江戸時代初期、幕府はキリスト教を禁止し諸外国との国交を制限した。1637年に起こった島原の乱(キリシタンの一揆)を鎮圧した後、貿易相手はオランダと明(現・中国)に限定したんです。これは「鎖国」と呼ばれ、我が国は異文化に染まらず「幕府と藩」の体制を維持し続けた。それから200年余り、長らく続く幕府は終焉を迎える事となるんです。

この動乱の時代を幕末オタクのベロと一緒に、詳しく解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は長年続いた江戸幕府が終わる『幕末』について詳しくまとめる。

江戸幕府崩壊の兆し

まずは幕末序盤の流れを見ていきましょう。

太平の世を壊したのはたった4隻の船

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1853年アメリカのペリー率いる4隻の艦隊が相模浦賀沖に現れます。その大きさは伊豆大島がうごいたと錯覚するほどで、船体は黒く塗られていたため「黒船」とよばれました。砲窓を開き臨戦態勢のペリー艦隊は開国を要求し、翌年までの回答猶予期間を与え江戸湾から去っていきます。

当時の老中・阿部正弘には具体的な解決策はありませんでした。さらに黒船退去後、将軍家慶(いえよし)の死去により後ろ盾を失ってしまいました。脅迫に近いアメリカの交渉に屈した阿部は翌年、再び現れたペリーに対し日米和親条約を結び下田・函館を開港する事となります。この結果、各地で弱腰外交の幕府を非難し尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を尊び異人を追い払う)が叫ばれる事となるのです。

第二の使者と内部抗争

条約締結の中で下田港開港にともない、1856年駐日アメリカ公使としてハリスが派遣されました。彼は通商条約を結ぶため欧州諸国の脅威を説き、威圧的な交渉を開始します。

阿部の後任となった堀田正睦(ほったまさよし)は反対派を抑えるため孝明天皇の勅許(ちょっきょ)を得ようと尽くしたのですが、攘夷主義者であった天皇と公家により拒否されました。これは幕府の権威の墜を意味していたのです。

同じころ13代目将軍となった家定(いえさだ)は子供が出来ない体であったため、幕府内で後継者争いが勃発し、一橋派と南紀派が朝廷を巻き込み激しく争いました。内部からも外部からも問題を抱えていた時、事態を解決すべく南紀派の井伊直弼が大老職に就任します。大老とは常置の職ではなく必要に応じて老中の上に置く最高職です。

事実上将軍の代行者となった井伊は将軍後継者を南紀派の家茂(いえもち)に決定し、天皇の勅許を得られないまま不平等な日米修好通商条を結ぶことを許可したのでした。

幕府が頂点!縦社会維持のため

アメリカとの条約締結後、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとも同様の条約を結びます(安政の五か国条約)。鎖国態勢は完全に崩壊し、尊王攘夷の声はますます激しくなりました。一方、後継者争いに敗れた一橋派は朝廷工作を続け、水戸藩に対して幕政改革を指示する戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を賜る事に成功しました。そんな彼らに対し井伊は権力を最大限に行使するのです。

抗議のために江戸城に登城した一橋派の諸大名たちに厳罰を与え、京都で活動する攘夷思想の志士たちを捕縛し、80名ほどの人々を謹慎・流罪あるいは処刑としました。安政の大獄と呼ばれたこの弾圧により長州藩士、吉田松陰(よしだしょういん)も斬首されてしまいます。

陰謀が渦巻く権力闘争

井伊の弾圧は深い恨みを生むこととなり報復の幕開けとなります。

強行には凶行を

1860年(安政7年)3月3日この日は季節外れの大雪が降り辺りは真っ白でした。桃の節句のために城へ向かう井伊の行列に、水戸藩士ら18名(薩摩藩士も含む)の刺客が襲いかかったのです。「煙草二服ばかりの間」襲撃からわずか十数分、白かった雪は鮮血で真っ赤に染まり井伊の首級は持ち去られました。

将軍の代行者であった大老が白昼堂々、江戸城の桜田門前で暗殺された桜田門外の変。この事件で幕府の威信は完全に失われ、全国の志士たちの行動は過激の一途をたどる事となるのです。

