今日は安政の大獄について勉強していきます。「安政の大獄とは1858年に起きた幕府による弾圧」……この説明は間違いではないが、知識としてこれだけでは不充分でしょう。

安政の大獄が起こった原因、起こした人物、具体的な内容、その後にもたらした影響、これらを突き詰めてこそ初めて役立つ知識となり、安政の大獄を完全にマスターできるのです。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から安政の大獄をわかりやすくまとめた。

安政の大獄が起こった原因その1 将軍継嗣問題

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ペリーの来航による鎖国体制の終焉

1853年、鎖国体制の日本にとって大きな問題が発生しました。軍艦を率いたペリーが神奈川県の浦賀沖に来航、そしてペリーは日本に対して開国を要求したのです。この対応には政治的権力を持つ幕府があたりますが、12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)は体調を崩しており、対応のさなかに死去してしまいます。

そこで後を継いで13代将軍となったのが徳川家定(とくがわいえさだ)ですが、ここで問題だったのは徳川家定が病弱であったことです。老中や大名が徳川家定の将軍職を心配する中、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)は必死で徳川家定を補佐します。

阿部正弘はこのまま鎖国体制を維持するのは難しいと判断しました。ひとまずペリーを退去させるものの、翌1854年に日米和親条約を結んで下田と箱館を開港、こうして日本の鎖国体制は終焉を迎えたのです。この時、徳川家定は病状の悪化で廃人に近くなっており、満足に政務ができない状態でした。

後継者をめぐる一橋派と南紀派の対立

徳川家定の病状から一刻も早い後継者が必要なのは明白でしたが、徳川家定に子はおらず、そのため誰を将軍の後継者にするのかで揉めることになります。島津斉彬(しまづなりあきら)や徳川斉昭(とくがわなりあき)らの大名は、ペリー来航のような大事にも対応できる者を将軍にすべきと考え、徳川斉昭の子・一橋慶喜を後継者に推したのです。

老中の阿部正弘もこれに賛同しましたが、一方で諸代大名や大奥は徳川家定の血筋に最も近い者を将軍にすべきと考え、紀伊藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を後継者に推しました。一橋慶喜を推す側は一橋派、徳川慶福を押す側は南紀派と呼ばれ、それぞれ対立することになります。そして、この後継者をめぐる争いに勝利したのは南紀派でした。

これは一橋派だった阿部正弘が急死したこと、南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したことが理由とされており、徳川慶福は14代将軍に就任した際に徳川家茂(とくがわいえもち)に改名しています。これが将軍継嗣問題であり、つまり将軍継嗣問題とは江戸幕府13代将軍の徳川家定の跡継ぎをめぐっての争いです。

安政の大獄が起こった原因その2 日米修好通商条約

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無勅許での日米修好通商条約への調印

日米修好通商条約の締結は安政の大獄が起こった原因ですが、この場合問題だったのは条約の内容以上に条約締結に至った経緯でしょう。日米和親条約が結ばれたことで、アメリカの外交官であるタウンゼント・ハリスは日米修好通商条約の締結を目的に日本に赴きました。

幕府に対して条約への調印を求めるタウンゼント・ハリスでしたが、当時天皇だった孝明天皇は外国を嫌う攘夷派で、外国との通商反対や外国を撃退する……言わば排外思想の持ち主だったのです。当然、天皇の許可を意味する勅許(ちょっきょ)は出るはずもなく、そんな中対処できる人物として挙がったのが井伊直弼でした。

このため井伊直弼は大老に就任、ただ井伊直弼は勅許を得てからの条約調印を主張、交渉にあたっていた井上清直(いのうえきよなお)と岩瀬忠震(いわせただなり)にそう指示します。ところが、井上清直と岩瀬忠震はこの時の井伊直弼とのやりとりを調印承諾と判断してしまい、孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印してしまったのです。

幕藩体制を無視した朝廷の行為

日米修好通商条約は日本において不利益な内容であり、それも無勅許で調印したことから幕府は非難されました。さらに同じ頃、将軍継嗣問題に決着がつき、徳川慶福が名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改めて14代将軍になったのです。

さて、日米修好通商条約の締結によって攘夷派の動きは活発になります。井伊直弼が無勅許で条約を締結させた行動に対して、薩摩藩の島津斉彬は2500人の藩兵を引き連れて上京する計画も立てました。最も、これは島津斉彬が急死したため実際には行われていません。しかし、攘夷派の水戸藩士が朝廷に呼びかけたことで孝明天皇が動きます

1858年、孝明天皇は幕政改革を伝える戊午の密勅を水戸藩に直接下して幕府を批判、しかし幕府からすれば本来幕府に命じるはずの密勅を水戸藩に送ったのは許せないことでしょう。何しろ、当時政治の主導権を握っていたのは幕府であり、朝廷のこの行為は幕藩体制を完全に無視したものだったからです。

