「さきたま古墳公園」って知っているか。埼玉県で育った人は遠足で行ったことがある人もいるでしょう。この公園には大型古墳がなんと9基も残っている。埼玉県はこれらの古墳群を世界遺産に登録することを目指しているそうです。

それじゃ、埼玉県出身で日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。埼玉県出身。小学生のときに「さきたま古墳公園」に遠足で行くが、何があったのかよく分からず帰宅。大人になって実は歴史的にすごいスポットだったことを知り、気になって「さきたま古墳公園」のことを調べた。

さきたま古墳公園とは史跡を整備した公園

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さきたま古墳公園は、埼玉県の行田市にある公園のこと。公園と言っても遊具がある公園ではありません。古墳群を保存するために整備された都市公園。営造物公園と言い換えられることもあります。

さきたま古墳公園がある場所は?

さきたま古墳公園は、埼玉県の北部に位置する行田市にあります。JR吹上駅もしくは行田駅からバスで近くに行くことが可能。また、JRの北鴻巣駅から武蔵水路沿いにある「さきたま緑道」を歩くと約1時間。ハイキングコースとしても活用されています。

車で来る場合は、東北自動車道「羽生」ICから約30分。関越自動車道「東松山」ICより約40分となります。圏央道「桶川北本」ICからは約30分。駐車場もありますのでドライブがてら遊びに来るのもいいでしょう。

さきたま古墳公園が整備される過程は?

さきたま古墳公園の前身となるのが「さきたま風土記の丘」。1938年8月に国により埼玉古墳群が史跡としての指定されます。それをきっかけに整備されました。

1976年から、埼玉古墳群と調和がとれた風景を楽しみ、散策できるような公園づくりが開始されます。その過程で広い範囲の土地が収容され、敷地面積を広げていきました。

2007年には日本の歴史公園100選に選定。「優れた歴史的・文化的資源を有し、地域の活性化に貢献している歴史公園」として認められ、今日に至ります。

さきたま古墳公園は古墳群を中心に博物館などがある

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さきたま古墳公園は、埼玉古墳群のほか、埼玉県立さきたま史跡の博物館、はにわの館、移築された古民家、薬用植物園、レストハウスなど、いろいろな見どころがあります。春には道沿いに桜が咲き乱れ、写真撮影スポットに変化することもうれしいポイント。

埼玉県立さきたま史跡の博物館

埼玉県立さきたま史跡の博物館は、国宝となっている出土品も保管されている博物館。国宝展示室では、金錯銘鉄剣をはじめとする埼玉古墳群から出土した品々を見ることができます。

金錯銘鉄剣は稲荷山古墳からの出土品。そのほか一緒に出土したものはまとめて「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として管理。1981年には重要文化財に、1983年には国宝に指定されました。これらの管轄は文化庁。つまり日本が所有者となっています。

さきたま火祭りで古代にタイムスリップ!

毎年5月4日にさきたま古墳公園のなかにある芝生広場で開催されるのが「さきたま火祭り」。日中は、フリーマーケットや郷土芸能の催し物、地元の名産物の販売などが行われます。

夜になるとさきたま古墳公園はタイムスリップ。古代衣装を身につけた人々が登場します。松明をかかげながら古墳のあいだを練り歩くパフォーマンスを披露。「火祭り」という言葉は「古事記」に由来。古墳公園だからこそできる古代日本の再現です。

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埼玉古墳群の起源から県名が生まれた

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埼玉県名の由来は諸説ありますが、そのひとつが埼玉古墳群から来るもの。そのため、古墳群があるあたりの住所は今でも「行田市埼玉(さきたま)」となっているそうです。

万葉集には「さきたまの津」という地名が登場。「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」という地名も風土記に見られます。そこから古墳群のあたりで県名が生まれたと推測されました。

安閑天皇の時代はどんな時代?