師の意思を受け継ぐ者たち

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安政の大獄で処刑された吉田松陰は、私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を開いていました。その弟子達は続々と京都入りし、中心となった久坂玄瑞(くさかげんずい)は松陰の遺志を継ぎ京都で頭角を表わします。

公家である三条実美(さんじょうさねとみ)・姉小路公知(あねこうじきんとも)らと密接な関係を築き朝廷に働きかけ将軍家茂に攘夷の決行を迫り、ついには下関で外国船を砲撃、「下関戦争」に発展しました。

止まない血の雨

土佐勤王党(とさきんのうとう)の党首である武市半平太(たけちはんぺいた)は自藩の参政「吉田東洋」を暗殺し実権を握りました。暗殺の効果の大きさを知った彼は京都で久坂に協力し暗躍します。安政の大獄で井伊の手先となった幕臣、主義思想の違う者たちを天誅の名のもとに次々と始末しました。

京都守護職に任命された会津藩は彼らに対抗すべく「新選組」「見廻組(みまわりぐみ)」を結成し過激浪士を取り締まり治安維持に全力を注ぎます。至る所で激突したため京都の町は連日連夜、血の雨が降り注ぐ事となりました。

薩摩の実力

一方、薩摩藩主・島津久光は兵を率いて上洛し、後継者争いに敗れた一橋派を政権に復帰させることに成功します。さらに帰京中、行列の前を横切ったイギリスの民間人4名を殺傷(生麦事件)。その後、報復に来たイギリス艦隊と薩英戦争に発展しますが、この戦いでイギリス軍と互角に渡り合うのです。

尊王とはだれのため?クーデター勃発

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京都政界の中心となった長州藩は、公家に働きかけ朝廷を意のままに操ります。孝明天皇は攘夷の実現は目指していましたが、過激な活動をする志士達を快く思っていませんでした。薩摩藩は天皇の意向を無視する長州には好意を持てず、さらに取り締まりに手を焼かされていた会津藩も苦々しく思っていました。

1863年(文久3年)8月18日・反長州で利害関係の一致した彼らは手を組み、長州藩士と長州の息のかかった公家7名を京都から追放する8・18の政変を実行しました。この政変により、京都政界は尊王攘夷から公武合体が中心となっていくのです。

政治への権利を失った長州藩士たちは京都大火・天皇拉致・守護職暗殺を計画し政権を取り戻そうとします。この狂気といえる計画を知った新選組は志士達の集まる「池田屋」を襲撃し、多数の死者と捕縛者をもって計画を阻止しました。(池田屋事件)

消えかけた長州の命運

薩摩・会津に対し報復しかないと考える一部の長州藩士は、最後の手段である軍事力を行使します。約2000人の兵を率いて御所へ押し寄せたのです。二十日間に渡り交渉は続けられましたが解決案は出ず、7月19日に戦闘は開始されました。怒りの感情に身を任せ、戦略も練らずに挑んだ戦いはわずか一日で決着し長州藩は朝敵となってしまいました。禁門(御所の門)の中でも蛤御門(はまぐりごもん)で激戦が繰り広げられたことから、禁門の変または蛤御門の変と呼ばれる戦いです。

さらに半月後、下関戦争より関門海峡の通過に悩まされていたイギリスはアメリカ・フランス・オランダと四か国艦隊を組織し下関へ襲来(馬関戦争)、成す術もなく敗北した長州に幕府は討伐軍を編成します(第一次長州征伐)。その頃の長州藩内では尊攘派の勢いは無く、保守派が政権を握っていました。彼らは征長軍の勧告に対し、禁門の変の責任者として家老3名を切腹、参謀4名を斬首とすることで恭順の意思を明らかにし戦闘は回避されたのです。

\次のページで「武士の時代は終わりを告げる」を解説!/

武士の時代は終わりを告げる

続いて、武士の時代がどのように終わりを迎えたのか見ていきましょう。

過去の遺恨を水に流して

image by PIXTA / 16480924

土佐藩士坂本龍馬。彼の頭には「2,3家の大名と結束し、同士を募り日本をせんたく(改革)する」という構想がありました。現在の会社組織に類似した亀山社中(かめやましゃちゅう)を起ち上げた彼は、8・18の政変以来、遺恨の残る2つの藩に目を付けます。薩英戦争でイギリスと互角に戦った薩摩藩、そして高杉晋作が率いる奇兵隊(庶民を中心とした正規兵でない部隊)のクーデターにより、保守派から政権の奪回に成功した長州。

