日本史

幕府を終わらせた徳川慶喜!「大政奉還」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は大政奉還について勉強していくぞ。大政奉還とは幕府が朝廷に政権を返上することだが、ここで様々な疑問が浮かぶだろう。最大の疑問は「大政奉還を行ったのになぜ幕府と朝廷が争うのか?」だな。

また、「そもそも天皇の朝廷には政権がなかったのか?」、「なぜ大政奉還を行ったのか?」も疑問だろう。今回、これらの疑問も含めて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大政奉還をわかりやすくまとめた。

朝廷と幕府、どちらが政治的権限を持っているのか

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朝廷は当時の日本の最高権力機関

日本の歴史上では鎌倉幕府と室町幕府と江戸幕府の3つの幕府が存在しています。そして、いずれの時代においても政治を主で行っていたのは幕府のトップに立つ征夷大将軍ですね。今回のテーマである大政奉還に関わる江戸幕府もその例外ではなく、やはり政治の主導権を握っていたのは徳川家の征夷大将軍です。

では、朝廷と天皇はどのような位置付けなのでしょうか。実際には政治の権限は幕府ではなく朝廷が握っており、言わば朝廷は当時の日本の最高権力機関です。そして、その最高権力機関である朝廷のトップに立つのが最高権力者である天皇になります。要するに、朝廷とは天皇を中心とした大臣・役人を含む国家統治機関と捉えれば良いでしょう。

次に幕府の位置付けですが、幕府のトップに立つのは征夷大将軍になります。しかし、そもそも征夷大将軍は朝廷の令外官であり、文字で連想できるとおり「蝦夷(異民族を示す)を征伐する」を目的とした臨時の職務です。つまり、形式として征夷大将軍は天皇の部下になります。

幕府は朝廷に委任された政治を行っていた

「幕府のトップに立つ征夷大将軍が政治を行う」……征夷大将軍が天皇の部下である以上、朝廷ではなく幕府が政治を行うのはいささか不自然に思うでしょう。その理由は、幕府は政治を行うことを朝廷から委任されていたためで、最も、あくまでこれは形式上のことになります。

つまり、実際には幕府が日本の政治を担っていたものの、それは朝廷から任されている状態だったのです。それがハッキリと分かる例が安政の大獄の原因となった日米修好通商条約の無勅許での調印問題でしょう。いくら幕府が政治の主導権を握っているとは言え、立場上は朝廷から委任されている身ですからね。

このため外国との条例は無断で結べず、結ぶためには天皇の許可……すなわち勅許が必要だったのです。このように、位で判断すれば幕府よりも朝廷が上になりますが、武家である幕府には公家である朝廷と違って武力という力がありました。このため、武家は力で公家を抑えて政治の権限を握っていたのです。

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簡単にまとめるぞ。朝廷と幕府を比べた時、政治的権力で勝っているのは朝廷だ。実際には幕府が政治を行っているが、これは形式として幕府は朝廷に日本の政治を委任されていたためだ。これを知っておけば大政奉還を理解しやすくなるぞ!

徳川慶喜が大政奉還を行ったのはなぜか

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徳川慶喜による大政奉還

大政奉還とは、1867年に15代征夷大将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を天皇に返上するために行ったものです。ここで役立つ知識が先ほど解説した朝廷と幕府の政治的権限の違いですね。徳川慶喜よりもっと前、代々徳川家が握っていた政権を天皇に返上するというのはどういう意味なのでしょうか。

それは、これまでは委任された形で政治を行ってきたからで、実際の政治的権限は朝廷……すなわち天皇が握っているというのが理由です。つまり、分かりやすく言えば大政奉還とは「今まで委任されて幕府が政治を行ってきましたが、政治の権限を元どおり全て天皇にお返しします」という意味になります。

さて、ここでまた新たな疑問が生まれますね。それは「なぜ徳川慶喜は大政奉還を行ったのか?」という点です。徳川慶喜が征夷大将軍に就任したのが1867年、そして大政奉還が行われたのも1867年、つまり徳川慶喜はわずか1年足らずで政権返上を意味する大政奉還を行っており、なぜ短期間で将軍職を退こうと考えたのでしょうか。

徳川慶喜が大政奉還を行った2つの理由

徳川慶喜が大政奉還を行った大きな理由は2つです。1つは徳川慶喜が征夷大将軍に就任した頃、武力による倒幕ムードが加速していたことが挙げられます。大老・井伊直弼の安政の大獄の弾圧などが理由で幕府に反発して倒幕の考えを示す者が増えていることを危惧して、平和的解決のために幕府を終わらそうとしたのです。

