今回は、豊臣秀吉の息子の秀頼を取り上げるぞ。秀吉の晩年に淀殿茶々から生まれたが、秀吉の死後はほとんど大坂城を出なかった箱入り息子として育ち、無能なお坊ちゃまか実は有能さを生かしきれず亡くなったか、本当に秀吉の息子だったのか、いまだによくわからない人物です。

このへんに興味を持ってよく調べてみた歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。若くして亡くなった歴史上の人物たちにも興味津々、淀殿茶々ママの陰に隠れてしまっている豊臣秀頼がどんな人物だったのかを5分でわかるようまとめた。

1、 豊臣秀吉の次男として誕生

豊臣秀頼は文禄2年(1593年)に、大坂城で誕生。幼名お拾い、拾君。母淀殿茶々、父秀吉が57歳の時の子です。秀頼には棄君または鶴松と言う天正17年生まれの兄がいたけれど病弱で、3歳にならずして夭折。鶴松が病死したときの秀吉はショックで髻を切り、他の大名たちもそれにならって髻の山が出来たという話も。

鶴松の死で子供を諦めていた秀吉は、秀頼が生まれた知らせを受けて喜び勇んで九州から飛んで帰りました。そして捨て子は育つという迷信を信じ、名前をおひろいと付けただけでなく、わざわざ秀頼を捨てて家臣に拾わせるという念の入れよう。尚、秀吉は北政所寧々を「まんかかさま」と呼ばせて、秀頼の嫡母としての立場をキープ。そして秀吉は秀頼に大坂城を与えることにして、自分のために新たに伏見城を築城。大名たちは秀吉の気まぐれな伏見城を建てるために付き合わされて文句たらたらだったという話も。

秀頼は木村重滋の未亡人宮内卿局らを乳母に、乳兄弟でその息子木村重成らと育ったようですが、子供時代の話はあまり伝わっていません。

2、秀頼生誕により、秀吉暴走する

秀吉は、天正19年(1591年)に唯一頼りになる親族だった弟秀長と鶴松を失くした後、ついに姉の子で甥の秀次を後継者と決めて関白を譲り、自分は太閤(関白を引退した人が名乗る名称)に。豊臣政権二代目としての秀次の地盤が固まりつつあったところに秀頼が生まれたので、秀吉は急遽路線変更、秀次の何人もいる娘のひとりと秀頼を婚約させ、秀頼が成人した暁には秀次が秀頼に後を譲るようにと考えたのでした。

2-1、秀次一家を皆殺し、家臣たちも大勢連座で責任取らせて多数切腹に

秀吉の頭の中では秀頼中心で、秀次はあくまで暫定政権としたかったのは、秀次はもともと秀吉の甥と言うだけで評判があまり良くなかったという理由も。
秀吉が自分の真似をしてはいけないとくどくどと書いた訓戒が残っているくらいで、小牧長久手の戦でもへまをしたし、文禄慶長の役で朝鮮半島に渡って戦えと言われても拒否したという、武将としてもしっかりしたところがなかった人。しかし秀次はそのとき27歳、子供もすでに数人いて側室も多数。

一方の秀吉は57歳でかなり弱っていたので、秀次の欠点ばかり気になり気が気ではなかったのでしょう。もし自分の死後に秀次が約束を果たさず、秀頼に関白天下人を譲らなかったらどうしようとか、もし秀次が秀頼を滅ぼして自分の子供に跡を継がせたらとか、秀頼に跡を継がせたいばかりに被害妄想的に考えたのでは。

ということで、秀吉は秀次に色々あらぬ謀反の罪を着せて関白を辞職させました
秀次は身に覚えのない罪を着せられだまし討ちみたいに伏見へ呼び出されて逮捕、そして高野山まで配流され出家したものの、追い打ちをかけるように切腹。それだけではなく秀次の妻子もほぼ全員が処刑されて皆殺し、次期秀次政権を担うために秀吉が付けた家臣たち、普通に交流のあった大名や文化人たちまでが連座で切腹、遠流なども多数出た大事件となり、奥州から着いたばかりの側室予定の最上義光の娘駒姫まで処刑されるという残酷さ。

