武士の時代は終わりを告げる
続いて、武士の時代がどのように終わりを迎えたのか見ていきましょう。
過去の遺恨を水に流して
土佐藩士坂本龍馬。彼の頭には「2,3家の大名と結束し、同士を募り日本をせんたく(改革)する」という構想がありました。現在の会社組織に類似した亀山社中(かめやましゃちゅう)を起ち上げた彼は、8・18の政変以来、遺恨の残る2つの藩に目を付けます。薩英戦争でイギリスと互角に戦った薩摩藩、そして高杉晋作が率いる奇兵隊(庶民を中心とした正規兵でない部隊)のクーデターにより、保守派から政権の奪回に成功した長州。
同じ土佐藩士である中岡慎太郎と協力し薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎を引き合わせ、薩長同盟を結ばせる事に成功しました。
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復活した長州男児
再び勢力を取り戻しつつある長州藩に幕府は、第二次長州征伐を決行しました。
総勢32藩16万人を動員した幕府軍は、山陽戦線の芸州口・山陰戦線の石州口・九州戦線の小倉口・瀬戸内海戦線の大島口から攻め込みました。
対する長州勢は8千ほど。数では圧倒的に不利な長州勢は、薩摩藩名義で購入し亀山社中を介して入手した近代武器と、高杉晋作・大村益次郎(おおむらますじろう)らの近代戦術により次々と幕府軍を打ち破り、さらに将軍家茂が病没し征伐は失敗に終わりました。
地方政権に大軍を率いて戦いを仕掛け、返り討ちにあった幕府軍の面目は丸つぶれとなったのです。
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倒幕から討幕
孝明天皇が崩御され、傾きかけた江戸幕府の中で15代将軍となった慶喜(よしのぶ)は、得意の弁舌で政権を取り戻そうとしますが、もはや倒幕の流れは止められませんでした。
そこに土佐藩(坂本龍馬の案)は大政奉還(たいせいほうかん)を持ちかけました。つまり、「幕府と朝廷が協力し政治を行う」事を提案し、これを慶喜は受け入れ倒幕は達成されました。
慶喜は、大政奉還を受け入れても徳川家に政治的権力は優位と考えたのでしょう。しかし、あくまでも武力での討幕を目指す薩摩藩には認めることは出来ませんでした。公家の岩倉具視(いわくらともみ)の協力のもと明治天皇より慶喜討伐の密勅(みっちょく)を手に入れると、天皇中心の新政府が政治を行うと王政復古の大号令を発表し、慶喜に対し官位の辞任と領地を差し出す「辞官納地(じかんのうち)」を要求しました。
これは旧幕府に対して無理難題をふっかけ、戦争の口実にする狙いがあったとされています。しかし慶喜は、激高する幕臣たちをなだめつつ政治的な交渉で自身の復権をめざしました。業を煮やした西郷隆盛は、江戸で浪士たちを使い江戸府内取締であった庄内藩に対し挑発を繰り返し、怒りが頂点に達した庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまいます。
新時代への戦い
最後に、鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城など、新時代へ向けた戦いについて解説します。
開戦!鳥羽伏見街道
挑発に乗った旧幕府軍は薩摩藩との軍事解決を余儀なくされ、軍を率いて京都へ向かいました。
1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽街道を封鎖していた薩摩兵と旧幕府軍が接触。「通せ」「通さぬ」の押し問答の末、薩摩藩が砲撃を開始、銃声をきっかけに伏見街道でも戦闘が始まります。圧倒的な兵力差に敵は逃げると思っていたのでしょうか?戦闘態勢も整えず、縦列に進軍していた幕府軍は砲弾に動揺し敗走を始めてしまったのです。
さらに薩長軍には天皇より官軍の証である錦旗(きんき)が与えられたため、旧幕府軍は朝敵となってしまい大阪まで撤退を余儀なくされました。大阪城に陣取った慶喜は「反撃のため出陣する」と宣言し兵士達を鼓舞し戦闘準備を進めさせます。しかしその夜、彼らを見捨て江戸へ逃亡し、鳥羽伏見の戦いは決着となりました。
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慶喜を追って江戸へ
大阪から逃亡した慶喜は、関東で新政府軍を迎え撃つべく諸藩に防衛を命じます。しかし、朝敵となった慶喜の味方となる者はいませんでした。万策尽きた慶喜は勝海舟(かつかいしゅう)に全権をゆだね寛永寺(かんえいじ)で謹慎生活に入り全面対決を放棄しました。
さらに、東海道と中山道から進軍する新政府軍に対し、沿道の諸藩は次々と朝廷に恭順を示し江戸城は完全に包囲されてしまいます。
1868年(慶応4年)3月14日西郷隆盛と勝海舟の2度の会談により、翌15日に予定されていた江戸総攻撃は中止され「江戸城無血開城」となり、町が戦火に包まれる事はなかったのです。
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北へ向かう戦場
江戸を落とした新政府軍は残る幕府勢力の討伐を続けます。上野戦争ではアームストロング砲を装備した新政府軍が彰義隊(しょうぎたい)を壊滅し、仙台藩と会津藩を中心とした奥羽列藩同盟(おううれっぱん)を次々と降伏させていきました。
江戸開城交渉の際、幕府艦隊の引き渡しが決定されていましたが司令長官であった榎本武明は引き渡しを拒否し、艦隊を北上させ蝦夷地へと上陸します。元新選組副長・土方歳三らと共に函館五稜郭を占拠し蝦夷共和国を名乗り、新政府軍に抵抗を続けました。しかし新型の甲鉄艦を導入した新政府軍は、乙部(北海道南西部)より上陸し進軍します。
1869年5月18日ついに榎本たちは新政府軍に降伏を宣言し、函館戦争と呼ばれたこの戦いは終結。そしてすべての戦いの終わりを告げたのでした。
現在の日本の姿
ペリー来航により太平の世が壊されてから、わずか16年の出来事でした。多くの若者たちが、まるで死に急ぐように散っていった幕末。一つの時代を壊した者たちは、新たな時代を作りこの国を守るために力を尽くしていったのです。
この国の未来のため、命懸けで駆け抜けた志士達の想いと行動力がなければ、現在の日本の姿はなかったのかもしれません。これは遠い昔の話ではなく、ほんの150年前の事なのです。