実際、大政奉還を行った同時期に天皇より薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下されており、大政奉還で幕府が終わったことでこの命令は延期となりました。もう1つの理由は、徳川慶喜は大政奉還を行っても政治の主導権を握れると考えたからです。

大政奉還によって政権が天皇に返上されるものの、当時天皇だった明治天皇はまだ若く、政治に慣れていない朝廷に対しても行政能力がないだろうと徳川慶喜は判断しました。このため、大政奉還で幕府を失っても徳川政権は存続できると考えたのです。事実、大政奉還後も徳川慶喜は条件付きながらも政治への関与を委任されています。

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簡単にまとめると、大政奉還とは政権を天皇に返上することで、これは1867年に徳川慶喜が行った。ではなぜ徳川慶喜は大政奉還を行ったのか?……それは倒幕ムードが加速していたことへの危惧と、大政奉還後も政治の実権を握れると目論んだからだ。

大政奉還後、新政府と旧幕府が争ったのはなぜか

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大政奉還後も政治に関わる徳川慶喜

大政奉還における最後の疑問です。1867年に大政奉還によって政権を天皇に返上した徳川慶喜でしたが、翌1868年には新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が起こります。討幕の密勅も延期となった状況で、なぜ新政府と旧幕府は争うことになったのでしょうか

これは徳川慶喜が大政奉還を行った理由の1つ、「大政奉還を行っても政治の主導権を握れる」が関係してきます。大政奉還によって幕府の時代が終わり、朝廷による天皇中心とした新たな政治が行われることになりました。そこで朝廷は新体制を定めることにしましたが、その発足までは国内統治を幕府に委任したのです。

つまり、一時的ではありますが幕府はその期間中存在することになり、倒幕派の岩倉具視(いわくらともみ)や薩摩藩はこの状況を問題と捉えていました。倒幕実現のはずが大政奉還によって直前で中止、このままでは新体制も徳川慶喜を中心としたものになってしまうのではないかと懸念したのです。

徳川慶喜の排除失敗による武力倒幕

新体制が徳川慶喜を中心とするものになることを怖れた岩倉具視らは、これを阻止するためのクーデターを計画します。その計画とは、自派の皇族や公家を勢力として朝廷首脳の中で親徳川派の者達を排除、徳川慶喜を抜きにした新体制の樹立することです。そして、そのクーデターこそ1868年に岩倉具視らによって行われた王政復古の大号令でした。

「新政権の樹立を宣言」、さらに王政復古の大号令の内容には「徳川慶喜の将軍辞職届けを受理して政治の権限を奪う」、「幕府、摂政、関白を廃止する」なども含まれていたのです。また「三職(総裁・議定・参与)の役職の設置」というこれまでと全く違う体制を整えたことから、王政復古の大号令の目的は徳川慶喜の排除にあったことが分かります。

しかしこのクーデターは結果的に失敗、そのため西郷隆盛らは力づく……つまり武力によって幕府を滅ぼそうとしたのです。その武力による倒幕につながった戦いこそ戊辰戦争であり、新政府軍は戊辰戦争にて旧幕府軍に勝利、これで幕府の時代は完全に終わりを迎えて明治政府による新時代が訪れることになりました。

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大政奉還で政権を返上した以上、新政府と旧幕府が争う理由はないように思える。しかし政権を返上した後も徳川慶喜は政治の実権を握ろうと画策、しかも半ば成功しつつあった。このため新政府側は武力による倒幕を考え、戊辰戦争が勃発したのだ。

大政奉還を行った徳川慶喜のその後

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戊辰戦争中の徳川慶喜

徳川慶喜は大政奉還後も政治の実権を握ろうとしたため、新政府側は武力でこれを解決しようとしました。最も、大政奉還を行ったことからも分かるとおり、当初徳川慶喜は新政府側と戦争する意思はなかったと思われます。

そこで新政府側の薩摩藩が徳川慶喜を散々挑発、ついに徳川慶喜はこれに乗ってしまって武力衝突を起こしたのです。それが1868年の鳥羽・伏見の戦いであり、この鳥羽・伏見の戦いこそ戊辰戦争の幕開けとなる戦いになりました。ただ、この戦いで徳川慶喜は著しく評判を落とします。

