

男子学生ばかりの中、レイチェルの奮闘が目に浮かぶようだ。さぞ大変だったろうな。
大学での講義や実験、論文ばかりじゃなく、世界恐慌の影響でかなり困窮した生活をレイチェルは家族のために支えているのも凄いことだな。
1-8社会人になったレイチェル
レイチェルは博士課程を進むつもりでした。しかしそんなさなかに父が急死。レイチェルは家族のために退学し、職を探すことに。この時レイチェルの恩師、スキンカー教授が公務員になることを勧め、商務省のヒギンズを紹介します。
残念ながら正式なポストは得られませんでしたが、そこでレイチェルはラジオの7分間の台本を書くことになりました。8か月間レイチェルはそこで働きました。ラジオはとても好評でした。ヒギンズは政府発行のパンフレット記事を書くようにレイチェルに言いました。レイチェルの文章を読むと、この文章は一流の雑誌に投稿することを勧めました。
ちなみにレイチェルは新聞にニシンに関する記事を自身の署名入りで投稿しています。
その後レイチェルは公務員試験に合格し、晴れて公務員となりました。彼女の仕事は、海洋生物に携わりながら、これらの保護に関する文章を書くことでした。作家という夢と生物学者という夢をどちらも叶えた瞬間でした。
レイチェル・カーソンの執筆した本たち
レイチェル・カーソンを有名にした彼女の著作「沈黙の春」。この本のストーリーはどんなものだったのでしょうか。ここからは、「沈黙の春」の内容やこの本が生まれたきっかけなどを紹介していきたいと思います。
2-1本を書いたきっかけ

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レイチェルは次の著作は、生命の起源と生命の自然環境とのかかわりをテーマに執筆しようと考えていました。人間が使う科学技術により自然が破壊されているのではないかという問題意識も持っていました。
当時のアメリカはDDTという農薬を大量に使用していました。これは便利な反面、人にとって良い働きをする虫までも殺し、鳥やDTTが混ざった水を飲んだ家畜にも影響を及ぼす事態になっていました。
そんな中、ニューヨーク州のロングアイランドではDTTの空中散布反対の訴訟が起こりました。しかし裁判では住民側が敗北します。敗訴となったのは、住民らがDTTが環境に及ぼす影響について科学的に示せてないという理由でした。
同じ頃レイチェルは友人夫妻からDTTの被害について知らさせます。レイチェルは先に挙げた住民訴訟の問題について関心を抱いていました。そしてDTTについて調べるとその危険性について知っていきました。レイチェルはこのテーマで本を書くことを決意します。
2-2「沈黙の春」を発表

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それでは「沈黙の春」の内容について見ていきましょう。
この本では、DTTという農薬の危険性について指摘しています。
DDTは1939年にスイスの化学者によって殺虫剤として使われるようになりました。DDTは安価で大量に生産でき、少量で効き目がありました。DDTは戦場ではシラミやハマダラカの駆除として、戦後はシラミやノミの駆除として使われていました。広く使われていましたが、その危険はほとんど知られていませんでした。DDTは害虫を駆除しますが、益虫までも死に至らしめました。
もちろんDDTを使うメリットもあります。しかしレイチェルが危惧していたのは、DTTの危険性を把握していない人々がDTTを使用してしまうこと。デメリットを知らずに使用してしまうと、生態系を破壊すると警告したのでした。
レイチェルはDTTについても取り上げていますが、同様に放射能による環境汚染についても取り上げています。これらの問題を通して、レイチェルは科学技術の使い方を人々に問いかけたのでした。
2-3「沈黙の春」だけじゃない!レイチェルの作品たち
「沈黙の春」以外にも優れた作品を生み出しているレイチェル。1941年から55年にかけて出版された3作品(「潮風の下で」、「われらをめぐる海」、「海辺」)は、海の3作品と呼ばれています。特に「われらをめぐる海」はアメリカで86週間もベストセラー上位に入るほどの人気を博しました。この本は海からの生命の進化について書かれており、世界32か国語で翻訳されることに。もちろん、日本でも翻訳済み。
またレイチェルが亡くなった後に出版された「センス・オブ・ワンダー」は甥のロジャーと森で過ごしたエッセイで、子どもが自然と触れ合うことの大切さについて書かれています。レイチェルの作品の原点がよく分かる作品ですね。
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