秀次と交流のあった大名たちといえば、あの細川忠興も、切腹した秀次の家老前野景定に長女を嫁がせていたうえ秀次に黄金200枚の借金があったのですが、娘をすぐに離縁させて仏門へ、そして徳川家康に取り成しを頼んで借金を返して難を逃れ事なきを得たほど。

秀次事件

豊臣秀次は、殺生関白と称されるほど残虐な行為を行ったとか、秀吉との間が険悪になるようなことをしたとか言われますが、これは秀吉が耄碌して秀頼に跡を継がせたいがために秀次を葬ったという暴挙だけではなく、秀次が秀吉の跡継ぎと確定したときに秀吉が秀次に付けた家老や家臣が政治の中心になるわけなので、石田三成ら五奉行ら淀殿茶々と秀頼の元にいる近江出身者たちとの勢力争いもあった、秀次側近たちの排除も加味されていたとみるべきでしょう。
この事件は後の関が原合戦まで後を引く豊臣政権内の対立の布石となったことは明らか。

その後秀吉は独裁体制だったところに、前田利家を筆頭に徳川家康ら五大老、石田三成らの五奉行を設置。そして秀吉は起請文を作成して、多数の大名達に血判署名させ、自分の死後も秀頼に忠誠を誓わせました。

秀頼が生まれたと言うだけで、秀次に移行していくはずだった豊臣政権の基盤が崩れたという考え方も出来ると思います。

3、 秀吉死後、石田三成と徳川家康の対立が関が原合戦へ

慶長3年(1598年)8月に秀吉死去。秀頼はまだ5歳で秀吉と共に伏見城に住んでいましたが、秀吉死後は大坂城へ入場。秀頼はおそらく秀吉のことはほとんど覚えていなかったはず、しかし短い生涯を通じて父の神号である「豊国大明神」と書き続け、達筆の文字が神社の額や掛け軸に。

そして秀吉死去後に家康派と三成派の不穏な動きが相次ぎ、ついに2年後の慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵し関ヶ原の戦いが勃発、このとき秀頼7歳、もちろん秀頼の知らぬ間に母の淀殿茶々が側近たちとで方針を決めたようで、秀頼のためにという名目で戦っていたはずの石田三成の西軍には付かず、家康にもいい返事をするという感じで、上に立った傍観者のつもりでいたようです。

\次のページで「3-1、関が原で勝利した家康は征夷大将軍に就任」を解説!/

3-1、関が原で勝利した家康は征夷大将軍に就任

関が原合戦で勝利をおさめた家康は、北政所寧々が明け渡した大坂城西の丸に入り、五大老筆頭として豊臣家の所領を戦功のあった大名へ分与したので、200万石以上あった豊臣家の所領は摂津河内和泉の65万石の一大名に。

そして家康は源氏の氏の長者として慶長8年(1603年)2月、鎌倉幕府や室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍に就任。江戸に幕府を開いたのです。

豊臣家はなんと公家だった

日本の名家というのは姓氏がはっきりした家系の出身。つまりどの人の先祖も、源、平、藤原、橘氏に分けられるとなっていて、織田信長は出来星大名とはいえ先祖をたどって行けば平氏の出身、徳川家康は三河の大名の子であるし数代前の先祖までは遡れるのでごまかしも効いて(クレームもあったらしいが、それに対する反論もあったとか)、とにかく源氏を称し、徳川を名乗って源氏の氏の長者しかなれない征夷大将軍になれたわけです。

ところが、秀吉はいまさら系図を作れないくらい下層民の出身だと知れ渡っていたので(秀吉が自分で吹聴した天皇ご落胤の伝説もあるけれど、誰もまじで信じていなかったでしょう)、五摂家筆頭の近衛前久(さきひさ)の猶子となり、天正13年(1585年)7月11日には関白に、翌年の天正14年(1586年)9月9日には正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任して豊臣政権を確立。
ということで、豊臣というのは源平藤橘とは別に新たに特別に設けられた姓で、秀吉は武家でありながら公家の最高位を得られる摂関家に。
なので、秀頼は公家として教育を受け、地位も大阪にいながらにして右大臣にまで上り詰めたんですね。

