井伊直弼への襲撃計画
井伊直弼による安政の大獄はその過激さから反感を買っていましたが、1860年にその反感が頂点に達する出来事が起こります。1859年、井伊直弼は水戸藩主・徳川慶篤(とくがわよしあつ)に対してしつこく戊午の密勅の返納を催促しました。そして、この催促に折れた徳川慶篤は父・徳川斉昭と相談、ついに勅の幕府への返納を決断したのです。
しかし、その決断に水戸藩の士族達は強く反対、「勅の返納は朝廷に対して行うべき」や「勅の返納を阻止するべき」などの意見が挙がりました。このため結局勅の返納はされず、一向に勅の返納がされない水戸藩に対して井伊直弼は強引な手段に出ます。
1860年、徳川慶篤に対して催促する際に返納の期限を設けて、さらに期限が守られなかった場合は徳川斉昭を罪に問い、水戸藩の武士から領域や屋敷などの没収を意味する改易を行うと告げたのです。この言葉に水戸藩の井伊直弼への反感は頂点に達し、一部の者が井伊直弼を襲撃する計画を立てました。
桜田門外の変・井伊直弼の死
井伊直弼への不満が頂点に達した翌月の2月、高橋多一郎と関鉄之介らは水戸藩を脱藩して井伊直弼の襲撃計画を練っていました。内密に行っていた襲撃計画でしたが、幕府はそれに気づき襲撃計画が立てられている旨を井伊直弼に忠告、大老の辞職や帰国を提案します。しかし井伊直弼はこれを拒否、その間にも襲撃計画は練られていきました。
翌3月……すなわち安政7年の3月3日(1860年の3月24日)、雛祭りであるこの日は祝賀のため諸侯が総登城することになっており、大名駕籠を見物するため多くの人が集まります。そして、襲撃計画を立てた水戸浪士達もそこに紛れていたのです。
井伊直弼の駕籠が桜田門外に差しかかったあたりで水戸浪士達は井伊直弼を襲撃、過去に同様の襲撃がなかったことで警備も緩く、こうして井伊直弼は水戸浪士達に殺害されてしまいました。これが桜田門外の変であり、江戸城桜田門外で起こったことが事件の名前の由来になっています。そして、井伊直弼の死亡によって安政の大獄は終わりました。
\次のページで「徳川慶喜が15代将軍に就任」を解説!/