と思ったということです。

1-4、浅井家の重臣によるクーデターで長政が3代目に

image by PIXTA / 46819325

久政の六角氏に対する服従状態に不満を持っていた重臣たちは、長政を擁してクーデターを起こし、まだ34歳の久政を強制的に琵琶湖の竹生島に追放して隠居を強要。長政はこういうかたちで15歳で家督を相続。長政は重臣たちの言うとおりに、六角氏から離反する意思のあらわれとして、せっかく嫁にもらった平井定武の娘を六角氏に返したうえに、「賢政」の名も捨てて新九郎に戻したのでした。

1-5、長政の代になり、浅井家勢い取り戻す

野良田の戦いの勝利後、長政は朝倉氏ともあまり関わらないようにし、また六角氏のほうでも、筆頭家臣が暗殺される騒動が起きて、六角氏を離れて浅井家に仕官する輩が続出。また、永禄6年(1563年)長政の美濃遠征中、留守を狙った六角氏が攻めて来たのですが、長政は軍を反転させて六角軍を撃破し、殿(しんがり)の赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せたなどの出来事で浅井氏は領地を拡大、その後は六角氏との停戦協議が成立し、膠着状態継続中でした。

2、長政、織田信長と同盟を結ぶことに

この頃、天下統一を狙っていた尾張の織田信長は美濃攻略中で、美濃の斎藤氏との膠着状態を打破するためもあり、長政に同盟を提案してきました。同盟の条件は浅井側に有利だったのですが、浅井家重臣たちの中では賛否両論が。最大の問題は、浅井家の盟友の朝倉義景と信長が不仲で敵対しているということだったんですね。

\次のページで「2-1、長政、お市の方と結婚」を解説!/

2-1、長政、お市の方と結婚

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By 不詳 - 高野山持明院蔵「浅井長政夫人像」, パブリック・ドメイン, Link

織田、浅井同盟に際しての条件のひとつに、織田家と浅井家の政略結婚がありました。永禄10年(1567年)9月頃、または永禄7年(1564年)、永禄8年(1565年)と時期ははっきりしないものの、長政は信長の妹で美貌が他国へも鳴り響いていたと言われるお市の方と結婚。長政はかなり大柄で180センチ越えだったということですが、お市の方も160センチ越えの大柄な方、大柄どうしでお似合いの美男美女カップルだったことでしょう。
信長は、この浅井との同盟によって上洛経路になる近江口を確保、美濃国攻略の足掛かりも出来ました。信長は同盟成立を喜んで、当時のしきたりとして浅井側が用意するはずの結婚資金まで用意し、全額負担。長政は結婚に際して、信長の一字をもらって長政と改名を。さらに花押もあらたに「長」の字を右に倒した花押を作ったほどで、長政は信長に心酔していたのではないでしょうか。

2-2、長政、信長と共に上洛する

永禄11年(1568年)7月、越前国に滞在し朝倉氏の厄介になっていた足利将軍の弟足利義昭は、一向に上洛してくれない朝倉義景に見切りをつけて、尾張の織田信長の元に身を寄せたのですが、これを機会に9月に信長は上洛することに。信長は上洛の道中に反抗する六角氏を攻撃したために、長政の敵の六角氏の勢力は南近江の甲賀郡まで撤退を。このとき長政も、信長と一緒に義昭を守りつつ上洛、信長は京の都で義昭の一行で細川藤孝らの室町幕府の武家貴族たちなどに、長政を義弟でござる、お見知りおきをと紹介しまくったと言われています。

3、信長、朝倉との不戦の誓いを破り、朝倉を攻撃

信長としては、一緒に上洛した親しみもあり、大事な妹お市の方の夫ということもあって、もうすっかり自分の味方だと気を許したのかもしれないですが、いきなり朝倉を攻撃したことですべてが変わってしまいました。