3-2、秀頼は千姫と結婚

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By 不詳 - 弘経寺(茨城県常総市)所蔵「千姫姿絵」, パブリック・ドメイン, Link

慶長8年(1603年)同年7月に家康が秀吉の遺言として、秀頼は家康孫で徳川秀忠の娘の千姫(母は淀殿の妹のお江)と結婚。秀頼11歳、千姫6歳、従兄妹同士の結婚で、内情はほぼ別居状態。儀式のときだけ並んで座る間柄だったようですが、仲は良かったと言われています。

3-3、千姫の祖父家康から上洛せよとの要請は、淀殿茶々が阻止

慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進したときに家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望、秀頼に臣下の礼をとるように北政所寧々を通して要求してきましたが、淀殿茶々は時代の流れが読めずこの重要さが理解できなかったよう。臣下の家康が会いに来いとは何事だ、そんなことをすれば秀頼を殺して自分も死ぬとヒステリーを起こしたため、実現せず。家康はしかたなく6男の松平忠輝を大坂城に派遣、忠輝が秀頼に面会。


この年、家康は征夷大将軍を辞して、息子秀忠が2代将軍に。豊臣家のものと思われていた政権が徳川家に渡ったことが完璧にわかる事態に、大坂城の淀殿茶々らは騒然となったようです。

3-4、秀頼、疱瘡を患うも回復し、息子国松誕生。

慶長12年(1607年)、秀頼は右大臣を辞したのですが、このとき秀頼14歳、疱瘡(天然痘)を患い、顔に少しあばたが残ったが回復。

そして秀頼15歳にして側室から長子国松が誕生。これはおそらく淀殿茶々が秀頼と千姫との仲をさくと言うか、年頃になった秀頼に自分の腰元をあてがったとみていいでしょう。正室の千姫を憚って、国松誕生は公にされなかったうえ、国松は大坂城を出されて淀殿茶々の妹京極家の常高院初の地元の越前で育ったということ、次の年に生まれた娘で後の天秀尼も母不明、秘密に育てられていたよう。

3-5、秀頼、家康の要請でついに上洛、二条城で会見

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By 不明 - 京都市東山区養源院(ようげんいん)所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

慶長16年(1611年)3月、家康の要請で後陽成天皇が後水尾天皇に譲位。家康はまたまた秀頼に挨拶に来いと要請。淀殿茶々はもちろん拒否、この度は北政所寧々からも、家康の言うことを聞けときついお達しがあり、加藤清正が自分が護るからと嘆願し、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正や浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康と会見しました。

このとき秀頼は19歳、堂々たる大人に成長していて、しかも198センチで165キロという体格、立ち居振る舞いも立派で座っているだけで圧倒的な存在感だったといわれています。もちろん秀頼と家康は親しくおしゃべりしたわけでもなく、秀頼は毒殺を恐れて何も口にせず、間に立った北政所寧々の問いかけにも一言二言だけで、加藤清正の「お袋様がお待ちです」の促しを合図に席を立ったということ。

しかしこの会見で、秀頼の存在感が老いゆくばかりの家康を圧倒したらしく、家康は秀頼を滅ぼす決心を。

3-6、秀吉ゆかりの頼りになる大名たちが、次々と亡くなり秀頼孤立感高まる

二条城の会見後の慶長16年(1611年)に北政所寧々の甥浅野長政、加藤清正、堀尾吉晴、慶長18年(1613年)には池田輝政、浅野幸長そして慶長19年(1614年)に前田利家の息子前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立感が一挙に加速。加藤清正は二条城会見の後、熊本へ帰る船の中で発病してすぐ亡くなるなど、彼らは数か月後にばたばたと亡くなったということで毒殺の噂あり、しかし二条城会見で毒が盛られたとしても、そんなに遅く効き目が表れる毒はないということで否定。

しかし前田利家はともかく、黒田官兵衛、そして家康の息子だけれど秀吉に可愛がってもらって秀頼を弟と思っていた結城秀康などの秀吉ゆかりの大名たちも、関が原合戦の数年後に相次いで亡くなっていて、この大事な時期に一斉に世代交代してしまうなんて不思議ですよね。