安政の大獄の始まり

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安政の大獄の主導者は井伊直弼

1858年の安政の大獄……それは政治における幕府による弾圧で、中心となっていたのは大老である井伊直弼です。戊午の密勅で政治に関与した朝廷でしたが、幕府はこれに対して厳しく取り調べました。その結果、長野主膳(ながのしゅぜん)の報告から戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜(うめだうんぴん)と断定します。

このため井伊直弼は梅田雲浜を捕縛、京都から江戸に送った後の取り調べでは激しい拷問も行いました。さらに無勅許での調印の責任を自派である堀田正睦と松平忠固に着せて2人を閣外に、代わりに太田資始(おおたすけもと)、間部詮勝(まなべあきかつ)、松平乗全(まつだいらのりやす)を老中に起用します。

世の中で尊皇攘夷派が騒動を起こす中、井伊直弼は権力を奮って治安を回復しようとしたのです。処罰の対象としたのは攘夷派や一橋派で、この安政の大獄によって西郷隆盛や一橋慶喜も逮捕されていますし、伊藤博文や高杉晋作らを教育した吉田松陰(よしだしょういん)に至っては処刑されています。

過激さによって人々に与えた恐怖と不満

戊午の密勅が下った水戸藩に対して、井伊直弼は密勅の返納を命令、同時に密勅に関与した人物と次々と割り出して捕縛していきます。ただ、取り調べの中では武力による倒幕の計画が明らかになるなど、水面下で不穏な動きがあることも同時に発覚しました。

捕縛・取り調べの対象は皇族にも及び、井伊直弼のやり方に反発した老中やタウンゼント・ハリスとの条約調印に関係した者達も次々と左遷していったのです。こうしたことから分かるとおり井伊直弼の安政の大獄は過激そのものであり、怖れられる一方で孤立を深め、また反対勢力からの反感を買いました。

特に戊午の密勅の返納はしつこく催促をし続けたほどで、井伊直弼は水戸藩を敵に回すことになります。これが安政の大獄の大まかな内容であり、1858年に始まった安政の大獄は1859年に井伊直弼が殺害されるまで続いていくのです。

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安政の大獄の終わり・桜田門外の変

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井伊直弼への襲撃計画

井伊直弼による安政の大獄はその過激さから反感を買っていましたが、1860年にその反感が頂点に達する出来事が起こります。1859年、井伊直弼は水戸藩主・徳川慶篤(とくがわよしあつ)に対してしつこく戊午の密勅の返納を催促しました。そして、この催促に折れた徳川慶篤は父・徳川斉昭と相談、ついに勅の幕府への返納を決断したのです。

しかし、その決断に水戸藩の士族達は強く反対、「勅の返納は朝廷に対して行うべき」や「勅の返納を阻止するべき」などの意見が挙がりました。このため結局勅の返納はされず、一向に勅の返納がされない水戸藩に対して井伊直弼は強引な手段に出ます。

1860年、徳川慶篤に対して催促する際に返納の期限を設けて、さらに期限が守られなかった場合は徳川斉昭を罪に問い、水戸藩の武士から領域や屋敷などの没収を意味する改易を行うと告げたのです。この言葉に水戸藩の井伊直弼への反感は頂点に達し、一部の者が井伊直弼を襲撃する計画を立てました。

桜田門外の変・井伊直弼の死

井伊直弼への不満が頂点に達した翌月の2月、高橋多一郎と関鉄之介らは水戸藩を脱藩して井伊直弼の襲撃計画を練っていました。内密に行っていた襲撃計画でしたが、幕府はそれに気づき襲撃計画が立てられている旨を井伊直弼に忠告、大老の辞職や帰国を提案します。しかし井伊直弼はこれを拒否、その間にも襲撃計画は練られていきました。

翌3月……すなわち安政7年の3月3日(1860年の3月24日)、雛祭りであるこの日は祝賀のため諸侯が総登城することになっており、大名駕籠を見物するため多くの人が集まります。そして、襲撃計画を立てた水戸浪士達もそこに紛れていたのです。

井伊直弼の駕籠が桜田門外に差しかかったあたりで水戸浪士達は井伊直弼を襲撃、過去に同様の襲撃がなかったことで警備も緩く、こうして井伊直弼は水戸浪士達に殺害されてしまいました。これが桜田門外の変であり、江戸城桜田門外で起こったことが事件の名前の由来になっています。そして、井伊直弼の死亡によって安政の大獄は終わりました

安政の大獄の終わりとその後の日本

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徳川慶喜が15代将軍に就任

将軍継嗣問題で一橋派が推していた一橋慶喜は、井伊直弼の安政の大獄によって謹慎の処分を受けていました。安政の大獄が終わった後、謹慎が解けた一橋慶喜は再び政治活動を行います。そして一橋慶喜は15代将軍に就任、最後の征夷大将軍・徳川慶喜の誕生です。