3-1、信長の朝倉攻撃で、浅井家は信長との同盟を破棄、信長ピンチに

元亀元年(1570年)、信長は徳川家康と共に琵琶湖の西岸を通過して、長政には何の知らせもなく越前の朝倉方の城を攻撃し始めました。これは織田家と浅井家が同盟のときに交わした「朝倉への不戦の誓い」を破ったことになり、浅井家としては黙っていることは出来なかったようです。信長との同盟に反対していた浅井家の重臣達は、信長が連絡なしに朝倉攻めをしたことに怒り、強引に隠居させたはずの久政をかつぎ出してきました。そして久政は、長政に織田軍を進撃せよと提案。
長政はこのときに、重臣たちに信長との同盟を重視すべきと説得できなかったのでしょうか、一方の重臣たちは長政のことを久政を隠居に追い込んで家督を継がせたのは自分たちと自負があり、若い長政は自分たちの思う通りに動かせると思っていたのかも。

ということで、朝倉義景との同盟関係のほうを重視して、浅井軍は織田徳川連合軍を背後から急襲することに。信長からすれば長政の裏切りになるのですが、信長はそのことをなかなか信じなかったと言われるくらい、長政との同盟が確固たるものだと思っていたらしく、自分が何をしても長政は信頼してくれる、または家来のように服従しているとでも思っていたのでしょうか。このとき妹お市の方から、「両方の端を縛った小豆の袋」(信長が挟み撃ちにされるという意味)が届いたとされますが、とにかく信長はこういう時は一目散に一人で走って逃げる人で、このときも事態を飲み込むとあとは秀吉らに任せて、京へ馬を走らせて逃げ切ったのでした。この撤退で殿(しんがり)を務めたのは、徳川家康や木下秀吉らで、秀吉が後々まで家康の手を取って感謝したと言われる「金ヶ崎の退き口」は、生きて帰れるとは思えないというすさまじい戦いだったということ。

長政とお市の方の仲はどうだったのだろうか

結局、信長が朝倉不戦の誓いを破り、浅井家と交戦状態になって滅びるまで約3年ありますが、先に長政は六角氏と決別する際に、嫁の平井氏を離縁し名前も変えているのにかかわらず、お市の方は離縁せずにそのまま小谷城に。そしてこの信長と敵対していた3年の間に初と江の二人が生まれているので、こういう状況に関わらず、長政とお市の方の夫婦仲は円満だったということになっているんですね。

\次のページで「4、信長の逆襲始まる」を解説!/

4、信長の逆襲始まる

命からがら京へ帰った信長は、裏切りを許せないタイプでした。
浅井家の離反で、本願寺宗徒らも加わり、武田信玄もいるという信長包囲網と言われるほどまわりを敵に囲まれてしまいましたが、姉川の戦い、延暦寺焼き討ちなど、次々と敵を打破していったのでした。

4-1、長政、姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦う

image by PIXTA / 12408359

元亀元年(1570)6月、長政は朝倉軍とともに、近江国姉川で織田徳川連合軍と合戦。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わったというのですが、どちらが勝ったと言えないほどの激戦だったよう。このとき当時浅井軍の足軽だった藤堂高虎が、姉川の戦いで織田軍に武功を上げて長政から感状を送られた話も。
姉川の戦いの後に、信長に脅威を覚えた本願寺が反信長の意志を示して野田城・福島城の戦いが勃発。また9月には朝倉軍や延暦寺、一向宗徒と連携して、再び信長への攻勢があった志賀の陣など、信長包囲網といわれる戦いが開始。

しかし信長は足利義昭に和睦の調停を依頼したうえに朝廷工作をも行い、12月には勅命講和となりました。また、比叡山延暦寺は浅井氏と協力関係にあったのですが、元亀2年(1571年)9月に信長は比叡山焼き討ちで壊滅。

4-2、ついに武田信玄が動き、浅井、朝倉とも連携したが信玄の死で退却

元亀3年(1572年)7月、信長がまたまた北近江に来襲。長政は朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5000の軍勢で近江に。そして浅井朝倉連合軍は、信長との正面衝突にはならずに睨み合いが続いたが、浅井朝倉連合軍は織田軍に数では劣勢で、長政にとってはかなり苦しい状況。そこへ同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で、ついに武田信玄が甲斐国を出発。その後、信玄は遠江三方ヶ原で織田、徳川連合軍を撃破して、三河に進軍。同年12月、冬の到来で、北近江の長政領に陣を敷いていた朝倉義景は、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国、撤退。信玄は義景に激怒し、再出兵を促したが、義景はそれに応じずに黙殺。信玄は翌年2月には進軍を再開し、家康の野田城を攻略。しかし信玄急死で武田軍は甲斐に退却。信長包囲網は一部破綻したので、信長は大軍を近江、越前に送り込みました。