もし彼らが生きていれば秀頼もまた違った人生があったのでは、と思わざるを得ません。

\次のページで「4、家康、大坂城の太閤遺金を減らすために策略を巡らす」を解説!/

4、家康、大坂城の太閤遺金を減らすために策略を巡らす

秀頼の知行は220万石から65万石と激減したとはいえ、大坂城には秀吉時代に佐渡の金山や石見銀山などから産出された運上金銀など、莫大な財宝が残っていました。
これを戦費として兵力を雇われてはたまらないので、家康は策を用いてそれとなく、秀吉の菩提を弔うために神社やお寺に寄付してはどうかと提案。淀殿茶々は家康の策などに気が回るはずもなく、喜んで畿内の有数の寺や神社の修復に莫大な資金を投入

そのひとつが方広寺の大仏と鐘だったわけですね。

4-1、方広寺の鐘銘事件の勃発

image by PIXTA / 3403260

方広寺大仏殿は、かつて秀吉が建立したが大地震で倒壊したままになっていたものを秀頼が再建することに。そして慶長19年(1614年)に梵鐘の銘が「国家安康」と家康の名を分断してあり、「君臣豊楽、子孫殷昌」とあわせて、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願ったものだと因縁をつけて来たのでした。
大坂方は家康のもとに家老の片桐且元を派遣したけれど、家康は会ってくれず。本多正純ら家康の側近から、淀殿茶々を人質として江戸へ送る、または秀頼が江戸へ参勤、または大坂城を出て他国に転封のどれかを選べとの家康の内意を伝えられたのです。一方、淀殿茶々の乳母大蔵卿の局も家康のもとに送られていて、こちらには家康は機嫌よく会い、方広寺の鐘銘のことには触れず、秀頼は将軍秀忠の娘婿だし、まったく害する気持ちはないと明言。

淀殿茶々は家康に直接会った大蔵卿の局の報告の方を信じてしまい、且元は徳川方とみなされ大坂城を追放の憂き目に。家康の要求はまさに且元が伝えたことで、それを無視したことで幕府に対する謀反であるとされ、大坂の陣に突入したのですね。

今の時代から考えると、国家安康と家康の名前をぶっちぎってあるというのは言いがかりにしか見えないですが、当時の常識から考えると、時の権力者の名前を分断するなどマナーに反する無神経な行為に。また大蔵卿の局と且元に対して、別々に違う対処をするいやらしい家康の策略にはまる淀殿茶々と側近たちは、お粗末としか言いようがないですね。

秀頼はもう21歳と立派な大人であり公家としての教養はあって書が上手なのですから、方広寺の鐘銘について何かコメントが伝わっていてもおかしくないですが、このときどう思っていたのかも不明のまま。

5、ついに大坂の陣に突入

ということで、江戸幕府軍が大坂に攻めてくることになり、秀頼の名前で、福島正則、加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に援軍要請をしたのですが、反応なし。しかし関が原で西軍に付いたせいで家康に改易された元大名の真田信繁(幸村)、長宗我部盛親(元親の4男)、毛利勝永、明石全登、そして黒田長政と大喧嘩して奉公構い(どこにも雇えないようお達しを送られること)をされた後藤基次などを筆頭に、大野治長の呼びかけや招集などで、約10万の武士が大坂城に入城。

5-1、大坂冬の陣は浪人衆がんばるも淀殿茶々の悲鳴で講和に持ち込まれるはめに

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By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art - http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/20sen/kaiga1/0003j.htm, パブリック・ドメイン, Link

浪人たちは士気旺盛ではあっても寄せ集め集団で統制が取りにくかったといいますが、関ケ原のときに九州で挙兵した黒田官兵衛は急雇いの9000の兵力で連戦連勝だったことを考えると、総大将の指揮次第で決まるはず。

大坂城に入った戦上手の真田信繁や後藤基成が、いかに勝てるように打って出る戦略を唱えても、大野治長らときたら自分が招いたり雇っておきながら、彼らが徳川方に内通するのではと疑ったりして全然信用せず、大坂城籠城せざるを得ないなど思うような作戦が取れず。
真田信繁は大坂城の弱点をカバーするために真田丸を作ったけれど、大野治長らはまじで真田が徳川方に寝返るために作ったのではと危惧していたというからお粗末この上ない上司としか言いようがありませんね。

