古墳時代日本史歴史

埼玉の県名の発祥の地「さきたま古墳公園」を元大学教員が解説!~古墳時代と現代をつなぐ場所~

金錯銘鉄剣は歴史的発見!115文字が古代史を変えた稲荷山古墳

稲荷山古墳は、国宝級の出土品がたくさん出たことでも知られている前方後円墳。もっとも有名な出土品が金錯銘鉄剣。X線検査を行った結果、その両面に115文字の漢字が金箔をはめこんで書かれていることが分かりました。

金錯銘鉄剣に金箔で記された115文字は、東アジア全体のなかで見ても多い文字数。そこに記されている情報から日本古代史の年代などを確定する作業が一気にすすみました。

石田三成も陣をはった日本最大の円墳が丸墓山古墳

埼玉古墳群のなかで唯一の円墳となるのが丸墓山古墳。日本でもっとも大きな規模の円墳です。丸墓山古墳は実際にのぼることも可能。

1590年の小田原征伐にて、豊臣秀吉は石田三成に忍城を攻略することを命じます。そこで光成が陣をはったのが丸墓山古墳の頂上。そこを拠点に光成は忍城を攻め落とすことを試みます。

そこでとられた方法が水攻め。利根川の水が使われました。丸墓山古墳から南にまっすぐある道路はそのときの堤の名残。最終的に光成は忍城をおとすことに失敗、関東エリアの強固な勢力の存在を感じとることができます。

二子山古墳は武蔵国最大の前方後円墳

埼玉県内にある古墳のなかでは最大規模のもの。二子山古墳という名前は、2つの山があるように見えたことに由来します。この古墳の長さは132.2メートル。高さは13.7メートルになります。古墳の東側に観音寺があり、そこから「観音山」と呼ばれていたとのこと。

埋葬施設はまだ未発掘。詳しいことは分かっていません。埼玉古墳群の中央にあることから、埋葬されている一族の権力の強さを感じさせます。墳丘のまわりからは多数の埴輪が出土。それにより6世紀初頭ごろに作られたと推測されています。

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忍城は、地元の豪族の成田氏がこの一帯を支配していた忍一族を滅ぼして造ったもの。豊臣秀吉側の水攻めにも落ちなかったことから「浮き城」として語り継がれた。この逸話の象徴的な場所が埼玉古墳群というのはおもしろいな。

古墳の原型は段階的に復元することを目指している

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By Saigen Jiro投稿者自身による作品, CC0, Link

埼玉古墳群のなかには、長年の風雨の影響などから、原形を十分にとどめていない古墳も。無理に修復したり発掘したりすると、内部が崩落する可能性があるので、少しづつ調査が進められています。

崩壊の危機から逆転の発想!石室のなかに入れる将軍山古墳

将軍山古墳は埼玉県で8番目に大きい前方後円墳。明治時代に横穴式石室を調査したところ、たくさんの副葬品がでてきました。崩壊の度合いがはげしく、石室が露出している状態でした。

そこで埼玉県は、石室の崩壊している部分をドームでおおって将軍山博物館として利用することに。石室のなかで出土品を見学することができる珍しい古墳となりました。

原型の復元はこれからか?愛宕山古墳

墳丘の長さが53メートルと、埼玉古墳群のなかでいちばん小さな前方後円墳。前方部が失われていた上に、残された後円部も崩壊の危険。墳丘もやや形が変わってしまっています。

このような事情から発掘調査はあまり進んでいません。そのため古墳全体の形は復元前。とはいえ、狭い範囲ながら行われた発掘調査にてたくさんの埴輪が出土しました。

 

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将軍山博物館は、石室の内部を見れるという貴重な場所。これはある意味「苦肉の策」だ。崩壊により露出している石室をどうするか思案する関係者の姿が目に浮かぶ。石室は当然のことながらお墓。露出しているときはレプリカの埴輪を作ってしのいだそうだ。

埴輪の出土は埼玉古墳群の詳細を知る重要な手掛かりに

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By Saigen Jiro投稿者自身による作品, CC0, Link

埼玉古墳群を有名にしたのが数多くの出土品。これらは古墳時代の日本の勢力図や年代などを把握するうえで大切な情報です。とくに埴輪は、古墳がつくられた年代を策定するときに重要な手掛かりになりました。

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hikosuke