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芸術家肌、無欲な軍師「竹中半兵衛」を歴女がわかりやすく解説!まるで城を攻略するのが趣味かのような竹中半兵衛の生涯とは

3-2、半兵衛、黒田松寿丸を助ける

天正6年(1578年)、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対し、黒田官兵衛が有岡城へ赴いて説得しようと試みましたが、城内で捕縛され監禁されてしまう事件が勃発。官兵衛の主君小寺政職も荒木方についたために、気の短い信長は官兵衛が村重に加担したと思い込み、人質として秀吉が預かっていた官兵衛の一人っ子の嫡男の松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じたのです。しかし半兵衛は、黒田官兵衛は荒木村重に加担していないと判断、信長には偽の首を提出させ、黒田松寿丸は美濃の国の自分の家臣にかくまって命を助けたのですね。
1年余りしてから黒田官兵衛が助け出されたときは、半兵衛は亡くなった後でしたが、この処置に大変な感謝をし、松寿丸後年の長政も黒田家も半兵衛の恩を忘れなかったということ。
あの信長ですらほっとしたというくらい、信長の意に逆らうと言うのはかなりの勇気がいったと思いますが、官兵衛をよく知る半兵衛ならではの判断だったと言えますよね。

3-3、半兵衛、播磨の三木城干攻めの最中に陣没

Grave of Takenaka Hanbei 竹中重治-竹中半兵衛 DSCF7916.jpg
By 松岡明芳投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

半兵衛は秀吉と共に三木城干攻めに参加しましたが、労咳(結核)を患っていて、天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れ、陣中にて6月22日に死去。享年36。

秀吉は病気療養のために、半兵衛を三木の陣中から京都に送ったのに、死期を悟った半兵衛は陣中で死にたいとのこと。
また半兵衛も秀吉も城攻めに対し、期間は長引いてもなるべく交戦せずに死傷者を少なくするために、兵糧攻めなどを好んだと言われていますが、半兵衛は三木城下に長く陣を敷くために付近の農民たちに対し年貢を免除したりという処置をとり、それが後年にも通用し助けられたということで、いまだに三木近郊の農民に感謝されているということです。

4、半兵衛の子孫

黒田官兵衛の息子松寿丸を助けた縁で、半兵衛死後も黒田家は恩を忘れずに半兵衛の家紋のひとつ黒餅を黒田家の家紋に、そして息子の元服なども官兵衛や松寿丸のちの長政がとり行ったり、息子の庶子の一人が黒田家の家臣となるなど、その後も親しい付き合いがあったということです。

半兵衛の息子は重門ひとりだけで、この人は父半兵衛の死後秀吉に仕えた後、江戸幕府の旗本となって代々家が続いていますが、「豊鑑」という秀吉の伝記のようなものを書き残しています。

5、半兵衛の逸話

image by PIXTA / 16755470

半兵衛の逸話は、後にあらわされた軍記もの「武功夜話」や「太閤記」、息子の重門の書いた「豊鑑」などに描かれていて、江戸時代に流行った講談などで世間に広く伝わったものが多いようです。

5-1、長篠合戦で武田勢の動きを予測

長篠の戦いのときに武田勢の一部が秀吉の陣から向かって左側に移動。秀吉は回りこまれると心配したけれど、半兵衛はこちらの陣に穴を開けるための陽動だと進言。しかし秀吉は半兵衛の言を聞かず、迎撃のため兵を動かしたそうです。半兵衛は自分の推測に確信があったらしく、手勢と共に持ち場を離れず。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が元居たところに攻め寄せたので、半兵衛が守りに徹しているところに秀吉帰還、半兵衛が正しかったことがあきらかに。

半兵衛は軍師として陣にいるが、撃って出る人ではなかったということで、静かに帳の中に座っていているかどうかわからないほど、そして思いつくと傍らの冊子に何か記入しているという具合だったということです。

5-2、半兵衛、息子の集中のなさを嘆く

半兵衛が息子の左京(後の竹中重門)に軍物語について教えているとき、左京が急に席を立って中座。半兵衛がその理由を聞いたところ、トイレ休憩だという答えが。半兵衛は怒って、「そこでしろ、たとえ垂れ流したとしても軍談の席を立つな。竹中半兵衛の息子が軍談に聞き入るあまりに座敷で垂れ流した、と言われたほうが竹中家の面目になるはず」と。半兵衛、いささか自分に酔っているような逸話では。

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