4-3、小谷城が陥落し、ついに浅井家滅亡

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By Heartoftheworld - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率いて再び北近江に攻めてきました。長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は2万の軍を派遣。しかし織田軍が調略によって次々と北近江の城を落とし、浅井家の家臣たちに織田家への寝返りが相次いだために、義景は浅井への救援は不可能と判断し越前に撤退。この朝倉軍を信長は追撃し刀根坂にて壊滅させたうえに、その勢いで越前国内へ乱入し一乗谷の戦いで朝倉氏は滅亡。次に取って返した織田軍は、浅井氏の小谷城に向けて攻撃開始。
浅井軍は信長の軍に一方的に攻められ続けて、ついに小谷城(滋賀県長浜市)が織田軍にとり囲まれる状態に。信長は使者を差し向けて降伏を勧めたが、最終勧告も決裂。
8月27日には長政父の久政が自害。長政はお市の方と三人の娘を脱出させた後、9月1日に自害。享年29歳。

信長の残忍さをあらわす逸話も
「信長公記」には、翌年の天正2年(1574年)の正月に、信長が内輪の宴席で、薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施す加工)を施した朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置いて酒宴を催した話が有名です。この頭蓋骨に酒を入れて飲んだとかいうのですが、浅井側にしてみれば信長の裏切り、しかし信長のほうも信頼しきっていた長政に煮え湯を飲まされた気持ちでいたのでしょうか。

5、浅井長政の子孫

長政の子供たちは、茶々、初、江の浅井三姉妹が超有名ですが、小谷落城後に処刑された長男、仏門に入った次男の他、妾腹の子か養子という浅井井頼や、江の娘千姫に仕えた妾腹の女の子も。

\次のページで「5-1、長男万福丸」を解説!/

5-1、長男万福丸

お市の方の子ではなく、側室の子だと言われていますが、8歳で串刺しの刑に。

5-2、次男万寿丸

生まれたばかりで、仏門に入ることを条件に許されました。お市の方の子という説もあり。

5-3、浅井三姉妹の長女茶々

秀吉の側室となり淀殿として有名、鶴松、秀頼を産み、北ノ庄城、大坂城と3度の落城を経験。

5-3、親戚の京極家に嫁いだ次女初

京極高次に嫁ぎ、高次の死後は常高院と称して、大坂の陣のときは妹江の嫁ぎ先の徳川家と姉淀殿茶々との交渉役も。子供なし。

5-4、3度結婚し、子孫を伝えた三女江

最初は従兄の佐治一成と結婚後すぐ離婚、秀吉甥の秀勝と再婚して一女豊臣完子が誕生。しかしすぐ秀勝死亡。そして3度目に徳川家康の跡継ぎの秀忠と結婚、秀頼と結婚した千姫、3代将軍家光、後水尾天皇中宮東福門院含む2男5女を産みました。九条家に嫁いだ完子の子孫もあり、長政の血筋はこの江の子孫として今に続いています。

長政は重臣を説得できなかったのが残念

浅井長政は、信長に見込まれて美貌のお市の方を嫁にもらい同盟を結び、京の都で足利義昭らに紹介してもらったときは、舞い上がる気持ちだったでしょう。もしかすれば信長の天下統一の夢を聞いて自分も軍勢を率いて戦いたいと思ったかも。しかし結局はそういう信長に付きしたがって何になるのか、と古い価値観の老臣に言われてうまく説得できずに、父や重臣の主張する朝倉家との同盟を重視せざるを得なかったのでは。長政の本当の気持ちはどうだったのだろう、朝倉ではなく信長に付いて行ってほしかった、ぜひもっと長生きして活躍させたかった人物のひとりではないでしょうか。

