安政の大獄が起こった原因、起こした人物、具体的な内容、その後にもたらした影響、これらを突き詰めてこそ初めて役立つ知識となり、安政の大獄を完全にマスターできるのです。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から安政の大獄をわかりやすくまとめた。
ペリーの来航による鎖国体制の終焉
1853年、鎖国体制の日本にとって大きな問題が発生しました。軍艦を率いたペリーが神奈川県の浦賀沖に来航、そしてペリーは日本に対して開国を要求したのです。この対応には政治的権力を持つ幕府があたりますが、12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)は体調を崩しており、対応のさなかに死去してしまいます。
そこで後を継いで13代将軍となったのが徳川家定(とくがわいえさだ)ですが、ここで問題だったのは徳川家定が病弱であったことです。老中や大名が徳川家定の将軍職を心配する中、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)は必死で徳川家定を補佐します。
阿部正弘はこのまま鎖国体制を維持するのは難しいと判断しました。ひとまずペリーを退去させるものの、翌1854年に日米和親条約を結んで下田と箱館を開港、こうして日本の鎖国体制は終焉を迎えたのです。この時、徳川家定は病状の悪化で廃人に近くなっており、満足に政務ができない状態でした。
後継者をめぐる一橋派と南紀派の対立
徳川家定の病状から一刻も早い後継者が必要なのは明白でしたが、徳川家定に子はおらず、そのため誰を将軍の後継者にするのかで揉めることになります。島津斉彬(しまづなりあきら)や徳川斉昭(とくがわなりあき)らの大名は、ペリー来航のような大事にも対応できる者を将軍にすべきと考え、徳川斉昭の子・一橋慶喜を後継者に推したのです。
老中の阿部正弘もこれに賛同しましたが、一方で諸代大名や大奥は徳川家定の血筋に最も近い者を将軍にすべきと考え、紀伊藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を後継者に推しました。一橋慶喜を推す側は一橋派、徳川慶福を押す側は南紀派と呼ばれ、それぞれ対立することになります。そして、この後継者をめぐる争いに勝利したのは南紀派でした。
これは一橋派だった阿部正弘が急死したこと、南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したことが理由とされており、徳川慶福は14代将軍に就任した際に徳川家茂(とくがわいえもち)に改名しています。これが将軍継嗣問題であり、つまり将軍継嗣問題とは江戸幕府13代将軍の徳川家定の跡継ぎをめぐっての争いです。
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