今回は「沈黙の春」を書いた作者として有名な「レイチェル・カーソン」について見ていきます。レイチェル・カーソンはアメリカの生物学者で、彼女の著作は今でも多くの人に読まれている作家です。

今回は世界史に詳しいライターまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこがレイチェル・カーソンについて紹介していく。

レイチェル・カーソンの生い立ち

レイチェル・カーソン「沈黙の春」を知っていますか?これらの名前だけを聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。レイチェル・カーソンはアメリカの生物学者で、「沈黙の春」という本を書いた人物です。

そこで今回はレイチェル・カーソンの生い立ちや有名な著書である「沈黙の春」の内容について詳しく取り上げていきたいと思います。

1-1幼い頃の遊び相手は自然!

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レイチェルは、1907年の5月27日にアメリカのペンシルベニア州に生まれました。レイチェルの祖父母はアイルランドからの移民でした。

レイチェルには、9歳年上の姉アリアンと7歳年上の兄ロバートがいました。しかし彼女が物心つく頃には2人とも学校に通っていたので、彼女の遊び相手は野鳥や草花などの自然でした。レイチェルの母は、かつて教師(当時の女性としては珍しい)をしていたため、レイチェルに生態系について分かりやすく教えていました。

1-2小学校時代はおとなしい少女

地元の小学校に通っていたレイチェル。彼女はどんな小学校時代を過ごしたのでしょうか。

レイチェルは体が弱く、おとなしい性格でした。そのためよく学校を休むことも。家では読書や、母と森を散歩して過ごしていたレイチェル。

そんな彼女の成績はいつもトップクラスでした。小学校を卒業(十年制でした)した後は、高校へと進学。地元には高校がなかったため、隣町にある高校に通います。

1925年にレイチェルはトップで高校を卒業しました。在学中はバスケットボールなどのスポーツをしていたレイチェル。ここからおとなしいだけではなく、活発な一面が見られますね。

1-3 文学少女だったレイチェル

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レイチェルは幼少期に雑誌「セント・ニコラス」の愛読者でした。「セント・ニコラス」とは、子ども向けの雑誌で、「小公女」や「トム・ソーヤの冒険」などの名作が載っていました。

ちなみに「セント・ニコラス」はアメリカの子どもだけでなく、世界中の子どもたちに読まれていました。有名な愛読者の中には「ピーター・ラビット物語」の作者、ビアトリクス・ポーターも。なんと日本人の投稿や、日本のことが書かれた作品も掲載されていました。

この雑誌の中でレイチェルを夢中にさせたのは、「セント・ニコラスリーグ」と呼ばれた作文コンテストでした。このコンテストでレイチェルは「雲の中の戦い」という作品で応募して会員権を得ます。その後は1年に4作品も雑誌に掲載され、ついに彼女は名誉会員となりました。

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1-4当時のアメリカ 女性が置かれた環境

当時の女性たちについて簡単に触れておきます。この当時の女性は、まだまだ社会進出が一般的ではありませんでした。この時のアメリカでは女性の教育は高校までと考えられていました。仮に大学へ進学したとしても、それは裕福な家庭の場合が多かったのです。レイチェルの場合は成績がとても優秀だったので、両親は大学に進学させることに。しかしカーソン家は裕福ではなかったため、借金をして進学することになりました。

またレイチェルの母マリアは教師の資格を持ち、独身時代は教鞭を取っていました。しかし当時の女性教師は結婚してしまうと退職しなければなりませんでした。

1-5自然学習運動がブームに!

この時代のアメリカでは、自然学習運動が盛んでした。この運動は、2人の植物学者により提唱されたものです。内容は、自然を学ぶことで子どもたちに想像力や感受性を表現する力を身につけさせることができ、また自然界の生命との一体感や共感を養うというものでした。

レイチェルの母マリアはこの思想に共感し、レイチェルは自然の中で過ごしました。こうした幼少時代の経験があったからこそ、「沈黙の春」がうまれたんでしょうね。

1-6大学時代のレイチェル

1925年にレイチェルはペンシルべニア女子大学へ入学。作家になることを夢見ていました。1年生の時に短編小説「船の灯」が学内で高い評価を受けます。そして学内の文芸雑誌にこの小説が掲載されることに。

レイチェルはずっと内陸で暮らしていたので、本物の海に接した経験はありませんでした。しかし、「船の灯」では、海の描写がとても美しく正確に描かれており、審査員たちを驚かせます。このように正確に描写することができたのはレイチェルが長い間海に関する本を多く読んでいたから。

レイチェルに転機が訪れたのは2年生の時。生物学の講義を受け、生物学の魅力の虜になったレイチェル。彼女は作家になるか生物学者になるか迷います。そんな彼女に対し当時の学長らは、女性が科学を学んでもせいぜい高校の教師くらいにしかならないと諭しました。

当時のアメリカの大学では、自然科学を学ぶ女性はとても少ない状況。そして女性の能力や体力は男性よりも劣っているとみなされていた時代でした。このような時代背景で学長らは優秀なレイチェルのことを思っての発言をしました。