結局、浪人集の活躍と大坂城という巨大な防塞のおかげで倍の20万の徳川軍は苦戦を強いられ大損害。

家康は大坂城築城に関わった大工に城内の建物のうち、淀殿茶々の居室がどこにあるか突き止めて、そこを目がけて砲撃開始。砲弾が当たり侍女たちが目の前で粉砕したのを見た淀殿茶々が震えあがって和議を叫びだしたおかげで休戦、和議に持ち込まれました。

5-2、秀頼は和議に反対だった

秀吉の乳兄弟木村重成は大坂城内では唯一まともどころか立派な青年武将で、後藤基次らを尊敬していたそう。後藤らが木村重成に伝言すれば、秀頼に伝えてくれたということです。真田、後藤らの主張は、大坂城は秀吉が建てた天下の名城で、10年は籠城できること、それだけ持ちこたえれば情勢が変わるという持久戦、秀頼もそれを聞いて賛成し、和議には反対だったといいますが、総大将の意見が通らず、淀殿茶々ママのヒステリーには勝てなかったのは情けないかぎり。

家康は堀を埋める条件で和議成立。大坂方が堀を埋めなかったために徳川軍がさっさと堀を埋めだし、外堀から内堀までどんどん埋めて二の丸三の丸など城郭一部破壊し、本丸だけにされてしまい、大坂城は裸城に。

5-2、翌年、大坂夏の陣勃発

翌慶長20年(1615年)、大坂方は城内の浪人たちを追放せず、淀殿茶々や秀頼の大坂城退去も拒否して、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言、大坂夏の陣に突入。堀を埋められて本丸だけの大坂城では籠城は出来ず、雇い入れた浪人たちも勝てるとは思わなかったほどで、逃げ出す浪人も多かく7万の軍勢に。

しかし残った人たち、特に真田信繁などは、名こそ惜しけれという、最後の花を咲かせたい武将として凄まじい力を発揮。家康本陣に突入し、家康が2度も自決しようかとしたと言うほど追い詰めたと後世に残る戦いに。そして真田は総大将秀頼の出馬を要請、秀頼本人も出るつもりで用意したが、淀殿茶々からの呼び出しで奥へ引っ込み、常高院が家康から和議の申し入れという協議を始めて士気をくじかれるはめに。そうこうする間に真田信繁らは次々と戦死し、大坂城は火の海となりカオス。秀頼と淀殿茶々らは天守閣が炎に包まれたので山里廓の籾蔵へ誘われるまま入ったということです。

大野治長は最後の頼みの綱として、秀頼正室で家康孫の千姫を逃がして助命嘆願に使おうとしましたが、家康は拒否。秀頼らが籾蔵にいることを知ると包囲して自決に追い込むことに。

秀頼は享年21歳。秀吉が築いた豊臣家もこれで滅亡。

6、短い生涯だが今も解明されない秀頼の謎の数々

秀頼はわずか21歳で亡くなりましたが、ほとんど外へ出て人と接触していない引きこもりみたいな生涯だったので、生誕から死去までいまだに謎が多く解明されていません。

\次のページで「6-1、秀頼の父はほんとうに秀吉か」を解説!/

6-1、秀頼の父はほんとうに秀吉か

秀吉には長浜時代に石松丸秀勝という名の子がいたが夭折したという話があるのですが、これが実子か養子かはっきりせず。あれだけ多くの側室を抱えながら、子供は最晩年に淀殿茶々が産んだ鶴松と秀頼だけでは、誰もが秀吉の子だろうかと疑うのは当然、当時から疑いはささやかれていたということ。

しかも秀頼は成長が人より早く、小柄で150センチもなかっただろうと言われる秀吉に似ても似つかない190センチ越えの大男に。これは祖父母に当たる浅井長政やお市の方も大柄だったそうなので、浅井家と織田家の遺伝と考えられるのですが、あまりに秀吉に似ていないので、淀殿茶々が秀頼を外に出したがらなかったのではと勘繰ってしまうほど。

生物学的な父親候補としては淀殿茶々の乳兄弟の大野治長が有力だとか、色々な噂が。
しかしながら秀頼は、公式に秀吉が自分の息子と認め大坂城の主になっている以上は間違いなく秀吉の息子だったのです。

