幕末日本史歴史江戸時代

悪人か善人か?!安政の大獄の象徴「井伊直弼」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

将軍継嗣問題の概要と結果

1853年、12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)が死去、そのため13代将軍として徳川家定が後を継ぐことになります。しかし徳川家定は病弱で満足な政務ができず、しかも同時期には黒船来航による日米和親条約の締結を余儀なくされた問題も起こっていました。

将来を案じた徳川斉昭ら有力大名達は、こうした大きな問題に対処できる者を将軍にするべきと考え、そこで挙がったのが徳川斉昭の息子・一橋慶喜(徳川慶喜)です。老中の阿部正弘もこれを支持しましたが、一方で反対する声もあり、徳川家定に血筋が近い徳川慶福(徳川家茂)を将軍にすべきという意見もありました。

一橋慶喜を推す一派は一橋派、徳川慶福を推す一派は南紀派と呼ばれ、それぞれは意見が対立することになります。井伊直弼もこの問題に絡んでおり、井伊直弼は南紀派……つまり徳川慶福を推しており、最終的に徳川慶福が14代将軍になったのです。また、徳川慶福はこの機会に徳川家茂(とくがわいえもち)と名前を改めました。

井伊直弼の大老就任

1858年、南紀派の政治工作によって井伊直弼は大老へと就任しました。大老とは将軍の補佐役であり、老中の上に置かれた最高職でもあります。ちなみに、大老就任のきっかけは徳川家定の「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」の一言だとされているようです。

将軍継嗣問題が徳川慶福に決着したのは阿部正弘らの死去が影響していますが、井伊直弼が権威ある大老に就任した影響も強かったのでしょう。同じ頃、アメリカのタウンゼント・ハリスが軍艦でやってきて条約に対する即時調印を要求しました。ただ、この時井伊直弼はそれに反対、天皇の許可を得る…すなわち勅許(ちょっきょ)を得てから調印すべきと主張します。

そこで井伊直弼は一刻も早く勅許を得ようと行動、その間ハリスとの交渉を引き延ばすように指示しました。ただ、この時のやりとりで誤解が生じてしまい、一部の者が井伊直弼が即時調印を許可したと判断、そのため孝明天皇の勅許を得る前に日米修好通商条約に調印してしまったのです。

安政の大獄による弾圧

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反発に対する井伊直弼の過激な対応

安政の大獄とは、1858年に起こった幕府による政治的弾圧です。日米修好通商条約における無勅許での調印、将軍継嗣問題における徳川家茂の就任……これらの井伊直弼の行動に対して、多くの者は不満を抱えていました。特に、日米修好通商条約は日本に不利なものでしたからね。

朝廷も幕府を批判、そのため孝明は戊午の密勅を幕府・諸藩に回送することを示して水戸藩に下します。これは幕政改革の指示であり、幕府の視点で捉えれば朝廷の幕藩体制を無視した行為になるのです。これに井伊直弼は反発、朝廷、さらには尊王攘夷派の武士などを対象に、自らの政策に反対する者を弾圧しました。

これが安政の大獄であり、つまり安政の大獄とは幕府……正確には井伊直弼の政策に反対する者に対する弾圧です。「幕府による政治的弾圧」から分かるように、これを命令したのは将軍の徳川家定ですが、あくまでそれは形だけのものであり、実際には井伊直弼の命令で行ったとされています。

高まる井伊直弼への不満

この安政の大獄では多くの者が処分され、井伊直弼の過激さが露呈する事件でもありました。まず、井伊直弼は戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜と断定して逮捕、捕縛後は拷問まで行っており、梅田雲浜はそのまま獄中で死亡しています。

さらに、無勅許での調印の責任は堀田正睦と松平忠固に着せて両名を政治の外部へ追いやりました。これも強引な対処であり、なぜなら両名とも井伊直弼にとって同派だったからです。また、水戸藩に対しては密勅の返納を命じており、井伊直弼は治安の回復に努めました。

しかし、井伊直弼のこの過激な行動は尊王攘夷が騒乱を起こす世の中において反感を買うことになります。安政の大獄は1858~1859年にかけて行われたものですが、終わりの原因になったのは井伊直弼の死であり、後の桜田門外の変で井伊直弼は殺害されるのです。

\次のページで「井伊直弼の最期・桜田門外の変」を解説!/

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