今回は、有名な軍師竹中半兵衛を取り上げるぞ。美濃の国の出身で斎藤道三の孫に仕えたが、一夜にして城を乗っ取ったことで有名な人なんです。若死にしたがキラッキラな光る才能を持っていて秀吉の出世になくてはならない軍師です。

この竹中半兵衛に子供の頃から憧れていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。若死にした武将、頭が良いといわれる偉人にも興味津々で、若死にした軍師竹中半兵衛は子供の頃から興味の的。その竹中半兵衛についてわかりやすくまとめた。

1,竹中半兵衛は美濃の出身

Takenaka Shigeharu.jpg
By 不明。 - 禅幢寺所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link

竹中半兵衛は、天文13年(1544年)、美濃国の斎藤氏の家臣で大野郡の大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)の城主竹中重元の子として誕生。 通称は半兵衛、諱は重治。
子供のときの話は残っていませんが、早世した兄と2歳下の弟久作重矩、早世した弟、そして従弟竹中重利と結婚した妹も。

1-1、半兵衛は初陣で指揮をとり成功、父の死後家督を継ぐ

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弘治2年(1556年)、12歳のときの長良川の戦いが初陣。
このとき半兵衛は父が不在のために代わりに指揮をとり、籠城戦の末に斎藤軍を撃退。永禄元年(1558年)、父重元は不破郡岩手城主の岩手弾正を攻略、永禄2年(1559年)には菩提山城を築いて居城を移しました。

永禄3年(1560年)、父の死去か隠居によって(父の死去は永禄5年(1562年)説もあり)家督を相続、菩提山城主となって美濃国の斎藤義龍に仕えます。永禄4年(1561年)に義龍が死去後、斎藤家は道三の孫の龍興が14歳で後継者に。

1-2、半兵衛、斎藤家臣団に軽くみられる

半兵衛はマッチョなタイプではなく、女性的ななよっとしたタイプだったらしくて、ごつい体育会系の重臣たちに軽く見られていじめられたんですね。またこの頃に、隣国尾張国の織田信長が美濃侵攻をしてきたが義龍時代は持ちこたえたものの、後を継いだ龍興は若年でいまいちの人だったので、斎藤家の家臣団は動揺。そういう斎藤家の内部事情のある状況にまたしても信長が、永禄4年(1561年、永禄6年(1563年)にも侵攻してきたのですが、新加納での戦いに半兵衛の戦術のおかげで斎藤勢は勝利。

この戦いで織田信長は斎藤家に竹中半兵衛ありというのを知ったらしい。

1-3、半兵衛、稲葉山城をひと晩で乗っとる

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半兵衛の主君である斎藤道三はすごい人だったのですが、やはり3代目の孫息子となる龍興はまだティーンエイジャーのくせに、酒色に溺れて政務を顧みずに、お気に入りの側近だけを偏愛するような人で、重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていました。半兵衛は、舅である西美濃三人衆のひとり安藤守就が主君に諫言して入れられず、自分も斎藤龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られて龍興の寵臣の斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたなどでうっぷんがたまっていたよう。

そこで半兵衛なりにお返しをしたわけでしょう。永禄7年(1564年)2月6日その斎藤飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたときに、半兵衛は稲葉山城に詰めていた弟の久作に病気と偽らせ、弟の看病のためと称して、武具を隠した箱をもって妻の父の安藤守就らと登城。

久作に与えられた部屋で武装し、わずか16人かそこらの軍勢で稲葉山城を急襲、重臣の齋藤飛騨守ら6名を討ち取っり、龍興は命からがら城から逃亡。あっさり稲葉山城乗っ取りが成功。半兵衛は半年ほど稲葉山城を占領していましたが、舅らの醜い争いに嫌気がさし、龍興に城を返還してさっさと立ち去ったと言われています。

これを半兵衛らが城を持ちこたえられず放棄したとする見方もありますが、本当に乗っ取る気ならば最初から龍興を討ち取っていたはずですよね。とにかく軍師竹中半兵衛のすることですから、おとなしいからと軽くみられていた人たちに、その気になれば簡単に城を乗っ取ることが出来る自分の技量を見せた、単なるパフォーマンスと見なしていいのでは。

\次のページで「2-1、半兵衛、稲葉山城を返して隠棲」を解説!/

2-1、半兵衛、稲葉山城を返して隠棲

永禄10年(1567年)、織田信長の侵攻により斎藤龍興が稲葉山城を追われて斎藤家が没落すると半兵衛は斎藤家を去り、北近江の浅井長政の元へ行き、3,000貫の禄をもらい約1年ほど客分として過ごしました。その後、浅井家を辞して旧領の三野国岩手へと帰り、若いのに隠棲してしまいました。