レイチェルはとても迷いましたが、生物学者になることに決めます。

1-7世界恐慌が起こった年に大学院に進学

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1929年にレイチェルはジョーンズ・ホプキンス大学大学院へ進学しました。この時初めて海を目にすることになりました。

大学院での生活はとても大変なものでした。ペンシルベニア女子大学では優秀な成績を収めたレイチェルでしたが、有機化学の講義についていくのに精いっぱいでした。また実験は男子学生に遅れないように懸命に作業をこなしていました。

レイチェルは当初「爬虫類の脳神経の比較」をテーマに研究していました。しかし研究は次第に遅れていきます。

原因は経済状況の悪化でした。レイチェルが入学した年にアメリカで起こった世界恐慌。これによりアメリカの地方から経済状況が悪化していきました。レイチェルの両親はスプリングデールにあった自宅を売却し、レイチェルと暮らし始めます。最終的に姉と姪2人、そして兄も一緒に暮らすことになりました。

レイチェルは家計を助けるために、大学でサマースクールをしたり、大学の助手をしたりして家計を支えました。しかしその分の時間を取るために、実験を減らしていたので、研究は遅れる一方に。これを心配した教授のアドバイスでテーマを変更し、1932年の論文の審査に無事通りました。そして無事に卒業へ。

\次のページで「1-8社会人になったレイチェル」を解説!/

1-8社会人になったレイチェル

レイチェルは博士課程を進むつもりでした。しかしそんなさなかに父が急死。レイチェルは家族のために退学し、職を探すことに。この時レイチェルの恩師、スキンカー教授が公務員になることを勧め、商務省のヒギンズを紹介します。

残念ながら正式なポストは得られませんでしたが、そこでレイチェルはラジオの7分間の台本を書くことになりました。8か月間レイチェルはそこで働きました。ラジオはとても好評でした。ヒギンズは政府発行のパンフレット記事を書くようにレイチェルに言いました。レイチェルの文章を読むと、この文章は一流の雑誌に投稿することを勧めました。

ちなみにレイチェルは新聞にニシンに関する記事を自身の署名入りで投稿しています。

その後レイチェルは公務員試験に合格し、晴れて公務員となりました。彼女の仕事は、海洋生物に携わりながら、これらの保護に関する文章を書くことでした。作家という夢と生物学者という夢をどちらも叶えた瞬間でした。

レイチェル・カーソンの執筆した本たち

レイチェル・カーソンを有名にした彼女の著作「沈黙の春」。この本のストーリーはどんなものだったのでしょうか。ここからは、「沈黙の春」の内容やこの本が生まれたきっかけなどを紹介していきたいと思います。

2-1本を書いたきっかけ

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レイチェルは次の著作は、生命の起源と生命の自然環境とのかかわりをテーマに執筆しようと考えていました。人間が使う科学技術により自然が破壊されているのではないかという問題意識も持っていました。

当時のアメリカはDDTという農薬を大量に使用していました。これは便利な反面、人にとって良い働きをする虫までも殺し、鳥やDTTが混ざった水を飲んだ家畜にも影響を及ぼす事態になっていました。

そんな中、ニューヨーク州のロングアイランドではDTTの空中散布反対の訴訟が起こりました。しかし裁判では住民側が敗北します。敗訴となったのは、住民らがDTTが環境に及ぼす影響について科学的に示せてないという理由でした。

同じ頃レイチェルは友人夫妻からDTTの被害について知らさせます。レイチェルは先に挙げた住民訴訟の問題について関心を抱いていました。そしてDTTについて調べるとその危険性について知っていきました。レイチェルはこのテーマで本を書くことを決意します。

2-2「沈黙の春」を発表

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それでは「沈黙の春」の内容について見ていきましょう。

この本では、DTTという農薬の危険性について指摘しています。

DDTは1939年にスイスの化学者によって殺虫剤として使われるようになりました。DDTは安価で大量に生産でき、少量で効き目がありました。DDTは戦場ではシラミやハマダラカの駆除として、戦後はシラミやノミの駆除として使われていました。広く使われていましたが、その危険はほとんど知られていませんでした。DDTは害虫を駆除しますが、益虫までも死に至らしめました。

もちろんDDTを使うメリットもあります。しかしレイチェルが危惧していたのは、DTTの危険性を把握していない人々がDTTを使用してしまうこと。デメリットを知らずに使用してしまうと、生態系を破壊すると警告したのでした。

レイチェルはDTTについても取り上げていますが、同様に放射能による環境汚染についても取り上げています。これらの問題を通して、レイチェルは科学技術の使い方を人々に問いかけたのでした。

2-3「沈黙の春」だけじゃない!レイチェルの作品たち

「沈黙の春」以外にも優れた作品を生み出しているレイチェル。1941年から55年にかけて出版された3作品(「潮風の下で」、「われらをめぐる海」、「海辺」)は、海の3作品と呼ばれています。特に「われらをめぐる海」はアメリカで86週間もベストセラー上位に入るほどの人気を博しました。この本は海からの生命の進化について書かれており、世界32か国語で翻訳されることに。もちろん、日本でも翻訳済み。