「日本書紀」によると、古墳群の起源となった武蔵国国造を埼玉郡に送ったのが安閑天皇(あんかんてんのう)。安閑天皇は日本の27代目の天皇とされ、531年から536年まで在位しました。

66歳で天皇になるものの4年で崩御。在位の期間はとても短いのですが、地方豪族が支配していた土地を次々と管轄下に。大和朝廷の政治的基盤だけではなく経済的基盤も強化しました。

武蔵国国造の墓が古墳群のはじまり

安閑天皇より武蔵国国造を任命されたのが笠原直使主(かさはらのあたいおみ)。この辺りは何もない地でしたが、その時期に前方後円墳があらわれます。その大きさは、当時の京あたりの前方後円墳と同じくらいのもの。笠原直使主の墓と言われています。

稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣も古墳群の起源のヒントに。そこにある父の名前「カサヒヨ」が「カサハラ」と読むことができます。そこから笠原直使主の墓が古墳群の起源ではないかと推測されました。

埼玉古墳群の歴史は長い期間をかけて紐解かれる

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埼玉古墳群の詳細は、江戸時代に書かれた書物にくわえ、明治時代から始まった発掘調査を通じて少しずつ明らかに。現在も、すべての古墳が再現されているわけではなく、段階的に調査・再現が試みられています。

江戸時代の書物では「小さな山形の塚」と表現

埼玉古墳群は5世紀末から7世紀のあいだにかけて成立したというのが現在の定説です。これらの古墳に関する記述が最初に見られるのが江戸時代。「新編武蔵風土記稿」や「忍名所図会」に登場します。

「忍名所図会」は、忍藩(おしはん)について記した書物のなかでも古いもののひとつ。名所や風習、名品などをイラストとともに紹介しています。このなかで古墳群は「小さな山形の塚」と表現されました。

明治時代に発掘調査を開始され現在に至る

将軍山古墳の発掘が行われたのが明治時代である1893年。昭和にはいり、1935年の大規模な調査を通じて前方後円墳11基、円墳11基が確認されました。

1938年には9基の大型古墳が国の史跡に認定。その歴史的価値が認められました。

1970年代後半ごろから、さきたま風土記の丘という名前の公園として整備を開始。さまざまな設備を追加していきます。そして現在のさきたま古墳公園となりました。

埼玉古墳群は古墳時代の勢力図をあらわす

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埼玉古墳群は、日本のなかでも珍しい大きな古墳が集まっているスポット。古墳時代は、個々に存在していたムラが西日本を中心にまとまっていく時期。鉄による武器や鎧を作り、武力で人々を支配するようになりました。埼玉古墳群は、当時の指導者の権力の大きさをあらわしています。

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金錯銘鉄剣は歴史的発見!115文字が古代史を変えた稲荷山古墳

稲荷山古墳は、国宝級の出土品がたくさん出たことでも知られている前方後円墳。もっとも有名な出土品が金錯銘鉄剣。X線検査を行った結果、その両面に115文字の漢字が金箔をはめこんで書かれていることが分かりました。

金錯銘鉄剣に金箔で記された115文字は、東アジア全体のなかで見ても多い文字数。そこに記されている情報から日本古代史の年代などを確定する作業が一気にすすみました。

石田三成も陣をはった日本最大の円墳が丸墓山古墳

埼玉古墳群のなかで唯一の円墳となるのが丸墓山古墳。日本でもっとも大きな規模の円墳です。丸墓山古墳は実際にのぼることも可能。

1590年の小田原征伐にて、豊臣秀吉は石田三成に忍城を攻略することを命じます。そこで光成が陣をはったのが丸墓山古墳の頂上。そこを拠点に光成は忍城を攻め落とすことを試みます。

そこでとられた方法が水攻め。利根川の水が使われました。丸墓山古墳から南にまっすぐある道路はそのときの堤の名残。最終的に光成は忍城をおとすことに失敗、関東エリアの強固な勢力の存在を感じとることができます。

二子山古墳は武蔵国最大の前方後円墳

埼玉県内にある古墳のなかでは最大規模のもの。二子山古墳という名前は、2つの山があるように見えたことに由来します。この古墳の長さは132.2メートル。高さは13.7メートルになります。古墳の東側に観音寺があり、そこから「観音山」と呼ばれていたとのこと。

