

この動乱の時代を幕末オタクの『ベロ』と一緒に、詳しく解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Study-Z編集部
歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は長年続いた江戸幕府が終わる『幕末』について詳しくまとめる。
太平の世を壊したのはたった4隻の船

1853年アメリカのペリー率いる4隻の艦隊が相模浦賀沖に現れます。その大きさは伊豆大島がうごいたと錯覚するほどで、船体は黒く塗られていたため『黒船』とよばれました。砲窓を開き臨戦態勢のペリー艦隊は開国を要求し、翌年までの回答猶予期間を与え江戸湾から去っていきます。
当時の老中『阿部正弘』には具体的な解決策はありませんでした。さらに黒船退去後、将軍家慶(いえよし)の死去により後ろ盾を失ってしまいました。脅迫に近いアメリカの交渉に屈した阿部は翌年、再び現れたペリーに対し『日米和親条約』を結び下田・函館を開港する事となります。この結果、各地で弱腰外交の幕府を非難し尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を尊び異人を追い払う)が叫ばれる事となるのです。
第二の使者と内部抗争
条約締結の中で下田港(静岡県下田市)開港に伴い、1856年駐日アメリカ公使としてハリスが派遣されました。彼は通商条約を結ぶため欧州諸国の脅威を説き、威圧的な交渉を開始します。
阿部の後任となった『堀田正睦(ほったまさよし)』は反対派を抑えるため孝明天皇の勅許(ちょっきょ)を得ようと尽くしたのですが、攘夷主義者であった天皇と公家により拒否されました。これは幕府の権威の墜を意味していたのです。
同じころ13代目将軍となった家定(いえさだ)は子供が出来ない体であった為、幕府内で後継者争いが勃発し『一橋派』と『南紀派』が朝廷を巻き込み激しく争いました。内部からも外部からも問題を抱えていた時、事態を解決すべく南紀派の『井伊直弼』が大老職に就任します。大老(たいろう)とは常置の職ではなく必要に応じて老中の上に置く最高職です。
事実上将軍の代行者となった井伊は将軍後継者を南紀派の家茂(いえもち)に決定し、天皇の勅許を得られないまま不平等な『日米修好通商条約』を結ぶことを許可したのでした。
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幕府が頂点!縦社会維持のため
アメリカとの条約締結後、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとも同様の条約を結びます(安政の五か国条約)鎖国態勢は完全に崩壊し尊王攘夷の声はますます激しくなりました。一方、後継者争いに敗れた一橋派は朝廷工作を続け、水戸藩に対して幕政改革を指示する戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を賜る事に成功しました。そんな彼らに対し井伊は権力を最大限に行使するのです。
抗議の為に江戸城に登城した一橋派の諸大名たちに厳罰を与え、京都で活動する攘夷思想の志士たちを捕縛し、80名ほどの人々を謹慎・流罪あるいは処刑としました。『安政の大獄』と呼ばれたこの弾圧により長州藩士、吉田松陰(よしだしょういん)も斬首されてしまいます。
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ペリー来航時、阿部正弘は意見を諸大名だけでなく庶民にも求めたんだ。その結果、それまで政治に意見が反映されなかった下級武士や町人たちを『志士』へ変え、朝廷に働きかけ攘夷を実行しようとする。「政治は幕臣が執り行う」幕府の威信にこだわる井伊直弼には彼らの行為は許せなかったんだ。
ペリー来航によって高まる尊王攘夷の声、それを弾圧した安政の大獄。
これが幕末序盤の流れだ。
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