ただ、徳川慶喜が将軍に就いていたのはわずか1年足らずであり、武力による倒幕ムードが加速する中で徳川慶喜は大政奉還を行って朝廷に政権を返上します。とは言え、徳川慶喜の政治への関心は高く、大政奉還を行った後も政治の実権を握ろうと目論んでいました。

と言うのも、まだ若い明治天皇に政治は不可能と読んでいたからです。一方で新政府側はこれを危惧、徳川慶喜をこのままにしておけば結局徳川家が政治の実権を握ってしまうと考えます。そこで王政復古の大号令を行って新政府の樹立を宣言、これによって徳川慶喜の権力は完全に失われてしまいました。

新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発

武力による倒幕ムードが加速していた中、徳川慶喜が大政奉還を行ったことで幕府がなくなります。つまり倒幕と言っても倒すべき幕府が存在しなくなったのです。当然倒幕の作戦は中止、そのまま新政府による新時代が訪れると思われました。

しかし、徳川慶喜は大政奉還を行った後も政治の実権を握ろうと画策します。そこで、新政府側は王政復古の大号令で徳川慶喜に辞官納地(官位と領地の返納)を決定するも、徳川慶喜は策略によってこれを有名無実化させることを半ば成功させました。

このため、不利な状況になりつつあった新政府側は武力によって旧幕府側を倒そうと考えます。そして、そのきっかけを作ったのが西郷隆盛であり、繰り返しの挑発行為に旧幕府側は激高、こうして新政府軍と旧幕府軍の争いとなる戊辰戦争が勃発するのです。

安政の大獄と一緒に井伊直弼も勉強しておこう

安政の大獄に最も関係する人物は井伊直弼で、今回の解説の中でも彼の名前は幾度となく登場したでしょう。安政の大獄を行ったのも井伊直弼ですし、安政の大獄が起こる原因を作ったのも井伊直弼でした。

さらに、安政の大獄の結末は桜田門外の変と呼ばれる井伊直弼の死であり、つまり安政の大獄において井伊直弼は切っても切れない人物なのです。ですから、安政の大獄を勉強する時には同時に井伊直弼も勉強しておくと効率が良いですよ。

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幕末日本史歴史江戸時代

行き過ぎた弾圧の原因と結末!「安政の大獄」の流れを元塾講師が5分で分かりやすくわかりやすく解説

安政の大獄の終わり・桜田門外の変

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井伊直弼への襲撃計画

井伊直弼による安政の大獄はその過激さから反感を買っていましたが、1860年にその反感が頂点に達する出来事が起こります。1859年、井伊直弼は水戸藩主・徳川慶篤(とくがわよしあつ)に対してしつこく戊午の密勅の返納を催促しました。そして、この催促に折れた徳川慶篤は父・徳川斉昭と相談、ついに勅の幕府への返納を決断したのです。

しかし、その決断に水戸藩の士族達は強く反対、「勅の返納は朝廷に対して行うべき」や「勅の返納を阻止するべき」などの意見が挙がりました。このため結局勅の返納はされず、一向に勅の返納がされない水戸藩に対して井伊直弼は強引な手段に出ます。

1860年、徳川慶篤に対して催促する際に返納の期限を設けて、さらに期限が守られなかった場合は徳川斉昭を罪に問い、水戸藩の武士から領域や屋敷などの没収を意味する改易を行うと告げたのです。この言葉に水戸藩の井伊直弼への反感は頂点に達し、一部の者が井伊直弼を襲撃する計画を立てました。

桜田門外の変・井伊直弼の死

井伊直弼への不満が頂点に達した翌月の2月、高橋多一郎と関鉄之介らは水戸藩を脱藩して井伊直弼の襲撃計画を練っていました。内密に行っていた襲撃計画でしたが、幕府はそれに気づき襲撃計画が立てられている旨を井伊直弼に忠告、大老の辞職や帰国を提案します。しかし井伊直弼はこれを拒否、その間にも襲撃計画は練られていきました。

翌3月……すなわち安政7年の3月3日(1860年の3月24日)、雛祭りであるこの日は祝賀のため諸侯が総登城することになっており、大名駕籠を見物するため多くの人が集まります。そして、襲撃計画を立てた水戸浪士達もそこに紛れていたのです。

井伊直弼の駕籠が桜田門外に差しかかったあたりで水戸浪士達は井伊直弼を襲撃、過去に同様の襲撃がなかったことで警備も緩く、こうして井伊直弼は水戸浪士達に殺害されてしまいました。これが桜田門外の変であり、江戸城桜田門外で起こったことが事件の名前の由来になっています。そして、井伊直弼の死亡によって安政の大獄は終わりました

安政の大獄の終わりとその後の日本

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