埋葬施設はまだ未発掘。詳しいことは分かっていません。埼玉古墳群の中央にあることから、埋葬されている一族の権力の強さを感じさせます。墳丘のまわりからは多数の埴輪が出土。それにより6世紀初頭ごろに作られたと推測されています。

古墳の原型は段階的に復元することを目指している

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By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link

埼玉古墳群のなかには、長年の風雨の影響などから、原形を十分にとどめていない古墳も。無理に修復したり発掘したりすると、内部が崩落する可能性があるので、少しづつ調査が進められています。

崩壊の危機から逆転の発想!石室のなかに入れる将軍山古墳

将軍山古墳は埼玉県で8番目に大きい前方後円墳。明治時代に横穴式石室を調査したところ、たくさんの副葬品がでてきました。崩壊の度合いがはげしく、石室が露出している状態でした。

そこで埼玉県は、石室の崩壊している部分をドームでおおって将軍山博物館として利用することに。石室のなかで出土品を見学することができる珍しい古墳となりました。

原型の復元はこれからか?愛宕山古墳

墳丘の長さが53メートルと、埼玉古墳群のなかでいちばん小さな前方後円墳。前方部が失われていた上に、残された後円部も崩壊の危険。墳丘もやや形が変わってしまっています。

このような事情から発掘調査はあまり進んでいません。そのため古墳全体の形は復元前。とはいえ、狭い範囲ながら行われた発掘調査にてたくさんの埴輪が出土しました。

 

埴輪の出土は埼玉古墳群の詳細を知る重要な手掛かりに

Okunoyama Kofun (Gyoda), zenkei.JPG
By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link

埼玉古墳群を有名にしたのが数多くの出土品。これらは古墳時代の日本の勢力図や年代などを把握するうえで大切な情報です。とくに埴輪は、古墳がつくられた年代を策定するときに重要な手掛かりになりました。

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瓦塚古墳から出土した埴輪はデザインのバリエーションが豊富

瓦の塚?と不思議になる名前の瓦塚古墳。近くに瓦の職人の家があったことから付いた名前だそうです。古墳の整備をする際、発掘調査をしたところ、たくさんの埴輪が見つかりました。

瓦塚古墳から出てきた埴輪の興味深いところはその形状。通常の人形型のほか、家の形をしているもの、白鳥など。さらに、琴を弾く男性、首飾りをした女性、馬を引く男性、楯をもつ男性も出土しました。

埴輪の出土により造形年代が判明!奥の山古墳

埼玉古墳群のなかでは2番目にちいさい古墳。古墳の一部である造り出しから出てきた装飾付の須恵器はとても貴重なものでした。関東地方で、この種類の器が見つかることはめったにないそうです。

装飾付の須恵器は格上の人の古墳から見つかるもの。奥の山古墳は小さい規模の古墳です。そこから、古墳の大きさは埋葬された人の格をそのままあらわさないことが判明しました。

小型古墳はレアな発見があることもめずらしくない

image by PIXTA / 7762179

どうしても大型の古墳に目が行きがちですが、小規模な古墳では驚くようなレアな発見があることも。とくに小型の古墳からは、関東エリアでは珍しい設備や出土品が出る傾向があります。

三重の周濠がある前方後円墳は珍しい!鉄砲山古墳

鉄砲山古墳の珍しい点は3重堀であること。ただ、3つ目の堀が全周しているのかどうかは現在の段階では不明です。3重堀の古墳は、国内のものを全部あわせて4基。とても珍しいタイプの古墳です。

もうひとつは造り出しがあること。造り出しは、埼玉古墳群では稲荷山古墳、二子山古墳、将軍山古墳にもあります。しかしそれ以外となると、群馬県と福岡県の古墳に見られるものの、規模が小さく形状も異なるとのこと。

中の山古墳から関東地方では例を見ないタイプの壺が発見

まだ十分に調査が進んでいない中の山古墳ですが、通常の円筒埴輪とは異なるものが出土。須恵器の窯で焼かれた灰色の壷が見つかりました。これは須恵質埴輪壷と呼ばれ、韓国や北九州で見られるタイプのものです。

