古墳時代日本史歴史

埼玉の県名の発祥の地「さきたま古墳公園」を元大学教員が解説!~古墳時代と現代をつなぐ場所~

埼玉古墳群の起源から県名が生まれた

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埼玉県名の由来は諸説ありますが、そのひとつが埼玉古墳群から来るもの。そのため、古墳群があるあたりの住所は今でも「行田市埼玉(さきたま)」となっているそうです。

万葉集には「さきたまの津」という地名が登場。「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」という地名も風土記に見られます。そこから古墳群のあたりで県名が生まれたと推測されました。

安閑天皇の時代はどんな時代?

「日本書紀」によると、古墳群の起源となった武蔵国国造を埼玉郡に送ったのが安閑天皇(あんかんてんのう)。安閑天皇は日本の27代目の天皇とされ、531年から536年まで在位しました。

66歳で天皇になるものの4年で崩御。在位の期間はとても短いのですが、地方豪族が支配していた土地を次々と管轄下に。大和朝廷の政治的基盤だけではなく経済的基盤も強化しました。

武蔵国国造の墓が古墳群のはじまり

安閑天皇より武蔵国国造を任命されたのが笠原直使主(かさはらのあたいおみ)。この辺りは何もない地でしたが、その時期に前方後円墳があらわれます。その大きさは、当時の京あたりの前方後円墳と同じくらいのもの。笠原直使主の墓と言われています。

稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣も古墳群の起源のヒントに。そこにある父の名前「カサヒヨ」が「カサハラ」と読むことができます。そこから笠原直使主の墓が古墳群の起源ではないかと推測されました。

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「万葉集

埼玉古墳群の歴史は長い期間をかけて紐解かれる

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埼玉古墳群の詳細は、江戸時代に書かれた書物にくわえ、明治時代から始まった発掘調査を通じて少しずつ明らかに。現在も、すべての古墳が再現されているわけではなく、段階的に調査・再現が試みられています。

江戸時代の書物では「小さな山形の塚」と表現

埼玉古墳群は5世紀末から7世紀のあいだにかけて成立したというのが現在の定説です。これらの古墳に関する記述が最初に見られるのが江戸時代。「新編武蔵風土記稿」や「忍名所図会」に登場します。

「忍名所図会」は、忍藩(おしはん)について記した書物のなかでも古いもののひとつ。名所や風習、名品などをイラストとともに紹介しています。このなかで古墳群は「小さな山形の塚」と表現されました。

明治時代に発掘調査を開始され現在に至る

将軍山古墳の発掘が行われたのが明治時代である1893年。昭和にはいり、1935年の大規模な調査を通じて前方後円墳11基、円墳11基が確認されました。

1938年には9基の大型古墳が国の史跡に認定。その歴史的価値が認められました。

1970年代後半ごろから、さきたま風土記の丘という名前の公園として整備を開始。さまざまな設備を追加していきます。そして現在のさきたま古墳公園となりました。

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「忍名所図会」で描かれた埼玉古墳群は何とも不思議な感じだ。家がポツポツあるのみ。田畑が広がるなかに小高い塚がある。行田付近は山間部ではない。これらの古墳を見た江戸時代の人々は「小さな山形の塚」の存在をどのように感じていたのだろうか。

埼玉古墳群は古墳時代の勢力図をあらわす

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埼玉古墳群は、日本のなかでも珍しい大きな古墳が集まっているスポット。古墳時代は、個々に存在していたムラが西日本を中心にまとまっていく時期。鉄による武器や鎧を作り、武力で人々を支配するようになりました。埼玉古墳群は、当時の指導者の権力の大きさをあらわしています。

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hikosuke