同じ土佐藩士である中岡慎太郎と協力し薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎を引き合わせ、薩長同盟を結ばせる事に成功しました。

復活した長州男児

再び勢力を取り戻しつつある長州藩に幕府は、第二次長州征伐を決行しました。

総勢32藩16万人を動員した幕府軍は、山陽戦線の芸州口・山陰戦線の石州口・九州戦線の小倉口・瀬戸内海戦線の大島口から攻め込みました。

対する長州勢は8千ほど。数では圧倒的に不利な長州勢は、薩摩藩名義で購入し亀山社中を介して入手した近代武器と、高杉晋作・大村益次郎(おおむらますじろう)らの近代戦術により次々と幕府軍を打ち破り、さらに将軍家茂が病没し征伐は失敗に終わりました。

地方政権に大軍を率いて戦いを仕掛け、返り討ちにあった幕府軍の面目は丸つぶれとなったのです。

倒幕から討幕

孝明天皇が崩御され、傾きかけた江戸幕府の中で15代将軍となった慶喜(よしのぶ)は、得意の弁舌で政権を取り戻そうとしますが、もはや倒幕の流れは止められませんでした。

そこに土佐藩(坂本龍馬の案)は大政奉還(たいせいほうかん)を持ちかけました。つまり、「幕府と朝廷が協力し政治を行う」事を提案し、これを慶喜は受け入れ倒幕は達成されました。

慶喜は、大政奉還を受け入れても徳川家に政治的権力は優位と考えたのでしょう。しかし、あくまでも武力での討幕を目指す薩摩藩には認めることは出来ませんでした。公家の岩倉具視(いわくらともみ)の協力のもと明治天皇より慶喜討伐の密勅(みっちょく)を手に入れると、天皇中心の新政府が政治を行うと王政復古の大号令を発表し、慶喜に対し官位の辞任と領地を差し出す「辞官納地(じかんのうち)」を要求しました。

これは旧幕府に対して無理難題をふっかけ、戦争の口実にする狙いがあったとされています。しかし慶喜は、激高する幕臣たちをなだめつつ政治的な交渉で自身の復権をめざしました。業を煮やした西郷隆盛は、江戸で浪士たちを使い江戸府内取締であった庄内藩に対し挑発を繰り返し、怒りが頂点に達した庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまいます。

新時代への戦い

最後に、鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城など、新時代へ向けた戦いについて解説します。

開戦!鳥羽伏見街道

挑発に乗った旧幕府軍は薩摩藩との軍事解決を余儀なくされ、軍を率いて京都へ向かいました。

1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽街道を封鎖していた薩摩兵と旧幕府軍が接触。「通せ」「通さぬ」の押し問答の末、薩摩藩が砲撃を開始、銃声をきっかけに伏見街道でも戦闘が始まります。圧倒的な兵力差に敵は逃げると思っていたのでしょうか?戦闘態勢も整えず、縦列に進軍していた幕府軍は砲弾に動揺し敗走を始めてしまったのです。

さらに薩長軍には天皇より官軍の証である錦旗(きんき)が与えられたため、旧幕府軍は朝敵となってしまい大阪まで撤退を余儀なくされました。大阪城に陣取った慶喜は「反撃のため出陣する」と宣言し兵士達を鼓舞し戦闘準備を進めさせます。しかしその夜、彼らを見捨て江戸へ逃亡し、鳥羽伏見の戦いは決着となりました。

慶喜を追って江戸へ

大阪から逃亡した慶喜は、関東で新政府軍を迎え撃つべく諸藩に防衛を命じます。しかし、朝敵となった慶喜の味方となる者はいませんでした。万策尽きた慶喜は勝海舟(かつかいしゅう)に全権をゆだね寛永寺(かんえいじ)で謹慎生活に入り全面対決を放棄しました。

