日本史

悪人か善人か?!安政の大獄の象徴「井伊直弼」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は井伊直弼について勉強していくぞ。安政の大獄による弾圧など、恐怖政治を彷彿させる井伊直弼は悪人のイメージが強いかもしれないな。しかし、イメージはあくまでイメージにしか過ぎない。

なぜなら、名君と呼ばれたほどの井伊直弼は藩主としての信頼は厚く、そこには「悪人」の一言では片付けられない一面もあるからだ。今回、安政の大獄と桜田門外の変を中心に、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から井伊直弼をわかりやすくまとめた。

井伊直弼が藩主になるまで

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井伊直弼の誕生と藩主の後継者になるまで

井伊直弼は1815年、井伊直中の十四男として生まれました。父・井伊直中は彦根藩第13代藩主ですが、これは14代藩主もしくは11第当主と呼ぶこともあります。十四男から分かるとおり井伊直弼は兄弟が多く、また庶子(正室ではない女性から生まれた子供)だったために養子の口もありませんでした。

このため、父の死後は17歳~32歳まで屋敷で部屋住みとして過ごします。ちなみに、井伊直弼はこの屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名づけていたようですが、これは自らを花の咲くことのない埋もれ木に例えた皮肉が込められていました。

井伊直弼はこの埋木舎で茶道を学んで茶人として大成、さらには武芸や学問を学ぶ日々を送ります。しかし、彦根藩第14代当主である兄の直亮の世子(藩主の世継ぎ)であった井伊直元が死去したことで、兄の養子となった井伊直弼は彦根藩の後継者に決定したのです。

名君と呼ばれた井伊直弼

1850年の11月、兄・直亮の死去によって井伊直弼は家督を継いで彦根藩第15代藩主となります。自らを花の咲くことのない埋もれ木と例えていた井伊直弼でしたが、藩主になってからは藩政改革を行って名君と呼ばれるほどの技量を発揮しました。藩政改革とは、文字どおり各藩が行財政の再建を目的として行った政治・経済などの改革です。

さて、1853年のペリーの黒船来航時、老中首座の阿部正弘はアメリカの要求への対応に悩んで井伊直弼に相談します。この時、井伊直弼はアメリカとの交易……すなわち開国を主張しましたが、阿部正弘が外交顧問として幕政に参与させた徳川斉昭(とくがわなりあき)は攘夷を唱えていました。

攘夷とは外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通す排外思想を意味しますから、開国をすすめる井伊直弼と正反対の考えであり、そのため徳川斉昭と井伊直弼は対立します。さらに将軍継嗣問題において徳川慶福(とくがわよしとみ)を推したことで、一橋慶喜を推す徳川斉昭との対立はより深まるのでした。

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井伊直弼と言えば安政の大獄を連想すると思うが、安政の大獄が起こる要因となった一つが将軍継嗣問題だ。将軍継嗣問題……それは、江戸幕府13代将軍の徳川家定の後継を巡っての政争であることをしっかり覚えておこう!

将軍継嗣問題の行方と井伊直弼の大老就任

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将軍継嗣問題の概要と結果

1853年、12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)が死去、そのため13代将軍として徳川家定が後を継ぐことになります。しかし徳川家定は病弱で満足な政務ができず、しかも同時期には黒船来航による日米和親条約の締結を余儀なくされた問題も起こっていました。

将来を案じた徳川斉昭ら有力大名達は、こうした大きな問題に対処できる者を将軍にするべきと考え、そこで挙がったのが徳川斉昭の息子・一橋慶喜(徳川慶喜)です。老中の阿部正弘もこれを支持しましたが、一方で反対する声もあり、徳川家定に血筋が近い徳川慶福(徳川家茂)を将軍にすべきという意見もありました。

一橋慶喜を推す一派は一橋派、徳川慶福を推す一派は南紀派と呼ばれ、それぞれは意見が対立することになります。井伊直弼もこの問題に絡んでおり、井伊直弼は南紀派……つまり徳川慶福を推しており、最終的に徳川慶福が14代将軍になったのです。また、徳川慶福はこの機会に徳川家茂(とくがわいえもち)と名前を改めました。

井伊直弼の大老就任

1858年、南紀派の政治工作によって井伊直弼は大老へと就任しました。大老とは将軍の補佐役であり、老中の上に置かれた最高職でもあります。ちなみに、大老就任のきっかけは徳川家定の「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」の一言だとされているようです。