またレイチェルが亡くなった後に出版された「センス・オブ・ワンダー」は甥のロジャーと森で過ごしたエッセイで、子どもが自然と触れ合うことの大切さについて書かれています。レイチェルの作品の原点がよく分かる作品ですね。

\次のページで「2-4世界に影響を与えたレイチェル」を解説!/

2-4世界に影響を与えたレイチェル

「沈黙の春」には多くの反響が。「沈黙の春」は一般市民には歓迎されます。しかし化学業界、農薬業界からは激しい反発を受けることに。25万ドルもの巨額を投じて反「沈黙の春」キャンペーンを展開される事態になりました。そしてレイチェル自身に対する個人攻撃も。

多くの反対者の意見は、レイチェルのことを農薬を全廃させようとしていると批判しました。しかしレイチェルの主張は、農薬を全廃ではなく生物学的に影響のあるDTTを無知の人間に使わせることについて危惧しているというものでした。

最終的にどうなったのかというと、この本はアメリカを変える事態に。1963年のウィズナー報告書において、「沈黙の春」は高く評価されました。レイチェルのおかげで現在DTTはアメリカで使用が禁じられています。日本では使用も製造も禁止。もしもレイチェルが本を著さなかったら、未だに使用されて生態系がより破壊されていたかもしれませんね。

20世紀を代表する偉大な女性!

今回は有名な「沈黙の春」だけではなく、レイチェル・カーソンの人生と彼女が当時生きていたアメリカ社会をメインに紹介しました。

プライベートではおとなしく読書好きだった少女が、アメリカだけでなく世界に影響を与える発見を発表しました。

彼女の偉大な功績によってDDTなど危険な農薬は使用禁止となり、世界に環境保護を考えるきっかけを作りました。

また女性は男性よりも劣ると思われていた当時のアメリカ社会を、レイチェルは自身の才能を持ってそんなことはないと証明しました。当時の男社会で活躍した20世紀を代表する偉大な女性ですね。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

3分で簡単「レイチェル・カーソン」ー「沈黙の春」の作者の素顔に歴女が迫る!

今回は「沈黙の春」を書いた作者として有名な「レイチェル・カーソン」について見ていきます。レイチェル・カーソンはアメリカの生物学者で、彼女の著作は今でも多くの人に読まれている作家です。

今回は世界史に詳しいライターまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこがレイチェル・カーソンについて紹介していく。

レイチェル・カーソンの生い立ち

レイチェル・カーソン「沈黙の春」を知っていますか?これらの名前だけを聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。レイチェル・カーソンはアメリカの生物学者で、「沈黙の春」という本を書いた人物です。

そこで今回はレイチェル・カーソンの生い立ちや有名な著書である「沈黙の春」の内容について詳しく取り上げていきたいと思います。

1-1幼い頃の遊び相手は自然!

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レイチェルは、1907年の5月27日にアメリカのペンシルベニア州に生まれました。レイチェルの祖父母はアイルランドからの移民でした。

レイチェルには、9歳年上の姉アリアンと7歳年上の兄ロバートがいました。しかし彼女が物心つく頃には2人とも学校に通っていたので、彼女の遊び相手は野鳥や草花などの自然でした。レイチェルの母は、かつて教師(当時の女性としては珍しい)をしていたため、レイチェルに生態系について分かりやすく教えていました。

1-2小学校時代はおとなしい少女

地元の小学校に通っていたレイチェル。彼女はどんな小学校時代を過ごしたのでしょうか。

レイチェルは体が弱く、おとなしい性格でした。そのためよく学校を休むことも。家では読書や、母と森を散歩して過ごしていたレイチェル。

そんな彼女の成績はいつもトップクラスでした。小学校を卒業(十年制でした)した後は、高校へと進学。地元には高校がなかったため、隣町にある高校に通います。

1925年にレイチェルはトップで高校を卒業しました。在学中はバスケットボールなどのスポーツをしていたレイチェル。ここからおとなしいだけではなく、活発な一面が見られますね。

1-3 文学少女だったレイチェル

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レイチェルは幼少期に雑誌「セント・ニコラス」の愛読者でした。「セント・ニコラス」とは、子ども向けの雑誌で、「小公女」や「トム・ソーヤの冒険」などの名作が載っていました。

ちなみに「セント・ニコラス」はアメリカの子どもだけでなく、世界中の子どもたちに読まれていました。有名な愛読者の中には「ピーター・ラビット物語」の作者、ビアトリクス・ポーターも。なんと日本人の投稿や、日本のことが書かれた作品も掲載されていました。

この雑誌の中でレイチェルを夢中にさせたのは、「セント・ニコラスリーグ」と呼ばれた作文コンテストでした。このコンテストでレイチェルは「雲の中の戦い」という作品で応募して会員権を得ます。その後は1年に4作品も雑誌に掲載され、ついに彼女は名誉会員となりました。

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