幕末日本史歴史江戸時代

悪人か善人か?!安政の大獄の象徴「井伊直弼」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

井伊直弼の最期・桜田門外の変

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水戸藩を激高させた井伊直弼の言葉

安政の大獄を含め、井伊直弼の政策は尊王攘夷派などから反感を買っていました。1859年、井伊直弼は水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)に対して、戊午の密勅の返納を催促します。繰り返しの催促に対して徳川慶篤は勅(天皇の命令)を幕府に返納することを決意、しかし水戸藩ではこれに対して返納を阻止、もしくは朝廷の直接返納をすべきという意見が挙がりました。

1860年、井伊直弼は安藤信正を老中に昇進させると、徳川慶篤に対してしつこく勅の返納の催促を行います。一向に従わない徳川慶篤に井伊直弼はしびれをきらすと、ついには期限を定めてそれに遅れた場合は徳川慶篤の父・徳川斉昭を罪に問う、さらには水戸藩を改易するとまで伝えたのです。

江戸時代において、改易とは武士から身分を剥奪して所領や居城を没収することを意味するため、水戸藩の藩士はこれに激高しました。そこで、水戸藩を脱藩した高橋多一郎(たかはしたいちろう)や関鉄之介(せきてつのすけ)らは井伊直弼の襲撃を密かに計画し始めたのです。

桜田門外の変、井伊直弼を襲撃した当日の全容

水戸藩の脱藩者を危険視した幕府は、井伊直弼に襲撃の危険性を忠告します。大老の辞職、帰国、従士の増強、これらを提案するも井伊直弼は受け入れようとしませんでした。そして1860年……安政7年の3月3日、水戸浪士の一向は井伊直弼の襲撃を決行したのです。

この日は3月3日で雛祭りであったため、祝賀の意味で諸侯が総登城することになっており、大名行列を見るための多くの見物人もいました。水戸浪士の一向は井伊直弼の駕籠(かご)を確認すると、江戸城外の桜田門外あたりで一斉に襲撃したのです。

実は、このように大名駕籠が襲撃された事件は過去に例がなく、そのため手薄な警護になっていたことも襲撃が成功した理由の一つでしょう。この襲撃によって井伊直弼は殺害され、襲撃した水戸浪士の一向も後に自決や斬首による処刑、襲撃時の反撃で死傷した者もいました。そして、この襲撃事件が1860年の桜田門外の変と呼ばれる事件です。

井伊直弼の死が与えた影響

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