将軍継嗣問題が徳川慶福に決着したのは阿部正弘らの死去が影響していますが、井伊直弼が権威ある大老に就任した影響も強かったのでしょう。同じ頃、アメリカのタウンゼント・ハリスが軍艦でやってきて条約に対する即時調印を要求しました。ただ、この時井伊直弼はそれに反対、天皇の許可を得る…すなわち勅許(ちょっきょ)を得てから調印すべきと主張します。

そこで井伊直弼は一刻も早く勅許を得ようと行動、その間ハリスとの交渉を引き延ばすように指示しました。ただ、この時のやりとりで誤解が生じてしまい、一部の者が井伊直弼が即時調印を許可したと判断、そのため孝明天皇の勅許を得る前に日米修好通商条約に調印してしまったのです。

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ここは人名に注意だな!一橋慶喜とは徳川慶喜であり、徳川慶福とは徳川家茂だ。また、意外にも井伊直弼は即時調印に反対していた事実も分かっただろう。これはテスト勉強とは無関係だが、こうした事実を知ることは歴史に興味を持つきっかけにもなるぞ。

安政の大獄による弾圧

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反発に対する井伊直弼の過激な対応

安政の大獄とは、1858年に起こった幕府による政治的弾圧です。日米修好通商条約における無勅許での調印、将軍継嗣問題における徳川家茂の就任……これらの井伊直弼の行動に対して、多くの者は不満を抱えていました。特に、日米修好通商条約は日本に不利なものでしたからね。

朝廷も幕府を批判、そのため孝明は戊午の密勅を幕府・諸藩に回送することを示して水戸藩に下します。これは幕政改革の指示であり、幕府の視点で捉えれば朝廷の幕藩体制を無視した行為になるのです。これに井伊直弼は反発、朝廷、さらには尊王攘夷派の武士などを対象に、自らの政策に反対する者を弾圧しました。

これが安政の大獄であり、つまり安政の大獄とは幕府……正確には井伊直弼の政策に反対する者に対する弾圧です。「幕府による政治的弾圧」から分かるように、これを命令したのは将軍の徳川家定ですが、あくまでそれは形だけのものであり、実際には井伊直弼の命令で行ったとされています。

高まる井伊直弼への不満

この安政の大獄では多くの者が処分され、井伊直弼の過激さが露呈する事件でもありました。まず、井伊直弼は戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜と断定して逮捕、捕縛後は拷問まで行っており、梅田雲浜はそのまま獄中で死亡しています。

さらに、無勅許での調印の責任は堀田正睦と松平忠固に着せて両名を政治の外部へ追いやりました。これも強引な対処であり、なぜなら両名とも井伊直弼にとって同派だったからです。また、水戸藩に対しては密勅の返納を命じており、井伊直弼は治安の回復に努めました。

しかし、井伊直弼のこの過激な行動は尊王攘夷が騒乱を起こす世の中において反感を買うことになります。安政の大獄は1858~1859年にかけて行われたものですが、終わりの原因になったのは井伊直弼の死であり、後の桜田門外の変で井伊直弼は殺害されるのです。

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井伊直弼を勉強するからには、安政の大獄は絶対に抑えておくべきポイントだ!「1858年~1859年にかけて行われた、幕府による政治的弾圧」……この説明は、スラスラと言えるようになっておいてくれ。

井伊直弼の最期・桜田門外の変

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水戸藩を激高させた井伊直弼の言葉

安政の大獄を含め、井伊直弼の政策は尊王攘夷派などから反感を買っていました。1859年、井伊直弼は水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)に対して、戊午の密勅の返納を催促します。繰り返しの催促に対して徳川慶篤は勅(天皇の命令)を幕府に返納することを決意、しかし水戸藩ではこれに対して返納を阻止、もしくは朝廷の直接返納をすべきという意見が挙がりました。

1860年、井伊直弼は安藤信正を老中に昇進させると、徳川慶篤に対してしつこく勅の返納の催促を行います。一向に従わない徳川慶篤に井伊直弼はしびれをきらすと、ついには期限を定めてそれに遅れた場合は徳川慶篤の父・徳川斉昭を罪に問う、さらには水戸藩を改易するとまで伝えたのです。