旧幕府軍が劣勢と判断した徳川慶喜は、まだ充分な兵力を残している状態であったものの江戸に退却、一方で旧幕府軍の兵には「最後の一兵になっても退いてはならない」と命令したのです。その後、江戸城は新政府軍・西郷隆盛の交渉によって明け渡され、完全に力を失った徳川慶喜は水戸に行って謹慎したのでした。

戊辰戦争後の徳川慶喜

1869年、戊辰戦争の終結にあたって徳川慶喜の謹慎も解除されました。幕府制度も征夷大将軍も廃止されたため、徳川慶喜は実質最後の征夷大将軍となり、また生存中に将軍を退いたのは11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)以来のことでした。

将軍から退いた後、徳川慶喜は政治的関心も野心も一切持たず、写真や狩猟をはじめとした趣味に没頭する生活を送ったそうです。将軍時代は大政奉還を行った後の目論見などしたたかな一面のあった徳川慶喜でしたが、この頃は「ケイキ様」と呼ばれて人々から親しまれていました。

1901年には小石川区小日向第六天町の高台の屋敷に転居、1902年には貴族院議員に就き、徳川慶喜は実に35年ぶりに政治に携わる仕事に就きます。1913年に77歳にて死去、倒幕・戊辰戦争でその身を危ぶまれた徳川慶喜でしたが、戦死や暗殺に遭うことなく寿命を全う、77歳での死去は歴代の征夷大将軍の中で最寿命となりました。

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ここは大政奉還とは全く関係ない部分だが、大政奉還を勉強するからには徳川慶喜も勉強しなければならない。このため、徳川慶喜を勉強するための1つの知識として、戊辰戦争中と戊辰戦争後の徳川慶喜の動向を抑えて押さえておいてくれ。

大政奉還で間違えやすいポイント

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ポイント1. 版籍奉還と廃藩置県

大政奉還とは政権を天皇に返上することですが、ここで「〇〇を返す」とだけ覚えてしまうと版籍奉還や廃藩置県と間違えてしまう可能性があります。特に版籍奉還と廃藩置県は明治政府が誕生した間もない時に行われた政策ですから、その意味でも紛らわしいでしょう。

版籍奉還とは1869年に明治政府によって行われたもので、日本全国の藩を対象に所有していた土地と人民を天皇に返還する政治政策です。「返す」という点は大政奉還と同じですが、大政奉還が政権を返すことに対して、版籍奉還は土地と人民を返すことを意味します。

また、廃藩置県は文字どおり藩を廃止して県を置くことなので「返す」の表現とは無関係の政治政策に思えるかもしれません。しかし、各地の藩主からすればそれは自分の権力を明治政府に返すことになります。ですからやはりこれも「返す」が関係するものであり、「大政奉還=返す」ではなく「大政奉還=政権を天皇に返す」としっかり覚えておきましょう。

ポイント2. 大政奉還が行われた場所

大政奉還が行われた場所については非常に紛らわしく、また分かりづらくなっています。徳川慶喜は大政奉還を独断で行ったわけではなく、特定の大名を集め、その場で大政奉還を行う意思があることを宣言しているのです。

そしてその宣言をした場所は二条城であり、また大政奉還を実際に行った場所は京都でした。つまり「大政奉還を宣言した場所」と「大政奉還を行った場所」とでは答えとなる場所が違ってきてしまい、前者は二条城、後者は京都が答えになります。

さらにもう1点……大政奉還を行ったのは1867年のことで、西暦で言うと慶応3年の10月14日です。しかしそれが認められたのは翌日となる10月15日であり、これは大政奉還が成立するには行うだけでなく天皇の許可が必要となるためで、つまり徳川慶喜の大政奉還は行った翌日に認められました。

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「大政奉還とは政権を天皇に返上すること」……これは絶対に覚えておこう!覚えるのが面倒な余り「大政奉還=何かを返すこと」と覚えてしまうと、版籍奉還や廃藩置県の説明とごちゃ混ぜになってしまう可能性あるぞ。

大政奉還はその意味よりも「行った理由」と「結果」が重要

大政奉還は書き方も複雑ではないですし、「政」や「還」の文字から内容も想像しやすいため、覚えること自体は決して難しくないと思います。難しいのは大政奉還の意味ではなく、それを行った理由やその後の出来事、そして朝廷と幕府の関係性でしょう。

そして、これらを覚えるには大政奉還を行った徳川慶喜について勉強すると分かりやすくなります。また大政奉還が出題される以上は戊辰戦争も出題されるでしょうから、大政奉還を覚えるだけで安心するのは禁物ですよ。

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