幕末日本史歴史江戸時代

行き過ぎた弾圧の原因と結末!「安政の大獄」の流れを元塾講師が5分で分かりやすくわかりやすく解説

無勅許での日米修好通商条約への調印

日米修好通商条約の締結は安政の大獄が起こった原因ですが、この場合問題だったのは条約の内容以上に条約締結に至った経緯でしょう。日米和親条約が結ばれたことで、アメリカの外交官であるタウンゼント・ハリスは日米修好通商条約の締結を目的に日本に赴きました。

幕府に対して条約への調印を求めるタウンゼント・ハリスでしたが、当時天皇だった孝明天皇は外国を嫌う攘夷派で、外国との通商反対や外国を撃退する……言わば排外思想の持ち主だったのです。当然、天皇の許可を意味する勅許(ちょっきょ)は出るはずもなく、そんな中対処できる人物として挙がったのが井伊直弼でした。

このため井伊直弼は大老に就任、ただ井伊直弼は勅許を得てからの条約調印を主張、交渉にあたっていた井上清直(いのうえきよなお)と岩瀬忠震(いわせただなり)にそう指示します。ところが、井上清直と岩瀬忠震はこの時の井伊直弼とのやりとりを調印承諾と判断してしまい、孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印してしまったのです。

幕藩体制を無視した朝廷の行為

日米修好通商条約は日本において不利益な内容であり、それも無勅許で調印したことから幕府は非難されました。さらに同じ頃、将軍継嗣問題に決着がつき、徳川慶福が名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改めて14代将軍になったのです。

さて、日米修好通商条約の締結によって攘夷派の動きは活発になります。井伊直弼が無勅許で条約を締結させた行動に対して、薩摩藩の島津斉彬は2500人の藩兵を引き連れて上京する計画も立てました。最も、これは島津斉彬が急死したため実際には行われていません。しかし、攘夷派の水戸藩士が朝廷に呼びかけたことで孝明天皇が動きます

1858年、孝明天皇は幕政改革を伝える戊午の密勅を水戸藩に直接下して幕府を批判、しかし幕府からすれば本来幕府に命じるはずの密勅を水戸藩に送ったのは許せないことでしょう。何しろ、当時政治の主導権を握っていたのは幕府であり、朝廷のこの行為は幕藩体制を完全に無視したものだったからです。

安政の大獄の始まり

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安政の大獄の主導者は井伊直弼

1858年の安政の大獄……それは政治における幕府による弾圧で、中心となっていたのは大老である井伊直弼です。戊午の密勅で政治に関与した朝廷でしたが、幕府はこれに対して厳しく取り調べました。その結果、長野主膳(ながのしゅぜん)の報告から戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜(うめだうんぴん)と断定します。

このため井伊直弼は梅田雲浜を捕縛、京都から江戸に送った後の取り調べでは激しい拷問も行いました。さらに無勅許での調印の責任を自派である堀田正睦と松平忠固に着せて2人を閣外に、代わりに太田資始(おおたすけもと)、間部詮勝(まなべあきかつ)、松平乗全(まつだいらのりやす)を老中に起用します。

世の中で尊皇攘夷派が騒動を起こす中、井伊直弼は権力を奮って治安を回復しようとしたのです。処罰の対象としたのは攘夷派や一橋派で、この安政の大獄によって西郷隆盛や一橋慶喜も逮捕されていますし、伊藤博文や高杉晋作らを教育した吉田松陰(よしだしょういん)に至っては処刑されています。

過激さによって人々に与えた恐怖と不満

戊午の密勅が下った水戸藩に対して、井伊直弼は密勅の返納を命令、同時に密勅に関与した人物と次々と割り出して捕縛していきます。ただ、取り調べの中では武力による倒幕の計画が明らかになるなど、水面下で不穏な動きがあることも同時に発覚しました。

捕縛・取り調べの対象は皇族にも及び、井伊直弼のやり方に反発した老中やタウンゼント・ハリスとの条約調印に関係した者達も次々と左遷していったのです。こうしたことから分かるとおり井伊直弼の安政の大獄は過激そのものであり、怖れられる一方で孤立を深め、また反対勢力からの反感を買いました。

特に戊午の密勅の返納はしつこく催促をし続けたほどで、井伊直弼は水戸藩を敵に回すことになります。これが安政の大獄の大まかな内容であり、1858年に始まった安政の大獄は1859年に井伊直弼が殺害されるまで続いていくのです。

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