6-2、秀頼は果たして有能だったのか、無能だったのか

秀頼は公家として教育を受けたと言われていますが、子供の頃からひたすら「豊国大明神」と書き残した字を見る限り、素人目にも達筆で、字配りや字のバランスなど、専門家が見れば、かなりの器量を持った相当な人物だということ。ところが母の淀殿茶々が秀吉死後は特に秀頼を側から離したがらず、大坂城の外へ出さないでいたので有能な大名たちとの接触もほとんどなく、北政所寧々とも会わせない異常さ。

それに加えて秀頼は子供の頃から高い官位あり。豊臣家は摂政関白家なので、公家としての官位があるのが災いして、例えば家康との二条城での会見に先立ち加藤清正が秀頼と会ったときも、千畳敷の広間のはるか上段で黙って座り、清正は顔もあげず秀頼と話すことはおろか顔を見ることすら叶わなかったわけです。

大坂の陣になってからも、秀頼は真田信繁(幸村)、後藤基次らとは乳兄弟の木村重成を通じてのみ接触があった程度。秀頼の乳兄弟で一緒に育ったと言われる木村重成は大坂夏の陣で21歳で戦死したのに、人格も覚悟も礼儀正しさも非常に高いエピソードが残っているので、秀頼もさぞかしよい青年だったのでは。

そして秀頼本人が自分が本当に秀吉の子だろうかと気にしていたかどうかはわからないけれど、その気になって秀吉の子だと証明するぞとがんばって武将としての才能を発揮することも出来たのでは。淀殿茶々さえいなければ、と残念な気持ちになりますね。

まわりに有能な人がいるのにもかかわらず、彼らから知識を得ることもなく、自分の持って生まれた器量を生かすことが出来なかったこと、最後もあれだけ大勢の兵が自分のために戦って死んでいるというのに、総大将として前線に出るこそすらできなかったなんて、秀頼自身が一番無念だったのでは

6-3、秀頼の最期はどうだったのか、生存説もあり

image by PIXTA / 6211086

淀殿茶々と秀頼は、結局最後は大坂城の山里廓の一郭にある籾蔵で最期を迎えました。普通は天守閣が敗将の自刃の場になるはずが、天守閣や本丸ではすでに火災が起きて落城の混乱の只中ということもあり、籾蔵でしのいでいる間に大野治長が、家康に和議と命乞いの交渉をして助かる心づもりだった、蔵に入ったときは死ぬつもりはなかったのだという話も。

しかし家康にしてみれば、秀頼ひとりをつぶすのがこの大坂の陣の究極の目的。結局は千姫を連れて来た大野治長の家老米村権右衛門の嘆願もむなしく、籾蔵に潜んでいることもばれて、家康軍に取り囲まれて全員自決せよとの合図で鉄砲を撃ち込まれました。なかでは仕方なく全員自刃した合図に火災が起きただけでなく、爆薬も仕掛けてあったので焼死体は身元が判明せず。

籾蔵にいたのは淀殿茶々と秀頼、乳母の大蔵卿局、その息子大野治長ら30数人と言われていますが、誰も自決の現場を見ていないので生存説あり。秀頼は九州へ落ちのびて島津家の薩摩に住んでいたとか、北政所寧々の実家の木下家の城下町にいたというのですが、カリスマ性があるしかも196センチ165キロの相撲取りのような大男、そしてかなり世俗から離れた人物が、庶民の人混みに紛れて九州まで落ち延びるには目立ち過ぎでちょっと無理があるのではないかと。

7、秀頼の子供たち

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By 不詳 - 東慶寺所蔵「天秀尼像」, パブリック・ドメイン, Link

秀頼は21歳で亡くなったのに8歳を頭に子供が数人いたといわれています。

7-1、長男国松

大坂城から逃亡したものの、結局、伏見に隠れているところを捕らえられ、京都市中引き回しの上斬首。わずか8歳。

7-2、長女、助けられて後天秀尼に

大坂夏の陣の際は7歳、幼名は不明で、処刑されるところを秀頼正室千姫や常高院らの働きかけもあり、仏門に入ることを条件に助命されて、鎌倉の東慶寺に入り天秀尼に。東慶寺は縁切寺として有名で養母千姫を通じて幕府のバックアップを受け、会津騒動でも東慶寺に逃げ込んだ堀主水の妻子を守り抜くと言う重要な役割を果たしました。千姫とはずっと交流があったが、正保2年(1645年)2月7日、37歳で死去。

