安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

芸術家肌、無欲な軍師「竹中半兵衛」を歴女がわかりやすく解説!まるで城を攻略するのが趣味かのような竹中半兵衛の生涯とは

2-1、半兵衛、稲葉山城を返して隠棲

永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤龍興が稲葉山城を追われて斎藤家が没落すると半兵衛は斎藤家を去り、北近江の浅井長政の元へ行き、3,000貫の禄をもらい約1年ほど客分として過ごしました。その後、浅井家を辞して旧領の三野国岩手へと帰り、若いのに隠棲してしまいました。

2-2、信長、半兵衛を家臣として迎えようと秀吉に勧誘させる

美濃の国を手中にした信長は、隠棲していた半兵衛を自分の家臣としたいと考え、まだ木下藤吉郎を名乗っていた秀吉に勧誘を命じました。半兵衛は最初はうんと言わなかったために、秀吉は半兵衛に対して「三顧の礼」でお願いしたのでした。半兵衛は信長の評判を聞いていただろうし、おそらく信長の激しく気まぐれな性格と自分は合わないと思っていたのでしょうが、直接勧誘に来た秀吉の器量を見抜いたようです。この頃はまだ下っ端で下賤の出の秀吉を粗略にせずに見込んだというのも、さすが軍師の半兵衛の眼力と言えるのでは。

なので半兵衛は信長の家臣になるが、秀吉の側にいる寄騎になる条件を付けて了承。以後、秀吉の側で軍師として色々な合戦に関わり、様々な軍略などについても懇切丁寧に指導したということです。

2-3、半兵衛、信長の浅井攻めで調略に活躍

この頃、浅井長政との同盟が破れた後、信長は浅井、朝倉攻撃に。半兵衛は1年ほど浅井長政に仕えていた時の人脈をフルに活用して、信長の浅井攻めのときに次々と調略で相手方を寝返らせた功績は半兵衛ならでは。

2-4、半兵衛、秀吉の寄騎となって中国征伐へ

秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、半兵衛は秀吉に従って中国征伐に参加。天正6年(1578年)には、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させた後、この報告に京都に赴いて信長に賞賛され、銀子100両を授けられ播磨姫路に帰陣したということ。

3-1、半兵衛、黒田官兵衛に紹介される

秀吉を見込んで寄騎となった半兵衛ですが、新たに秀吉の居城となった姫路城で秀吉に紹介されたのが黒田官兵衛です。
この3人の出会いは、小説家の腕の見せ所でしょう。司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」には、秀吉が半兵衛に「おぬしによく似た男がいる」と言って紹介するのを楽しみにしているシーンがありました。もちろん半兵衛と官兵衛は意気投合し、ふたりは二兵衛と言われて秀吉の軍師として活躍することになります。

半兵衛は官兵衛よりも二歳上、秀吉は半兵衛よりも7歳年上という年齢差です。半兵衛は年若の自分を師匠のように遇してくれるうえに、信長の命で天下統一のためにあちこちを調略したり合戦したりという秀吉の側で才能が発揮できること、そしてこれほど話の通じる相手がいるかと言うほど話の合う黒田官兵衛と知り合えて軍師冥利に尽きると思ったのではないでしょうか。

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