さらに、東海道と中山道から進軍する新政府軍に対し、沿道の諸藩は次々と朝廷に恭順を示し江戸城は完全に包囲されてしまいます。

1868年(慶応4年)3月14日西郷隆盛と勝海舟の2度の会談により、翌15日に予定されていた江戸総攻撃は中止され「江戸城無血開城」となり、町が戦火に包まれる事はなかったのです。

北へ向かう戦場

江戸を落とした新政府軍は残る幕府勢力の討伐を続けます。上野戦争ではアームストロング砲を装備した新政府軍が彰義隊(しょうぎたい)を壊滅し、仙台藩と会津藩を中心とした奥羽列藩同盟(おううれっぱん)を次々と降伏させていきました。

江戸開城交渉の際、幕府艦隊の引き渡しが決定されていましたが司令長官であった榎本武明は引き渡しを拒否し、艦隊を北上させ蝦夷地へと上陸します。元新選組副長・土方歳三らと共に函館五稜郭を占拠し蝦夷共和国を名乗り、新政府軍に抵抗を続けました。しかし新型の甲鉄艦を導入した新政府軍は、乙部(北海道南西部)より上陸し進軍します。

1869年5月18日ついに榎本たちは新政府軍に降伏を宣言し、函館戦争と呼ばれたこの戦いは終結。そしてすべての戦いの終わりを告げたのでした。

現在の日本の姿

ペリー来航により太平の世が壊されてから、わずか16年の出来事でした。多くの若者たちが、まるで死に急ぐように散っていった幕末。一つの時代を壊した者たちは、新たな時代を作りこの国を守るために力を尽くしていったのです。

この国の未来のため、命懸けで駆け抜けた志士達の想いと行動力がなければ、現在の日本の姿はなかったのかもしれません。これは遠い昔の話ではなく、ほんの150年前の事なのです。

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幕末日本史歴史江戸時代

簡単にわかる「幕末」!約270年続いた江戸時代の終焉と動乱を幕末マニアが詳しく解説!

武士の時代は終わりを告げる

続いて、武士の時代がどのように終わりを迎えたのか見ていきましょう。

過去の遺恨を水に流して

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土佐藩士坂本龍馬。彼の頭には「2,3家の大名と結束し、同士を募り日本をせんたく(改革)する」という構想がありました。現在の会社組織に類似した亀山社中(かめやましゃちゅう)を起ち上げた彼は、8・18の政変以来、遺恨の残る2つの藩に目を付けます。薩英戦争でイギリスと互角に戦った薩摩藩、そして高杉晋作が率いる奇兵隊(庶民を中心とした正規兵でない部隊)のクーデターにより、保守派から政権の奪回に成功した長州。

同じ土佐藩士である中岡慎太郎と協力し薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎を引き合わせ、薩長同盟を結ばせる事に成功しました。

復活した長州男児

再び勢力を取り戻しつつある長州藩に幕府は、第二次長州征伐を決行しました。

総勢32藩16万人を動員した幕府軍は、山陽戦線の芸州口・山陰戦線の石州口・九州戦線の小倉口・瀬戸内海戦線の大島口から攻め込みました。

対する長州勢は8千ほど。数では圧倒的に不利な長州勢は、薩摩藩名義で購入し亀山社中を介して入手した近代武器と、高杉晋作・大村益次郎(おおむらますじろう)らの近代戦術により次々と幕府軍を打ち破り、さらに将軍家茂が病没し征伐は失敗に終わりました。

地方政権に大軍を率いて戦いを仕掛け、返り討ちにあった幕府軍の面目は丸つぶれとなったのです。

倒幕から討幕

孝明天皇が崩御され、傾きかけた江戸幕府の中で15代将軍となった慶喜(よしのぶ)は、得意の弁舌で政権を取り戻そうとしますが、もはや倒幕の流れは止められませんでした。

そこに土佐藩(坂本龍馬の案)は大政奉還(たいせいほうかん)を持ちかけました。つまり、「幕府と朝廷が協力し政治を行う」事を提案し、これを慶喜は受け入れ倒幕は達成されました。