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室町時代戦国時代日本史歴史

義理か縁かで悩んだ末滅んだ「浅井長政」の生涯を歴女がわかりやすく解説

今回は、北近江浅井家三代目でお市の方の夫でもある浅井長政を取り上げるぞ。信長と同盟したが、朝倉との同盟を重視して結局は信長に滅ぼされてしまったが、前途有望な有能な戦国大名だったのは間違いない人です。

このへんに興味を持ってよく調べてみた歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。お市の方にスポットライトが当たり過ぎて影が薄くなくもない浅井長政が、なぜ義兄の信長を裏切ったのか気になって調べまくった結果を5分でわかるようまとめた。

1-1、長政は浅井家の3代目

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By 不明File:Azai nagamasa.jpg 高野山持明院蔵, パブリック・ドメイン, Link

浅井長政(あざいながまさ)は、天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、六角氏の居城である南近江の観音寺城下(現在の滋賀県近江八幡市安土町)で誕生。幼名は猿夜叉丸(さるやしゃまる)。母は小野殿で、長政は小野殿が六角氏の人質になっているときに生まれたということです。兄弟は弟が4人、姉が京極氏へ嫁ぎ、後にキリシタンになった京極マリアなど女兄弟が3人。子供時代の話は伝わっていません。

1-2、長政祖父が興したが、父は弱腰で領土も縮小

浅井氏は長政の祖父亮政のときに勃興した家で、直接の主筋で北近江の守護大名の京極氏を追い落としたのでした。しかし亮政の息子久政がいまいちの人物で、せっかく亮政の時代に手に入れた領地も南近江の守護であった六角氏との合戦に敗れてしまい失ったうえ六角氏に臣従していたのです。
なので長政は、生母の小野殿と共に六角氏の人質として六角氏の城下で子供時代を過ごしたんですね。父久政は六角氏との外交関係のおかげでようやく北近江を維持しているという状態で、亮政の時代をよく知る家臣たちの中には、不甲斐ない久政の弱腰に反発する者も多くいたようです

1-3、長政は元服後、初陣で頭角をあらわす

長政は15歳で元服、六角義賢の一字をもらい賢政という名乗りに、そして六角氏の家臣の平井定武の娘と結婚。
永禄3年(1560年)8月中旬、長政(通称は新九郎)は六角軍を相手に、わずか15歳で軍を率い野良田の戦いで見事な戦い振り。この働きを見て、浅井家の重臣の赤尾清綱、海北綱親、遠藤直経らは、頼りない久政に代わってはやく長政を後継ぎに、と思ったということです。

1-4、浅井家の重臣によるクーデターで長政が3代目に

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久政の六角氏に対する服従状態に不満を持っていた重臣たちは、長政を擁してクーデターを起こし、まだ34歳の久政を強制的に琵琶湖の竹生島に追放して隠居を強要。長政はこういうかたちで15歳で家督を相続。長政は重臣たちの言うとおりに、六角氏から離反する意思のあらわれとして、せっかく嫁にもらった平井定武の娘を六角氏に返したうえに、「賢政」の名も捨てて新九郎に戻したのでした。

1-5、長政の代になり、浅井家勢い取り戻す

野良田の戦いの勝利後、長政は朝倉氏ともあまり関わらないようにし、また六角氏のほうでも、筆頭家臣が暗殺される騒動が起きて、六角氏を離れて浅井家に仕官する輩が続出。また、永禄6年(1563年)長政の美濃遠征中、留守を狙った六角氏が攻めて来たのですが、長政は軍を反転させて六角軍を撃破し、殿(しんがり)の赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せたなどの出来事で浅井氏は領地を拡大、その後は六角氏との停戦協議が成立し、膠着状態継続中でした。

2、長政、織田信長と同盟を結ぶことに

この頃、天下統一を狙っていた尾張の織田信長は美濃攻略中で、美濃の斎藤氏との膠着状態を打破するためもあり、長政に同盟を提案してきました。同盟の条件は浅井側に有利だったのですが、浅井家重臣たちの中では賛否両論が。最大の問題は、浅井家の盟友の朝倉義景と信長が不仲で敵対しているということだったんですね。

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