中の山古墳がつくられたのは6世紀末~7世紀初めごろ。埼玉古墳群のなかではもっとも最後につくられたと考えられています。駐車場や博物館から離れた場所に現存。そのため他の古墳よりも静かな空間になっています。

埼玉古墳群は世界遺産を目指す日本有数の史跡

埼玉古墳群は、古墳時代の日本の勢力図や出来事の年代を把握する上でとても貴重な史跡。くわえて面白いのは、戦国時代から江戸時代にかけての出来事が垣間見れる点。とくに忍藩と石田三成との攻防や砲術演習所などの痕跡は、近世の歴史を知る上で貴重な情報です。古墳時代から現在に至るまでの日本の歴史が分かる、そんなスケールの大きさに触れたい人は、ぜひ「さきたま古墳公園」を訪れてみてはいかがでしょうか。

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古墳時代日本史歴史

埼玉の県名の発祥の地「さきたま古墳公園」を元大学教員がわかりやすく解説!~古墳時代と現代をつなぐ場所~

瓦塚古墳から出土した埴輪はデザインのバリエーションが豊富

瓦の塚?と不思議になる名前の瓦塚古墳。近くに瓦の職人の家があったことから付いた名前だそうです。古墳の整備をする際、発掘調査をしたところ、たくさんの埴輪が見つかりました。

瓦塚古墳から出てきた埴輪の興味深いところはその形状。通常の人形型のほか、家の形をしているもの、白鳥など。さらに、琴を弾く男性、首飾りをした女性、馬を引く男性、楯をもつ男性も出土しました。

埴輪の出土により造形年代が判明!奥の山古墳

埼玉古墳群のなかでは2番目にちいさい古墳。古墳の一部である造り出しから出てきた装飾付の須恵器はとても貴重なものでした。関東地方で、この種類の器が見つかることはめったにないそうです。

装飾付の須恵器は格上の人の古墳から見つかるもの。奥の山古墳は小さい規模の古墳です。そこから、古墳の大きさは埋葬された人の格をそのままあらわさないことが判明しました。

小型古墳はレアな発見があることもめずらしくない

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どうしても大型の古墳に目が行きがちですが、小規模な古墳では驚くようなレアな発見があることも。とくに小型の古墳からは、関東エリアでは珍しい設備や出土品が出る傾向があります。

三重の周濠がある前方後円墳は珍しい!鉄砲山古墳

鉄砲山古墳の珍しい点は3重堀であること。ただ、3つ目の堀が全周しているのかどうかは現在の段階では不明です。3重堀の古墳は、国内のものを全部あわせて4基。とても珍しいタイプの古墳です。

もうひとつは造り出しがあること。造り出しは、埼玉古墳群では稲荷山古墳、二子山古墳、将軍山古墳にもあります。しかしそれ以外となると、群馬県と福岡県の古墳に見られるものの、規模が小さく形状も異なるとのこと。

中の山古墳から関東地方では例を見ないタイプの壺が発見

まだ十分に調査が進んでいない中の山古墳ですが、通常の円筒埴輪とは異なるものが出土。須恵器の窯で焼かれた灰色の壷が見つかりました。これは須恵質埴輪壷と呼ばれ、韓国や北九州で見られるタイプのものです。

中の山古墳がつくられたのは6世紀末~7世紀初めごろ。埼玉古墳群のなかではもっとも最後につくられたと考えられています。駐車場や博物館から離れた場所に現存。そのため他の古墳よりも静かな空間になっています。

埼玉古墳群は世界遺産を目指す日本有数の史跡

埼玉古墳群は、古墳時代の日本の勢力図や出来事の年代を把握する上でとても貴重な史跡。くわえて面白いのは、戦国時代から江戸時代にかけての出来事が垣間見れる点。とくに忍藩と石田三成との攻防や砲術演習所などの痕跡は、近世の歴史を知る上で貴重な情報です。古墳時代から現在に至るまでの日本の歴史が分かる、そんなスケールの大きさに触れたい人は、ぜひ「さきたま古墳公園」を訪れてみてはいかがでしょうか。

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