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秀吉の息子?生誕から疑惑ありの「豊臣秀頼」を歴女が解説!結局本当の姿を知らせることなく滅びた彼はどんな人物だったのか

よぉ、桜木健二だ、今回は、豊臣秀吉の息子の秀頼を取り上げるぞ。秀吉の晩年に淀殿茶々から生まれたが、秀吉の死後はほとんど大坂城を出なかった箱入り息子として育ち、無能なお坊ちゃまか実は有能さを生かしきれず亡くなったか、本当に秀吉の息子だったのか、いまだによくわからない人物だ。

このへんに興味を持ってよく調べてみた歴女のあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。若くして亡くなった歴史上の人物たちにも興味津々、淀殿茶々ママの陰に隠れてしまっている豊臣秀頼がどんな人物だったのかを5分でわかるようまとめた。

1、 豊臣秀吉の次男として誕生

豊臣秀頼は文禄2年(1593年)に、大坂城で誕生。幼名お拾い、拾君。母淀殿茶々、父秀吉が57歳の時の子です。秀頼には棄君または鶴松と言う天正17年生まれの兄がいたけれど病弱で、3歳にならずして夭折。鶴松が病死したときの秀吉はショックで髻を切り、他の大名たちもそれにならって髻の山が出来たという話も。

鶴松の死で子供を諦めていた秀吉は、秀頼が生まれた知らせを受けて喜び勇んで九州から飛んで帰りました。そして捨て子は育つという迷信を信じ、名前をおひろいと付けただけでなく、わざわざ秀頼を捨てて家臣に拾わせるという念の入れよう。尚、秀吉は北政所寧々を「まんかかさま」と呼ばせて、秀頼の嫡母としての立場をキープ。そして秀吉は秀頼に大坂城を与えることにして、自分のために新たに伏見城を築城。大名たちは秀吉の気まぐれな伏見城を建てるために付き合わされて文句たらたらだったという話も。

秀頼は木村重滋の未亡人宮内卿局らを乳母に、乳兄弟でその息子木村重成らと育ったようですが、子供時代の話はあまり伝わっていません。

2、秀頼生誕により、秀吉暴走する

秀吉は、天正19年(1591年)に唯一頼りになる親族だった弟秀長と鶴松を失くした後、ついに姉の子で甥の秀次を後継者と決めて関白を譲り、自分は太閤(関白を引退した人が名乗る名称)に。豊臣政権二代目としての秀次の地盤が固まりつつあったところに秀頼が生まれたので、秀吉は急遽路線変更、秀次の何人もいる娘のひとりと秀頼を婚約させ、秀頼が成人した暁には秀次が秀頼に後を譲るようにと考えたのでした。

2-1、秀次一家を皆殺し、家臣たちも大勢連座で責任取らせて多数切腹に

秀吉の頭の中では秀頼中心で、秀次はあくまで暫定政権としたかったのは、秀次はもともと秀吉の甥と言うだけで評判があまり良くなかったという理由も。
秀吉が自分の真似をしてはいけないとくどくどと書いた訓戒が残っているくらいで、小牧長久手の戦でもへまをしたし、文禄慶長の役で朝鮮半島に渡って戦えと言われても拒否したという、武将としてもしっかりしたところがなかった人。しかし秀次はそのとき27歳、子供もすでに数人いて側室も多数。

一方の秀吉は57歳でかなり弱っていたので、秀次の欠点ばかり気になり気が気ではなかったのでしょう。もし自分の死後に秀次が約束を果たさず、秀頼に関白天下人を譲らなかったらどうしようとか、もし秀次が秀頼を滅ぼして自分の子供に跡を継がせたらとか、秀頼に跡を継がせたいばかりに被害妄想的に考えたのでは。

ということで、秀吉は秀次に色々あらぬ謀反の罪を着せて関白を辞職させました
秀次は身に覚えのない罪を着せられだまし討ちみたいに伏見へ呼び出されて逮捕、そして高野山まで配流され出家したものの、追い打ちをかけるように切腹。それだけではなく秀次の妻子もほぼ全員が処刑されて皆殺し、次期秀次政権を担うために秀吉が付けた家臣たち、普通に交流のあった大名や文化人たちまでが連座で切腹、遠流なども多数出た大事件となり、奥州から着いたばかりの側室予定の最上義光の娘駒姫まで処刑されるという残酷さ。

秀次と交流のあった大名たちといえば、あの細川忠興も、切腹した秀次の家老前野景定に長女を嫁がせていたうえ秀次に黄金200枚の借金があったのですが、娘をすぐに離縁させて仏門へ、そして徳川家康に取り成しを頼んで借金を返して難を逃れ事なきを得たほど。

秀次事件

豊臣秀次は、殺生関白と称されるほど残虐な行為を行ったとか、秀吉との間が険悪になるようなことをしたとか言われますが、これは秀吉が耄碌して秀頼に跡を継がせたいがために秀次を葬ったという暴挙だけではなく、秀次が秀吉の跡継ぎと確定したときに秀吉が秀次に付けた家老や家臣が政治の中心になるわけなので、石田三成ら五奉行ら淀殿茶々と秀頼の元にいる近江出身者たちとの勢力争いもあった、秀次側近たちの排除も加味されていたとみるべきでしょう。
この事件は後の関が原合戦まで後を引く豊臣政権内の対立の布石となったことは明らか。

その後秀吉は独裁体制だったところに、前田利家を筆頭に徳川家康ら五大老、石田三成らの五奉行を設置。そして秀吉は起請文を作成して、多数の大名達に血判署名させ、自分の死後も秀頼に忠誠を誓わせました。

秀頼が生まれたと言うだけで、秀次に移行していくはずだった豊臣政権の基盤が崩れたという考え方も出来ると思います。

3、 秀吉死後、石田三成と徳川家康の対立が関が原合戦へ

慶長3年(1598年)8月に秀吉死去。秀頼はまだ5歳で秀吉と共に伏見城に住んでいましたが、秀吉死後は大坂城へ入場。秀頼はおそらく秀吉のことはほとんど覚えていなかったはず、しかし短い生涯を通じて父の神号である「豊国大明神」と書き続け、達筆の文字が神社の額や掛け軸に。

そして秀吉死去後に家康派と三成派の不穏な動きが相次ぎ、ついに2年後の慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵し関ヶ原の戦いが勃発、このとき秀頼7歳、もちろん秀頼の知らぬ間に母の淀殿茶々が側近たちとで方針を決めたようで、秀頼のためにという名目で戦っていたはずの石田三成の西軍には付かず、家康にもいい返事をするという感じで、上に立った傍観者のつもりでいたようです。

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