なぜなら、名君と呼ばれたほどの井伊直弼は藩主としての信頼は厚く、そこには「悪人」の一言では片付けられない一面もあるからです。今回、安政の大獄と桜田門外の変を中心に、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から井伊直弼をわかりやすくまとめた。
井伊直弼の誕生と藩主の後継者になるまで
井伊直弼は1815年、井伊直中の十四男として生まれました。父・井伊直中は彦根藩第13代藩主ですが、これは14代藩主もしくは11第当主と呼ぶこともあります。十四男から分かるとおり井伊直弼は兄弟が多く、また庶子(正室ではない女性から生まれた子供)だったために養子の口もありませんでした。
このため、父の死後は17歳~32歳まで屋敷で部屋住みとして過ごします。ちなみに、井伊直弼はこの屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名づけていたようですが、これは自らを花の咲くことのない埋もれ木に例えた皮肉が込められていました。
井伊直弼はこの埋木舎で茶道を学んで茶人として大成、さらには武芸や学問を学ぶ日々を送ります。しかし、彦根藩第14代当主である兄の直亮の世子(藩主の世継ぎ)であった井伊直元が死去したことで、兄の養子となった井伊直弼は彦根藩の後継者に決定したのです。
名君と呼ばれた井伊直弼
1850年の11月、兄・直亮の死去によって井伊直弼は家督を継いで彦根藩第15代藩主となります。自らを花の咲くことのない埋もれ木と例えていた井伊直弼でしたが、藩主になってからは藩政改革を行って名君と呼ばれるほどの技量を発揮しました。藩政改革とは、文字どおり各藩が行財政の再建を目的として行った政治・経済などの改革です。
さて、1853年のペリーの黒船来航時、老中首座の阿部正弘はアメリカの要求への対応に悩んで井伊直弼に相談します。この時、井伊直弼はアメリカとの交易……すなわち開国を主張しましたが、阿部正弘が外交顧問として幕政に参与させた徳川斉昭(とくがわなりあき)は攘夷を唱えていました。
攘夷とは外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通す排外思想を意味しますから、開国をすすめる井伊直弼と正反対の考えであり、そのため徳川斉昭と井伊直弼は対立します。さらに将軍継嗣問題において徳川慶福(とくがわよしとみ)を推したことで、一橋慶喜を推す徳川斉昭との対立はより深まるのでした。
\次のページで「将軍継嗣問題の概要と結果」を解説!/