慶喜は、大政奉還を受け入れても徳川家に政治的権力は優位と考えたのでしょう。しかし、あくまでも武力での討幕を目指す薩摩藩には認めることは出来ませんでした。公家の岩倉具視(いわくらともみ)の協力のもと明治天皇より慶喜討伐の密勅(みっちょく)を手に入れると、天皇中心の新政府が政治を行うと王政復古の大号令を発表し、慶喜に対し官位の辞任と領地を差し出す「辞官納地(じかんのうち)」を要求しました。

これは旧幕府に対して無理難題をふっかけ、戦争の口実にする狙いがあったとされています。しかし慶喜は、激高する幕臣たちをなだめつつ政治的な交渉で自身の復権をめざしました。業を煮やした西郷隆盛は、江戸で浪士たちを使い江戸府内取締であった庄内藩に対し挑発を繰り返し、怒りが頂点に達した庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまいます。

新時代への戦い

最後に、鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城など、新時代へ向けた戦いについて解説します。

開戦!鳥羽伏見街道

挑発に乗った旧幕府軍は薩摩藩との軍事解決を余儀なくされ、軍を率いて京都へ向かいました。

1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽街道を封鎖していた薩摩兵と旧幕府軍が接触。「通せ」「通さぬ」の押し問答の末、薩摩藩が砲撃を開始、銃声をきっかけに伏見街道でも戦闘が始まります。圧倒的な兵力差に敵は逃げると思っていたのでしょうか?戦闘態勢も整えず、縦列に進軍していた幕府軍は砲弾に動揺し敗走を始めてしまったのです。

さらに薩長軍には天皇より官軍の証である錦旗(きんき)が与えられたため、旧幕府軍は朝敵となってしまい大阪まで撤退を余儀なくされました。大阪城に陣取った慶喜は「反撃のため出陣する」と宣言し兵士達を鼓舞し戦闘準備を進めさせます。しかしその夜、彼らを見捨て江戸へ逃亡し、鳥羽伏見の戦いは決着となりました。

慶喜を追って江戸へ

大阪から逃亡した慶喜は、関東で新政府軍を迎え撃つべく諸藩に防衛を命じます。しかし、朝敵となった慶喜の味方となる者はいませんでした。万策尽きた慶喜は勝海舟(かつかいしゅう)に全権をゆだね寛永寺(かんえいじ)で謹慎生活に入り全面対決を放棄しました。

さらに、東海道と中山道から進軍する新政府軍に対し、沿道の諸藩は次々と朝廷に恭順を示し江戸城は完全に包囲されてしまいます。

1868年(慶応4年)3月14日西郷隆盛と勝海舟の2度の会談により、翌15日に予定されていた江戸総攻撃は中止され「江戸城無血開城」となり、町が戦火に包まれる事はなかったのです。

北へ向かう戦場

江戸を落とした新政府軍は残る幕府勢力の討伐を続けます。上野戦争ではアームストロング砲を装備した新政府軍が彰義隊(しょうぎたい)を壊滅し、仙台藩と会津藩を中心とした奥羽列藩同盟(おううれっぱん)を次々と降伏させていきました。

江戸開城交渉の際、幕府艦隊の引き渡しが決定されていましたが司令長官であった榎本武明は引き渡しを拒否し、艦隊を北上させ蝦夷地へと上陸します。元新選組副長・土方歳三らと共に函館五稜郭を占拠し蝦夷共和国を名乗り、新政府軍に抵抗を続けました。しかし新型の甲鉄艦を導入した新政府軍は、乙部(北海道南西部)より上陸し進軍します。

1869年5月18日ついに榎本たちは新政府軍に降伏を宣言し、函館戦争と呼ばれたこの戦いは終結。そしてすべての戦いの終わりを告げたのでした。

現在の日本の姿

ペリー来航により太平の世が壊されてから、わずか16年の出来事でした。多くの若者たちが、まるで死に急ぐように散っていった幕末。一つの時代を壊した者たちは、新たな時代を作りこの国を守るために力を尽くしていったのです。

この国の未来のため、命懸けで駆け抜けた志士達の想いと行動力がなければ、現在の日本の姿はなかったのかもしれません。これは遠い昔の話ではなく、ほんの150年前の事なのです。

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