2-2、信長、半兵衛を家臣として迎えようと秀吉に勧誘させる

美濃の国を手中にした信長は、隠棲していた半兵衛を自分の家臣としたいと考え、まだ木下藤吉郎を名乗っていた秀吉に勧誘を命じました。半兵衛は最初はうんと言わなかったために、秀吉は半兵衛に対して「三顧の礼」でお願いしたのでした。半兵衛は信長の評判を聞いていただろうし、おそらく信長の激しく気まぐれな性格と自分は合わないと思っていたのでしょうが、直接勧誘に来た秀吉の器量を見抜いたようです。この頃はまだ下っ端で下賤の出の秀吉を粗略にせずに見込んだというのも、さすが軍師の半兵衛の眼力と言えるのでは。

なので半兵衛は信長の家臣になるが、秀吉の側にいる寄騎になる条件を付けて了承。以後、秀吉の側で軍師として色々な合戦に関わり、様々な軍略などについても懇切丁寧に指導したということです。

2-3、半兵衛、信長の浅井攻めで調略に活躍

この頃、浅井長政との同盟が破れた後、信長は浅井、朝倉攻撃に。半兵衛は1年ほど浅井長政に仕えていた時の人脈をフルに活用して、信長の浅井攻めのときに次々と調略で相手方を寝返らせた功績は半兵衛ならでは。

2-4、半兵衛、秀吉の寄騎となって中国征伐へ

秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、半兵衛は秀吉に従って中国征伐に参加。天正6年(1578年)には、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させた後、この報告に京都に赴いて信長に賞賛され、銀子100両を授けられ播磨姫路に帰陣したということ。

3-1、半兵衛、黒田官兵衛に紹介される

秀吉を見込んで寄騎となった半兵衛ですが、新たに秀吉の居城となった姫路城で秀吉に紹介されたのが黒田官兵衛です。
この3人の出会いは、小説家の腕の見せ所でしょう。司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」には、秀吉が半兵衛に「おぬしによく似た男がいる」と言って紹介するのを楽しみにしているシーンがありました。もちろん半兵衛と官兵衛は意気投合し、ふたりは二兵衛と言われて秀吉の軍師として活躍することになります。

半兵衛は官兵衛よりも二歳上、秀吉は半兵衛よりも7歳年上という年齢差です。半兵衛は年若の自分を師匠のように遇してくれるうえに、信長の命で天下統一のためにあちこちを調略したり合戦したりという秀吉の側で才能が発揮できること、そしてこれほど話の通じる相手がいるかと言うほど話の合う黒田官兵衛と知り合えて軍師冥利に尽きると思ったのではないでしょうか。

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3-2、半兵衛、黒田松寿丸を助ける

天正6年(1578年)、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対し、黒田官兵衛が有岡城へ赴いて説得しようと試みましたが、城内で捕縛され監禁されてしまう事件が勃発。官兵衛の主君小寺政職も荒木方についたために、気の短い信長は官兵衛が村重に加担したと思い込み、人質として秀吉が預かっていた官兵衛の一人っ子の嫡男の松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じたのです。しかし半兵衛は、黒田官兵衛は荒木村重に加担していないと判断、信長には偽の首を提出させ、黒田松寿丸は美濃の国の自分の家臣にかくまって命を助けたのですね。
1年余りしてから黒田官兵衛が助け出されたときは、半兵衛は亡くなった後でしたが、この処置に大変な感謝をし、松寿丸後年の長政も黒田家も半兵衛の恩を忘れなかったということ。
あの信長ですらほっとしたというくらい、信長の意に逆らうと言うのはかなりの勇気がいったと思いますが、官兵衛をよく知る半兵衛ならではの判断だったと言えますよね。

3-3、半兵衛、播磨の三木城干攻めの最中に陣没

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By 松岡明芳 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

半兵衛は秀吉と共に三木城干攻めに参加しましたが、労咳(結核)を患っていて、天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れ、陣中にて6月22日に死去。享年36。

秀吉は病気療養のために、半兵衛を三木の陣中から京都に送ったのに、死期を悟った半兵衛は陣中で死にたいとのこと。
また半兵衛も秀吉も城攻めに対し、期間は長引いてもなるべく交戦せずに死傷者を少なくするために、兵糧攻めなどを好んだと言われていますが、半兵衛は三木城下に長く陣を敷くために付近の農民たちに対し年貢を免除したりという処置をとり、それが後年にも通用し助けられたということで、いまだに三木近郊の農民に感謝されているということです。

