今回は薩摩(現在の鹿児島県)に生まれた島津4兄弟の末っ子、島津家久について勉強していこう。島津4兄弟はそれぞれが優秀な武将であり、特に次男の島津義弘は「鬼島津」の異名を持つ有名武将です。もちろん、家久も兄に負けず活躍しているけどな。そこで今回は戦国武将に目がないライター、すのうと一緒に島津家久の魅力をたっぷりと紹介します。

ライター/すのう

大河ドラマ大好き!特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。実は義弘以上の猛将とも言われている島津4兄弟の末っ子島津家久。九州男児の男意気を戦国武将大好きのライターすのうが解説していく。

最強の島津4兄弟誕生

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兄弟が4人もいれば、1人くらいは出来の悪い子供がいても不思議ではありません。ご存知の島津4兄弟は、それぞれが勇猛と言われた武将でありました。そしてこの兄弟の強みは仲が良かったこと。時は戦国…親子、兄弟など関係なく下剋上が多かった時代。そんな乱世の中、4人は島津家のために奮闘します。

まずは九州平定を目指しますが、周囲には多くの強敵がいました。特に豊後の大友宗麟は、当時島津と対等に戦える力を持っていたのです。しかし、その勢力は徐々に衰えていきました。4兄弟は九州平定だけに収まらず、後には天下取りの野望があったのかもしれませんね。それでは、今回の主人公、島津家久について学習していきましょう。

側室との間に生まれた島津家久

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島津家久は天文16年(1547年)、島津貴久の四男として薩摩に誕生しました。家族構成は、島津義久(長男)島津義弘(次男)島津歳久、そして今回の主人公四男の家久です。三兄弟の母は正室の雪窓夫人。しかし家久は貴久と側室との間に生まれた子供でした。兄達とは10歳以上年の差がありましたが、4人は仲が良く末っ子の家久をとても可愛いがったといいます。

戦国に限らず下剋上が多かった時代に兄弟仲が良かったことは、島津の強みだったかもしれませんね。しかし、家久は自分だけが側室の子供であることに悩んでいました。そんな家久に義久はある言葉をかけます。「誰が親なんて関係ない、学問に励めば父母以上に立派な大人になれる」その言葉に奮起した家久は、文武両道に励みました。そして、立派に成長し、祖父の日新斎からは「軍法戦術に妙を得たり」と評されたそうです。

家久の旅日記から少しご紹介

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天正3年(1575年)薩摩、大隅、日向の三州平定を目前としていた島津家。神仏に祈りをささげるため家久は伊勢神宮へ参拝します。そして上洛を果たしました。その旅について記しているのが「家久君上京日記」。いえひさくんではなく、いえひさぎみと読みますのでお間違いのないように。ここでは、その時の旅日記の気になった場面を少しご紹介しましょう。

その1 関所の役人を殴る

筑後から肥前、豊後、豊前に抜ける交通の要所は、大友宗麟、龍造寺隆信など敵である強敵の領土。そのためかなり多くの関所がありました。夜明け前に宿を発ち、関所を迂回するルートを通っていた家久一行。その数は総勢110名程度。しかし、夜が明けて関所を通るときにちょっとした揉め事が発生します。番人のあまりにもしつこい詮索に、家久一行はイライラ。


ついには、この番人をボコボコに殴ってしまいます。ちなみに家久が殴ったわけではありません。こうして何事もなかったかのように関所を通り抜けた一行でしたが、家久は殴った家臣に「良くやった」と言わんばかりだったとか。家久からしてみれば家臣の行いは「おやっとさぁ」お疲れ様、みたいなものだったのかもしれませんね。

\次のページで「その2 織田信長に遭遇する」を解説!/

その2 織田信長に遭遇する

家久一行の目的は伊勢神宮参拝でしたが、当時一番天下人に近かった人物は織田信長でした。最新の信長情勢や、諸国の見聞なども知っておく必要があったのかもしれませんね。その頃信長は、石山本願寺攻めの最中でありました。そして、一行が戦いから戻る場面に家久は遭遇しています。