江戸時代において、改易とは武士から身分を剥奪して所領や居城を没収することを意味するため、水戸藩の藩士はこれに激高しました。そこで、水戸藩を脱藩した高橋多一郎(たかはしたいちろう)や関鉄之介(せきてつのすけ)らは井伊直弼の襲撃を密かに計画し始めたのです。

桜田門外の変、井伊直弼を襲撃した当日の全容

水戸藩の脱藩者を危険視した幕府は、井伊直弼に襲撃の危険性を忠告します。大老の辞職、帰国、従士の増強、これらを提案するも井伊直弼は受け入れようとしませんでした。そして1860年……安政7年の3月3日、水戸浪士の一向は井伊直弼の襲撃を決行したのです。

この日は3月3日で雛祭りであったため、祝賀の意味で諸侯が総登城することになっており、大名行列を見るための多くの見物人もいました。水戸浪士の一向は井伊直弼の駕籠(かご)を確認すると、江戸城外の桜田門外あたりで一斉に襲撃したのです。

実は、このように大名駕籠が襲撃された事件は過去に例がなく、そのため手薄な警護になっていたことも襲撃が成功した理由の一つでしょう。この襲撃によって井伊直弼は殺害され、襲撃した水戸浪士の一向も後に自決や斬首による処刑、襲撃時の反撃で死傷した者もいました。そして、この襲撃事件が1860年の桜田門外の変と呼ばれる事件です。

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安政の大獄同様、この桜田門外の変も井伊直弼を勉強する上で絶対に抑えておくべきポイントだ!ここでは一つだけ注意してくれ、桜田門外の変が起こったのは安政7年の3月3日であることは有名だが、1860年と西暦で示す場合は3月24日になるぞ。

井伊直弼の死が与えた影響

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井伊直弼の死・幕府と彦根藩のその後

井伊直弼が殺害されたことで安政の大獄は終わり、処罰されていた多くの大名らも復帰しました。しかし井伊直弼は幕府の最高職に就いており、その最高職の者が水戸藩に殺害されたこと、また安政の大獄での幕府への不信感から倒幕への動きが加速していくのです。

やがて、新政府と旧幕府による戊辰戦争が勃発して幕府は終焉を迎えるわけですが、井伊直弼が藩主を務めていた彦根藩は戊辰戦争では意外にも新政府側についています。これは、井伊直弼の死後に幕府から受けた仕打ちが倒幕の考えへと向かわせたためでしょう。

過激な手段をとったとは言え、井伊直弼は幕府のために行動して殺害されました。しかし、井伊直弼が殺害されたことはむしろ倒幕ムードを高める結果となってしまい、藩主を務めていた彦根藩を逆に幕府から遠ざける結果になってしまったのです。最も、戊辰戦争後は明治政府の行う廃藩置県によって藩が廃止されましたから、彦根藩は後になくなることになります。

井伊直弼の死・徳川慶喜のその後

徳川慶喜……すなわち一橋慶喜は将軍継嗣問題の争いで敗れた後、安政の大獄によって謹慎の処罰を受けていました。桜田門外の変で井伊直弼が殺害されたことで安政の大獄が終わると、徳川慶喜も処分が解かれて政治の世界に戻ってきます。

14代将軍の徳川家茂の死去、徳川慶喜は15代将軍となりました。しかし、当時は若い明治天皇が即位したことで倒幕ムードが加速しており、そのため徳川慶喜は大政奉還を行って政権を天皇へと返上、将軍であった期間は1年足らずとされています。

最も、徳川慶喜にとって政権返上はあくまで形式上のものであり、新政府樹立後も政治に携わろうと画策していました。このため新政府は徳川家の排除を考え、その結果王政復古の大号令を引き起こしてしまい、戊辰戦争が勃発する原因となってしまったのです。

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井伊直弼の死後、幕府は終焉へと向かい戊辰戦争によって明治政府が誕生する。戦争が起こる以上はそれだけ多くの者が幕府に不信感を持っていたわけだが、そんな不信感の一つが井伊直弼の安政の大獄であったことは言うまでもないだろう。

ポイントは安政の大獄と桜田門外の変

井伊直弼で覚えるべきポイントは、やはり安政の大獄と桜田門外の変でしょう。ただ、これらを別物と考えてはならず、安政の大獄による過激な行動が桜田門外の変による殺害という結末を招いています。

また、安政の大獄と桜田門外の変においては事件の内容だけでなくそれが起こった原因にも注目してください。そうすれば、井伊直弼の一生の全体の流れがおのずと掴めますよ。

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