4、半兵衛の子孫

黒田官兵衛の息子松寿丸を助けた縁で、半兵衛死後も黒田家は恩を忘れずに半兵衛の家紋のひとつ黒餅を黒田家の家紋に、そして息子の元服なども官兵衛や松寿丸のちの長政がとり行ったり、息子の庶子の一人が黒田家の家臣となるなど、その後も親しい付き合いがあったということです。

半兵衛の息子は重門ひとりだけで、この人は父半兵衛の死後秀吉に仕えた後、江戸幕府の旗本となって代々家が続いていますが、「豊鑑」という秀吉の伝記のようなものを書き残しています。

5、半兵衛の逸話

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半兵衛の逸話は、後にあらわされた軍記もの「武功夜話」や「太閤記」、息子の重門の書いた「豊鑑」などに描かれていて、江戸時代に流行った講談などで世間に広く伝わったものが多いようです。

5-1、長篠合戦で武田勢の動きを予測

長篠の戦いのときに武田勢の一部が秀吉の陣から向かって左側に移動。秀吉は回りこまれると心配したけれど、半兵衛はこちらの陣に穴を開けるための陽動だと進言。しかし秀吉は半兵衛の言を聞かず、迎撃のため兵を動かしたそうです。半兵衛は自分の推測に確信があったらしく、手勢と共に持ち場を離れず。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が元居たところに攻め寄せたので、半兵衛が守りに徹しているところに秀吉帰還、半兵衛が正しかったことがあきらかに。

半兵衛は軍師として陣にいるが、撃って出る人ではなかったということで、静かに帳の中に座っていているかどうかわからないほど、そして思いつくと傍らの冊子に何か記入しているという具合だったということです。

5-2、半兵衛、息子の集中のなさを嘆く

半兵衛が息子の左京(後の竹中重門)に軍物語について教えているとき、左京が急に席を立って中座。半兵衛がその理由を聞いたところ、トイレ休憩だという答えが。半兵衛は怒って、「そこでしろ、たとえ垂れ流したとしても軍談の席を立つな。竹中半兵衛の息子が軍談に聞き入るあまりに座敷で垂れ流した、と言われたほうが竹中家の面目になるはず」と。半兵衛、いささか自分に酔っているような逸話では。

\次のページで「5-3、半兵衛の馬の好みは意外にも」を解説!/

5-3、半兵衛の馬の好みは意外にも

 半兵衛の馬は常にあまり良い馬ではなかったということ。そこで秀吉が、半兵衛の身分にその馬は不釣り合いではないか、と言うと、名馬に乗っていれば、いざ戦いというときに、高価な名馬を他人に盗まれはしないかと惜しむ気持ちが出て、馬を下りられずに戦機を逃がすかもしれないので、馬は乗り捨てる覚悟なのがちょうどよいと言ったということです。 こういう具合で、名刀とかのコレクターの趣味もなかったんですね。

5-4、加増をあてにせず仕事をした半兵衛

秀吉が半兵衛の功績に報いるために加増の約束を書き記した書類を渡そうとしたとき、「このような物は不用。もし息子が出来がよくなかったら、父である自分への書類を当てにして、秀吉公は父には懇意だったのに自分になにもしてくれないと恨みに思うかもしれない」と言って、破り捨てたという話。
この話と同じように、黒田官兵衛が秀吉が約束した知行の加増を実行しないことが不満で、秀吉の前に秀吉の花押が入った加増の証拠の書状を持ってきて不満を述べたときも、秀吉の側にいた半兵衛がその書状を破って燃やしました。驚く官兵衛に、「こんな文書があるから不満を感じるのではないか、それは官兵衛殿のためにならない」と言ったということです。
欲がない人と言うのは、とことん欲がないものですが、秀吉や信長の側にいるかぎりはそういう無欲さが世過ぎには必要だったのでは。

5-5、出家の準備をしていた潔さ

黒田官兵衛もそうでしたが、半兵衛も調略や戦略で見方を勝利に導いたのにも関わらず、あまりに軍師としての腕が良すぎたのか秀吉に警戒されて高禄をもらうことが出来ず仕舞いでした。半兵衛は亡くなる前から、秀吉に警戒されていることを知っていたようで、その対策として高野山へ登って僧になる準備万端道具を整えてあったということです。
なかなか潔い人ですよね。

芸術家肌の軍師だった半兵衛

半兵衛は天下統一とか大大名になるなどの大きな夢を持っていたわけではなく、思うように軍勢を指揮して合戦に勝つとか、城を落とすという、言ってみればゲーム感覚で、ただただ自分の才能を発揮すれば満足という人間だったのでは。自分が総大将になりたいという欲もなく、もちろん色や酒などにおぼれるわけもない、何が楽しみだったんだろうと思うほど、若死にではあったけれど老成しているよう。戦国時代に生きたのに、涼しげな風が吹いていくような爽やかな印象を残した、忘れられない不思議な人物として記憶されるはず。

