
4、家康、大坂城の太閤遺金を減らすために策略を巡らす
秀頼の知行は220万石から65万石と激減したとはいえ、大坂城には秀吉時代に佐渡の金山や石見銀山などから産出された運上金銀など、莫大な財宝が残っていました。
これを戦費として兵力を雇われてはたまらないので、家康は策を用いてそれとなく、秀吉の菩提を弔うために神社やお寺に寄付してはどうかと提案。淀殿茶々は家康の策などに気が回るはずもなく、喜んで畿内の有数の寺や神社の修復に莫大な資金を投入。
そのひとつが方広寺の大仏と鐘だったわけですね。
4-1、方広寺の鐘銘事件の勃発

方広寺大仏殿は、かつて秀吉が建立したが大地震で倒壊したままになっていたものを秀頼が再建することに。そして慶長19年(1614年)に梵鐘の銘が「国家安康」と家康の名を分断してあり、「君臣豊楽、子孫殷昌」とあわせて、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願ったものだと因縁をつけて来たのでした。
大坂方は家康のもとに家老の片桐且元を派遣したけれど、家康は会ってくれず。本多正純ら家康の側近から、淀殿茶々を人質として江戸へ送る、または秀頼が江戸へ参勤、または大坂城を出て他国に転封のどれかを選べとの家康の内意を伝えられたのです。一方、淀殿茶々の乳母大蔵卿の局も家康のもとに送られていて、こちらには家康は機嫌よく会い、方広寺の鐘銘のことには触れず、秀頼は将軍秀忠の娘婿だし、まったく害する気持ちはないと明言。
淀殿茶々は家康に直接会った大蔵卿の局の報告の方を信じてしまい、且元は徳川方とみなされ大坂城を追放の憂き目に。家康の要求はまさに且元が伝えたことで、それを無視したことで幕府に対する謀反であるとされ、大坂の陣に突入したのですね。
今の時代から考えると、国家安康と家康の名前をぶっちぎってあるというのは言いがかりにしか見えないですが、当時の常識から考えると、時の権力者の名前を分断するなどマナーに反する無神経な行為に。また大蔵卿の局と且元に対して、別々に違う対処をするいやらしい家康の策略にはまる淀殿茶々と側近たちは、お粗末としか言いようがないですね。
秀頼はもう21歳と立派な大人であり公家としての教養はあって書が上手なのですから、方広寺の鐘銘について何かコメントが伝わっていてもおかしくないですが、このときどう思っていたのかも不明のまま。

国家安康の話は俺でも知っているほど有名だな。それにしても家康の使者二人への対応はなんとも嫌らしいが、大坂方も脇が甘いと思うぞ。
5、ついに大坂の陣に突入
ということで、江戸幕府軍が大坂に攻めてくることになり、秀頼の名前で、福島正則、加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に援軍要請をしたのですが、反応なし。しかし関が原で西軍に付いたせいで家康に改易された元大名の真田信繁(幸村)、長宗我部盛親(元親の4男)、毛利勝永、明石全登、そして黒田長政と大喧嘩して奉公構い(どこにも雇えないようお達しを送られること)をされた後藤基次などを筆頭に、大野治長の呼びかけや招集などで、約10万の武士が大坂城に入城。
5-1、大坂冬の陣は浪人衆がんばるも淀殿茶々の悲鳴で講和に持ち込まれるはめに
By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art – http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/20sen/kaiga1/0003j.htm, パブリック・ドメイン, Link
浪人たちは士気旺盛ではあっても寄せ集め集団で統制が取りにくかったといいますが、関ケ原のときに九州で挙兵した黒田官兵衛は急雇いの9000の兵力で連戦連勝だったことを考えると、総大将の指揮次第で決まるはず。
大坂城に入った戦上手の真田信繁や後藤基成が、いかに勝てるように打って出る戦略を唱えても、大野治長らときたら自分が招いたり雇っておきながら、彼らが徳川方に内通するのではと疑ったりして全然信用せず、大坂城籠城せざるを得ないなど思うような作戦が取れず。
真田信繁は大坂城の弱点をカバーするために真田丸を作ったけれど、大野治長らはまじで真田が徳川方に寝返るために作ったのではと危惧していたというからお粗末この上ない上司としか言いようがありませんね。
結局、浪人集の活躍と大坂城という巨大な防塞のおかげで倍の20万の徳川軍は苦戦を強いられ大損害。
家康は大坂城築城に関わった大工に城内の建物のうち、淀殿茶々の居室がどこにあるか突き止めて、そこを目がけて砲撃開始。砲弾が当たり侍女たちが目の前で粉砕したのを見た淀殿茶々が震えあがって和議を叫びだしたおかげで休戦、和議に持ち込まれました。
5-2、秀頼は和議に反対だった
秀吉の乳兄弟木村重成は大坂城内では唯一まともどころか立派な青年武将で、後藤基次らを尊敬していたそう。後藤らが木村重成に伝言すれば、秀頼に伝えてくれたということです。真田、後藤らの主張は、大坂城は秀吉が建てた天下の名城で、10年は籠城できること、それだけ持ちこたえれば情勢が変わるという持久戦、秀頼もそれを聞いて賛成し、和議には反対だったといいますが、総大将の意見が通らず、淀殿茶々ママのヒステリーには勝てなかったのは情けないかぎり。
家康は堀を埋める条件で和議成立。大坂方が堀を埋めなかったために徳川軍がさっさと堀を埋めだし、外堀から内堀までどんどん埋めて二の丸三の丸など城郭一部破壊し、本丸だけにされてしまい、大坂城は裸城に。
5-2、翌年、大坂夏の陣勃発
翌慶長20年(1615年)、大坂方は城内の浪人たちを追放せず、淀殿茶々や秀頼の大坂城退去も拒否して、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言、大坂夏の陣に突入。堀を埋められて本丸だけの大坂城では籠城は出来ず、雇い入れた浪人たちも勝てるとは思わなかったほどで、逃げ出す浪人も多かく7万の軍勢に。
しかし残った人たち、特に真田信繁などは、名こそ惜しけれという、最後の花を咲かせたい武将として凄まじい力を発揮。家康本陣に突入し、家康が2度も自決しようかとしたと言うほど追い詰めたと後世に残る戦いに。そして真田は総大将秀頼の出馬を要請、秀頼本人も出るつもりで用意したが、淀殿茶々からの呼び出しで奥へ引っ込み、常高院が家康から和議の申し入れという協議を始めて士気をくじかれるはめに。そうこうする間に真田信繁らは次々と戦死し、大坂城は火の海となりカオス。秀頼と淀殿茶々らは天守閣が炎に包まれたので山里廓の籾蔵へ誘われるまま入ったということです。
大野治長は最後の頼みの綱として、秀頼正室で家康孫の千姫を逃がして助命嘆願に使おうとしましたが、家康は拒否。秀頼らが籾蔵にいることを知ると包囲して自決に追い込むことに。
秀頼は享年21歳。秀吉が築いた豊臣家もこれで滅亡。
6、短い生涯だが今も解明されない秀頼の謎の数々
秀頼はわずか21歳で亡くなりましたが、ほとんど外へ出て人と接触していない引きこもりみたいな生涯だったので、生誕から死去までいまだに謎が多く解明されていません。
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