7-3、亡くなる前に秀頼次男と告白した求厭(ぐえん)上人

増上寺で修業し、後に伏見に住んだ求厭(ぐえん)上人が、 元禄元年(1688年)に80歳で亡くなるときに自分は秀頼の次男だと告白したという話が。
大坂夏の陣後、秀吉庶子として国松ともう一人男子がいたが捕まらなかったという話もあり、修業を積んだ偉いお坊さんが亡くなる前に嘘を言うはずがないということもあって、信ぴょう性がある話のように思われますね。

とうとう最後まで表面に出ることが出来なかった秀頼

結局秀頼の短い生涯は、母の淀殿茶々に振り回されっぱなしでまったく表面に出ることがなかったと言ってもいいでしょう。

本当に有能な人ならば、どんな形でもなにかひとつでも歴史に残る言葉や業績を残すものなのなのに、秀頼の場合は「豊国大明神」の書だけ。淀殿茶々は秀頼への愛情深さ、分離不安ゆえに心配で外に出さなかったのが仇に。この母子を分離しないと危険だと見抜き、実行してくれるような真の忠臣や家族がいれば秀頼の生涯も豊臣家の行く末も違ったことになったかもしれない。そう思うのは私だけでしょうか。

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安土桃山時代日本史歴史江戸時代

秀吉の息子?生誕から疑惑ありの「豊臣秀頼」を歴女がわかりやすく解説!結局本当の姿を知らせることなく滅びた彼はどんな人物だったのか

今回は、豊臣秀吉の息子の秀頼を取り上げるぞ。秀吉の晩年に淀殿茶々から生まれたが、秀吉の死後はほとんど大坂城を出なかった箱入り息子として育ち、無能なお坊ちゃまか実は有能さを生かしきれず亡くなったか、本当に秀吉の息子だったのか、いまだによくわからない人物です。

このへんに興味を持ってよく調べてみた歴女のあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。若くして亡くなった歴史上の人物たちにも興味津々、淀殿茶々ママの陰に隠れてしまっている豊臣秀頼がどんな人物だったのかを5分でわかるようまとめた。

1、 豊臣秀吉の次男として誕生

豊臣秀頼は文禄2年(1593年)に、大坂城で誕生。幼名お拾い、拾君。母淀殿茶々、父秀吉が57歳の時の子です。秀頼には棄君または鶴松と言う天正17年生まれの兄がいたけれど病弱で、3歳にならずして夭折。鶴松が病死したときの秀吉はショックで髻を切り、他の大名たちもそれにならって髻の山が出来たという話も。

鶴松の死で子供を諦めていた秀吉は、秀頼が生まれた知らせを受けて喜び勇んで九州から飛んで帰りました。そして捨て子は育つという迷信を信じ、名前をおひろいと付けただけでなく、わざわざ秀頼を捨てて家臣に拾わせるという念の入れよう。尚、秀吉は北政所寧々を「まんかかさま」と呼ばせて、秀頼の嫡母としての立場をキープ。そして秀吉は秀頼に大坂城を与えることにして、自分のために新たに伏見城を築城。大名たちは秀吉の気まぐれな伏見城を建てるために付き合わされて文句たらたらだったという話も。

秀頼は木村重滋の未亡人宮内卿局らを乳母に、乳兄弟でその息子木村重成らと育ったようですが、子供時代の話はあまり伝わっていません。

2、秀頼生誕により、秀吉暴走する

秀吉は、天正19年(1591年)に唯一頼りになる親族だった弟秀長と鶴松を失くした後、ついに姉の子で甥の秀次を後継者と決めて関白を譲り、自分は太閤(関白を引退した人が名乗る名称)に。豊臣政権二代目としての秀次の地盤が固まりつつあったところに秀頼が生まれたので、秀吉は急遽路線変更、秀次の何人もいる娘のひとりと秀頼を婚約させ、秀頼が成人した暁には秀次が秀頼に後を譲るようにと考えたのでした。