その時の様子を見た家久は、信長公「皮衣の服を着て馬上で居眠りをしていた」と日記に綴っていました。疲れていたのは分かりますが、さすがは織田信長。堂々と白昼に居眠りできるのですから大した器の持ち主ですね。そんな信長を初めて見た家久はどのように感じたのでしょうか。九州男児、しかも薩摩の男ですから、メラメラと闘争心が芽生えたのかもしれません

沖田畷の戦いの活躍で佐土原城代となる

天正12年(1584年)沖田畷の戦いが起こります。この戦いはまさに家久の采骨頂とも言えるでしょう。少ない手勢で勝利した背景には、島津家の得意戦法も炸裂します。この戦いで貢献した家久は、佐土原城代となりました。それでは沖田畷の戦いについて解説していきましょう。

沖田畷の戦いに至るまでの経緯

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By 不明(宗勗賛) - The Japanese book "Japan, Conutry of Beauty: Inaugural Exhibition (美の国日本:開館記念特別展)", Nishinippon Shimbun-sha (西日本新聞社), 2005, パブリック・ドメイン, Link

肥前(佐賀県)の日野江藩主だった有馬晴信は、肥前の熊の異名を持つ龍造寺隆信の配下にいました。自分の娘を隆信の嫡男に嫁がせていたので親戚関係にあったのです。しかし、隆信はわがままで傲慢な人物だったこともあり、隆信に従わない国衆も多くいました。その中の一人でもあったのが有馬晴信です。

こうして晴信は離反を決意。怒った龍造寺軍は大軍で島原に攻め込んで来ました。その数1万8千~6万人とも言われています。驚異を感じた晴信は、島津義久に助けを求めました。義久は総大将として家久を指名し、3千の兵を援軍に送ります。

そして、天正12年(1584年)家久を総大将とした島津、有馬軍vs龍造寺軍の沖田畷の戦いへと発展しました。

得意の戦法で勝利した島津家久

島津のお家芸と言えば「釣り野伏せ」ですね。義久が考案したと言われる戦術です。家久が得意とし、沖田畷の戦いでもこの戦法を用いて勝利しました。兵数で大差があった両軍。龍造寺軍3万に対し、島津、有馬軍合わせても6千。それでも、家久は怯むことなく討って出る作戦を選びました。決戦地に選ばれたのが沖田畷(おきたなわて)です。

この土地は湿地帯であり、人が2、3人しか通れない狭い場所。島津軍は兵を3方に配置し、前線の真ん中に50名と言う少数の兵を置きました。家臣が持久戦を提案してもせっかちな隆信は耳を傾けようとしません。そして隆信は島津軍の前線部隊に奇襲をかけます。まんまと罠にかかった隆信を湿地帯に追い込み、隠れていた2方の兵が一気に襲いかかりました。

龍造寺軍も援軍を送ろうとしますが、足元を取られ思うように動けません。こうして隆信は、島津軍によって討ち取られてしまいました。家久は少ない兵を巧みに操り、釣り野伏せで見事に勝利したのです。

37歳で佐土原城代となる

家久の初陣は15歳の時で、大隅国の肝付氏との廻り坂の合戦でした。肝付氏は小松帯刀の家系と関係のある人物のようですね。この戦いで敵将の工藤隠岐守を討ち取ったとされています。沖田畷の戦いに勝利した家久ですが、母親の身分が低かったため、37歳で未だに部屋住みの立場でした。島津家の4男なのに?そう思ってしまいますが、島津家での席次は決して高くはなかったのです。

その辺りは名家だけに厳しかったのかもしれません。しかし、沖田畷の戦いでの戦功を認められた家久は、佐土原城代に出世し4千石を与えられ、日向国方面の指揮を任されました。後に佐土原城主となり、嫡男である島津豊久に引き継がれていきます。この戦いの活躍で、島津家久を知ったなんて方も多いかもしれませんね。

\次のページで「戸次川の戦いで豊臣軍を蹴散らす」を解説!/

戸次川の戦いで豊臣軍を蹴散らす

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大友宗麟は島津家当主の義久が豊後に侵入してきたことで、大坂城の豊臣秀吉に助けを求めます。これを了承した秀吉は、讃岐国の仙石秀久を大将とし豊後に派遣しました。仙石秀久は漫画「センゴク」の主人公で、鈴なり武者なんて言われている武将です。こうして天正14年(1587年)戸次川の戦いがスタートしました。