それにしても天下分け目の戦いであった関が原は、歴史に残る軍師竹中半兵衛の所領だったとは、なんとも皮肉なことではないでしょうか。

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芸術家肌、無欲な軍師「竹中半兵衛」を歴女がわかりやすく解説!まるで城を攻略するのが趣味かのような竹中半兵衛の生涯とは

今回は、有名な軍師竹中半兵衛を取り上げるぞ。美濃の国の出身で斎藤道三の孫に仕えたが、一夜にして城を乗っ取ったことで有名な人なんです。若死にしたがキラッキラな光る才能を持っていて秀吉の出世になくてはならない軍師です。

この竹中半兵衛に子供の頃から憧れていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。若死にした武将、頭が良いといわれる偉人にも興味津々で、若死にした軍師竹中半兵衛は子供の頃から興味の的。その竹中半兵衛についてわかりやすくまとめた。

1,竹中半兵衛は美濃の出身

Takenaka Shigeharu.jpg
By 不明。 – 禅幢寺所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link

竹中半兵衛は、天文13年(1544年)、美濃国の斎藤氏の家臣で大野郡の大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)の城主竹中重元の子として誕生。 通称は半兵衛、諱は重治。
子供のときの話は残っていませんが、早世した兄と2歳下の弟久作重矩、早世した弟、そして従弟竹中重利と結婚した妹も。

1-1、半兵衛は初陣で指揮をとり成功、父の死後家督を継ぐ

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弘治2年(1556年)、12歳のときの長良川の戦いが初陣。
このとき半兵衛は父が不在のために代わりに指揮をとり、籠城戦の末に斎藤軍を撃退。永禄元年(1558年)、父重元は不破郡岩手城主の岩手弾正を攻略、永禄2年(1559年)には菩提山城を築いて居城を移しました。

永禄3年(1560年)、父の死去か隠居によって(父の死去は永禄5年(1562年)説もあり)家督を相続、菩提山城主となって美濃国の斎藤義龍に仕えます。永禄4年(1561年)に義龍が死去後、斎藤家は道三の孫の龍興が14歳で後継者に。

1-2、半兵衛、斎藤家臣団に軽くみられる

半兵衛はマッチョなタイプではなく、女性的ななよっとしたタイプだったらしくて、ごつい体育会系の重臣たちに軽く見られていじめられたんですね。またこの頃に、隣国尾張国の織田信長が美濃侵攻をしてきたが義龍時代は持ちこたえたものの、後を継いだ龍興は若年でいまいちの人だったので、斎藤家の家臣団は動揺。そういう斎藤家の内部事情のある状況にまたしても信長が、永禄4年(1561年、永禄6年(1563年)にも侵攻してきたのですが、新加納での戦いに半兵衛の戦術のおかげで斎藤勢は勝利。

この戦いで織田信長は斎藤家に竹中半兵衛ありというのを知ったらしい。

1-3、半兵衛、稲葉山城をひと晩で乗っとる

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半兵衛の主君である斎藤道三はすごい人だったのですが、やはり3代目の孫息子となる龍興はまだティーンエイジャーのくせに、酒色に溺れて政務を顧みずに、お気に入りの側近だけを偏愛するような人で、重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていました。半兵衛は、舅である西美濃三人衆のひとり安藤守就が主君に諫言して入れられず、自分も斎藤龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られて龍興の寵臣の斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたなどでうっぷんがたまっていたよう。

そこで半兵衛なりにお返しをしたわけでしょう。永禄7年(1564年)2月6日その斎藤飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたときに、半兵衛は稲葉山城に詰めていた弟の久作に病気と偽らせ、弟の看病のためと称して、武具を隠した箱をもって妻の父の安藤守就らと登城。

久作に与えられた部屋で武装し、わずか16人かそこらの軍勢で稲葉山城を急襲、重臣の齋藤飛騨守ら6名を討ち取っり、龍興は命からがら城から逃亡。あっさり稲葉山城乗っ取りが成功。半兵衛は半年ほど稲葉山城を占領していましたが、舅らの醜い争いに嫌気がさし、龍興に城を返還してさっさと立ち去ったと言われています。

これを半兵衛らが城を持ちこたえられず放棄したとする見方もありますが、本当に乗っ取る気ならば最初から龍興を討ち取っていたはずですよね。とにかく軍師竹中半兵衛のすることですから、おとなしいからと軽くみられていた人たちに、その気になれば簡単に城を乗っ取ることが出来る自分の技量を見せた、単なるパフォーマンスと見なしていいのでは。

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