2-1、秀次一家を皆殺し、家臣たちも大勢連座で責任取らせて多数切腹に

秀吉の頭の中では秀頼中心で、秀次はあくまで暫定政権としたかったのは、秀次はもともと秀吉の甥と言うだけで評判があまり良くなかったという理由も。
秀吉が自分の真似をしてはいけないとくどくどと書いた訓戒が残っているくらいで、小牧長久手の戦でもへまをしたし、文禄慶長の役で朝鮮半島に渡って戦えと言われても拒否したという、武将としてもしっかりしたところがなかった人。しかし秀次はそのとき27歳、子供もすでに数人いて側室も多数。

一方の秀吉は57歳でかなり弱っていたので、秀次の欠点ばかり気になり気が気ではなかったのでしょう。もし自分の死後に秀次が約束を果たさず、秀頼に関白天下人を譲らなかったらどうしようとか、もし秀次が秀頼を滅ぼして自分の子供に跡を継がせたらとか、秀頼に跡を継がせたいばかりに被害妄想的に考えたのでは。

ということで、秀吉は秀次に色々あらぬ謀反の罪を着せて関白を辞職させました
秀次は身に覚えのない罪を着せられだまし討ちみたいに伏見へ呼び出されて逮捕、そして高野山まで配流され出家したものの、追い打ちをかけるように切腹。それだけではなく秀次の妻子もほぼ全員が処刑されて皆殺し、次期秀次政権を担うために秀吉が付けた家臣たち、普通に交流のあった大名や文化人たちまでが連座で切腹、遠流なども多数出た大事件となり、奥州から着いたばかりの側室予定の最上義光の娘駒姫まで処刑されるという残酷さ。

秀次と交流のあった大名たちといえば、あの細川忠興も、切腹した秀次の家老前野景定に長女を嫁がせていたうえ秀次に黄金200枚の借金があったのですが、娘をすぐに離縁させて仏門へ、そして徳川家康に取り成しを頼んで借金を返して難を逃れ事なきを得たほど。

秀次事件

豊臣秀次は、殺生関白と称されるほど残虐な行為を行ったとか、秀吉との間が険悪になるようなことをしたとか言われますが、これは秀吉が耄碌して秀頼に跡を継がせたいがために秀次を葬ったという暴挙だけではなく、秀次が秀吉の跡継ぎと確定したときに秀吉が秀次に付けた家老や家臣が政治の中心になるわけなので、石田三成ら五奉行ら淀殿茶々と秀頼の元にいる近江出身者たちとの勢力争いもあった、秀次側近たちの排除も加味されていたとみるべきでしょう。
この事件は後の関が原合戦まで後を引く豊臣政権内の対立の布石となったことは明らか。

その後秀吉は独裁体制だったところに、前田利家を筆頭に徳川家康ら五大老、石田三成らの五奉行を設置。そして秀吉は起請文を作成して、多数の大名達に血判署名させ、自分の死後も秀頼に忠誠を誓わせました。

秀頼が生まれたと言うだけで、秀次に移行していくはずだった豊臣政権の基盤が崩れたという考え方も出来ると思います。

3、 秀吉死後、石田三成と徳川家康の対立が関が原合戦へ

慶長3年(1598年)8月に秀吉死去。秀頼はまだ5歳で秀吉と共に伏見城に住んでいましたが、秀吉死後は大坂城へ入場。秀頼はおそらく秀吉のことはほとんど覚えていなかったはず、しかし短い生涯を通じて父の神号である「豊国大明神」と書き続け、達筆の文字が神社の額や掛け軸に。

そして秀吉死去後に家康派と三成派の不穏な動きが相次ぎ、ついに2年後の慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵し関ヶ原の戦いが勃発、このとき秀頼7歳、もちろん秀頼の知らぬ間に母の淀殿茶々が側近たちとで方針を決めたようで、秀頼のためにという名目で戦っていたはずの石田三成の西軍には付かず、家康にもいい返事をするという感じで、上に立った傍観者のつもりでいたようです。

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