戸次川の戦いで仙石秀久は敗走

天正14年(1587年)島津軍vs豊臣軍による戸次川の戦いが始まりました。もちろん島津軍の大将は家久です。戦いともなれば、戦闘モード突入で士気も上がりそうなものですが、秀久率いる豊臣軍の士気は最悪状態に近いものでした。長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)信親親子などは、秀吉はつい最近まで戦っていた相手。いくら秀吉に従軍したとは言え、中々気分も乗らないでしょう。

元々敵同士であった武将たちが味方になって戦うわけですから、血の気の多い武将だったら内輪揉めなんて当たり前に起きそうです。そして団結にかけた豊臣軍の大将秀久は、秀吉から「援軍が来るまで待つように」と忠告されていたにも関わらず、周囲の家臣の反対を押し切り進軍。戸次川を渡って突撃した仙石軍がまず敗走。続いた長曾我部軍も多くの戦死者を出します。

こうして島津軍は豊臣軍相手に勝利しました。この時も家久の釣り野伏せが功を奏しています。その後、秀久は讃岐に逃げ帰り改易処分となりました。

豊臣秀吉に従軍した島津家

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天下統一を目指す豊臣秀吉は、九州征伐のため22万の大軍を九州に向け送り込みます。対する島津軍は根城坂の戦いで応戦しますが、兵力の差は圧倒的に豊臣軍優勢でした。九州平定を目前に島津家は豊臣軍に敗北。こうして島津家は、長年の敵であった豊臣秀吉と和睦し、秀吉の政権下に入ることとなります。

根城坂の戦いに敗北する

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By 不明 - 奈良県大和郡山市春岳院所蔵品。This is a collection of the Syungakuin in Japan Yamatokooriyama-shi, Nara., パブリック・ドメイン, Link

天正15年(1587年)九州制覇を目前としていた島津家でしたが、大友宗麟が豊臣秀吉に援軍を求めたため、秀吉は弟の豊臣秀長を大将とし、22万の大軍を九州に送り込みます。こうして始まったのが根城坂の戦いです。強豪島津とは言え、22万の軍勢には敵わず失脚。得意の夜襲作戦を仕掛けるも、黒田官兵衛に見抜かれ失敗に終わりました。九州制覇まで後一歩のところで、豊臣軍に敗北してしまいます。こうして、九州平定は叶わぬ夢に終わってしまいました。そしてまず動いたのが家久本人。家久は自ら単独で豊臣軍の総大将であった、豊臣秀長と和睦します。

この和睦の知恵を授けたのが家臣であった伊集院忠棟(いじゅういんただむね)でした。忠棟自身も秀長の人質となり、和睦の手助けをします。その後、義久も名を龍伯と改め剃髪し、秀吉の元に和睦を願い出ました。こうして島津家は完全に豊臣秀吉の政権下に降ることとなるのです。島津家にとっては長年の宿敵である、秀吉の家臣として新たな一歩を踏み出すことになりました。

41歳で急死した家久

天正15年(1587年)家久は41歳の若さで亡くなりました。豊臣秀長による毒殺説などとも言われていますが、秀長が家久を殺す理由もないこと。そして、秀長の側近が義弘に宛てた書状に、家久が病気であったことを記していたことから、病死の可能性が高いようです。

4兄弟の末子として生まれ、一番早くに亡くなってしまった家久。兄たちの哀しみもきっと大きかったことでしょう。嫡男の豊久も慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、伯父である義弘を守るため討死しています。享年31歳でした。豊久は秀吉に降伏した家久に不満を抱き、親子の仲も悪くなっていたと言います。豊久にとっては、秀吉に屈することが許せなかっだのでしょうね。そして何よりも島津が天下を取ると思っていたのかもしれません。

\次のページで「兄に負けない猛将島津家久」を解説!/

兄に負けない猛将島津家久

4兄弟で自分だけ母親が違うことに心を痛めていた家久。義久の優しい言葉に励まされ、知力、武勇にも優れた武将に成長しました。兄弟とはいえ、殺し合いなどは当たり前の時代です。兄弟の結束力が高かったのも、島津が強くなれた要因でしょうね。

島津4兄弟と言えば、「鬼島津」と呼ばれた次男の義弘が有名ですが、家久は義弘も超える猛将とも言われているようですよ。母親の身分が低かったために、37歳までは城にも住めず部屋住みだった家久。もし、正室との間に生まれたいたら、もっと出世していたのかもしれません。

家久は早くに亡くなってしまいましたが、島津4兄弟の残した武勇はずっと語り継がれていくことでしょう。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

薩摩の名家に誕生した島津家の四男「島津家久」兄弟愛に恵まれ猛将へと成長した家久を歴女がわかりやすく解説!

今回は薩摩(現在の鹿児島県)に生まれた島津4兄弟の末っ子、島津家久について勉強していこう。島津4兄弟はそれぞれが優秀な武将であり、特に次男の島津義弘は「鬼島津」の異名を持つ有名武将です。もちろん、家久も兄に負けず活躍しているけどな。そこで今回は戦国武将に目がないライター、すのうと一緒に島津家久の魅力をたっぷりと紹介します。

ライター/すのう

大河ドラマ大好き!特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。実は義弘以上の猛将とも言われている島津4兄弟の末っ子島津家久。九州男児の男意気を戦国武将大好きのライターすのうが解説していく。

最強の島津4兄弟誕生

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兄弟が4人もいれば、1人くらいは出来の悪い子供がいても不思議ではありません。ご存知の島津4兄弟は、それぞれが勇猛と言われた武将でありました。そしてこの兄弟の強みは仲が良かったこと。時は戦国…親子、兄弟など関係なく下剋上が多かった時代。そんな乱世の中、4人は島津家のために奮闘します。

まずは九州平定を目指しますが、周囲には多くの強敵がいました。特に豊後の大友宗麟は、当時島津と対等に戦える力を持っていたのです。しかし、その勢力は徐々に衰えていきました。4兄弟は九州平定だけに収まらず、後には天下取りの野望があったのかもしれませんね。それでは、今回の主人公、島津家久について学習していきましょう。

側室との間に生まれた島津家久

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島津家久は天文16年(1547年)、島津貴久の四男として薩摩に誕生しました。家族構成は、島津義久(長男)島津義弘(次男)島津歳久、そして今回の主人公四男の家久です。三兄弟の母は正室の雪窓夫人。しかし家久は貴久と側室との間に生まれた子供でした。兄達とは10歳以上年の差がありましたが、4人は仲が良く末っ子の家久をとても可愛いがったといいます。

戦国に限らず下剋上が多かった時代に兄弟仲が良かったことは、島津の強みだったかもしれませんね。しかし、家久は自分だけが側室の子供であることに悩んでいました。そんな家久に義久はある言葉をかけます。「誰が親なんて関係ない、学問に励めば父母以上に立派な大人になれる」その言葉に奮起した家久は、文武両道に励みました。そして、立派に成長し、祖父の日新斎からは「軍法戦術に妙を得たり」と評されたそうです。

家久の旅日記から少しご紹介

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天正3年(1575年)薩摩、大隅、日向の三州平定を目前としていた島津家。神仏に祈りをささげるため家久は伊勢神宮へ参拝します。そして上洛を果たしました。その旅について記しているのが「家久君上京日記」。いえひさくんではなく、いえひさぎみと読みますのでお間違いのないように。ここでは、その時の旅日記の気になった場面を少しご紹介しましょう。

その1 関所の役人を殴る

筑後から肥前、豊後、豊前に抜ける交通の要所は、大友宗麟、龍造寺隆信など敵である強敵の領土。そのためかなり多くの関所がありました。夜明け前に宿を発ち、関所を迂回するルートを通っていた家久一行。その数は総勢110名程度。しかし、夜が明けて関所を通るときにちょっとした揉め事が発生します。番人のあまりにもしつこい詮索に、家久一行はイライラ。


ついには、この番人をボコボコに殴ってしまいます。ちなみに家久が殴ったわけではありません。こうして何事もなかったかのように関所を通り抜けた一行でしたが、家久は殴った家臣に「良くやった」と言わんばかりだったとか。家久からしてみれば家臣の行いは「おやっとさぁ」お疲れ様、みたいなものだったのかもしれませんね。

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