今回は、明智光秀の娘で細川忠興の妻、キリシタンでもあった細川ガラシャを取り上げるぞ。美貌で芯の強い女性だったようですが、独占欲の強い夫のきつい束縛のせいで悲劇的な最期を遂げたんです。

代々クリスチャンの家に育って女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。子供の頃に伝記を読んでショックを受けた細川ガラシャの生涯をもう一度じっくり調べ、5分でわかるようまとめた。

1、 細川ガラシャは明智光秀の三女として誕生

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細川ガラシャは永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子(伏屋またはお牧)の間の三女として越前の国で誕生。(四女説もあり)
名前は珠(たま)、または玉子。
ガラシャは後にキリシタンとして洗礼を受けたときの洗礼名です。

明治時代までの女性は、正式に結婚した後も実家の名字で呼ばれることがほとんどなので、ガラシャも生存中、死後も明智珠と呼ばれたはずですが、細川ガラシャと呼ばれているのは、明治時代になってキリスト教解禁後の日本のキリスト教徒たちが、キリシタンとしての「細川ガラシャ」を発掘し、偉業を讃えたからというのが理由。

1-1、ガラシャの父明智光秀とは

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By 投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 05:17, 14 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

ガラシャの父明智光秀は出自もはっきりせず謎の多い半生ですが、生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧名は明智荘)の明智城と言われていて、美濃国(岐阜県南部)生まれなのは確からしい。
光秀は美濃国の守護の土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えたが、弘治2年(1556年)、道三と息子義龍の親子の争いで道三方につき、義龍に明智城を攻められて一族が離散、その後光秀は越前国の朝倉義景に10年間仕えたが、光秀の叔母は斎藤道三の夫人で、信長の正室濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であったらしく、その縁を頼って信長家臣になったと言われています。

ガラシャが生まれたのは父光秀が越前朝倉家に仕えていた頃で、母お牧が髪を切って売ったこともあるというほど貧しい時代、ガラシャはわがまま贅沢なお姫様育ちではなかったんですね。

2、ガラシャ、細川忠興に嫁ぐ

ガラシャの子供時代の話は伝わっていませんが、美人で名高かったということ。
天正6年(1578年)、ガラシャは15歳の時に父の主君織田信長の仲介で細川藤孝の嫡男、同い年の忠興と結婚。
ガラシャの父明智光秀と忠興の父細川藤孝はかなり親しい仲で、双方とも教養人として知られているうえに、珍しく側室がいなくて正室ひとりだけとその子供たちのみ、こういう家族構成は戦国時代には稀有でしょう。ガラシャと忠興は、双方の家族関係には恵まれた結婚だったと言えるのでは。


天正7年(1579年)には長女おちょうが、続く天正8年(1580年)には長男の忠隆が生まれました。

2-1、ガラシャの夫細川忠興は武家貴族の出身の教養人だが欠点も

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By 不明。 - 永青文庫所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link

忠興の父細川藤孝(幽斎)は足利家に仕えた名門で、いわば武家貴族のような家柄、最初は長岡姓を名乗っていました。
細川藤孝は足利義晴の御落胤説もあるほどなのですが、当代一の教養人で多種多芸、武将としても有能です。
息子の忠興も父譲りの教養があり、兜や刀などに造詣が深くそのうえに医学薬学にも興味を持つ多才さ、茶道にいたっては後に利休七哲の一人に数えられ、茶道の流派三斎流の開祖。まさに趣味を逸脱した教養人の父子ですね。
しかし、忠興は気が短く怒りっぽいことで有名で、ちょっとしたことで家来を手打ちにしたりするという、かなり気性が激しく荒っぽい性格、それは身内にも容赦がなく、丹後攻略戦のときに同じ足利一門である名門の一色義定氏を騙し討ち、敗残兵を皆殺しにしたせいで、一色義定に嫁いでいた忠興の妹は夫謀殺を恨み、戦後に兄忠興に斬りかかり顔に傷を負わせた話も。

そういう忠興はガラシャに愛情というか執着はなはだしく、彼女の喜ぶことは何でもするが、屋敷の奥深くに閉じ込めて家来にも会わせないようにするほどで、異常なほど嫉妬深く独占欲丸出しで束縛がきつかったといわれています。

3-1、本能寺の変でガラシャの立場は激変

忠興とガラシャは、勝竜寺城で盛大な婚礼後、勝竜寺城で新婚時代を過ごしていましたが、4年後、ガラシャ19歳のとき、天正10年(1582年)6月、ガラシャの父明智光秀が主君の織田信長を本能寺で討つという事件が勃発しました

\次のページで「3-2、細川家は明智の誘いを断り、秀吉側に」を解説!/

3-2、細川家は明智の誘いを断り、秀吉側に

細川藤孝と明智光秀はかなり仲がよかったし、ガラシャと忠興の結婚で姻戚となっているのですから、本能寺の変後光秀からすぐに細川家にも味方になるように書状が来ました。しかしガラシャ義父の細川藤孝はこれに応じず、信長を弔うと言って剃髪し幽斎と号して隠居。
そして光秀は予想外の速さで中国征伐から取って返した秀吉に敗れ、光秀一家も城を枕に自決、ガラシャは実家を失い、逆臣の娘と言う汚名まで着せられてしまったのです。

3-3、ガラシャは山奥に幽閉されることに

このとき、ガラシャの妹が嫁いだ織田信長の甥、津田信澄は、光秀の娘婿だから光秀と共謀していると、事実と異なる噂が流れ、信長3男の信孝と丹羽長秀に襲撃されて討ち取られてしまい、謀反人の汚名を着せられ梟首されています。これには忠興も震え上がったはず。

しかし忠興は、光秀に味方する気はなかったし、かといって妊娠中でもあるガラシャを離縁したりお寺に入れるなどもってのほかで、絶対に手放したくなかったので、ガラシャを天正12年(1584年)まで丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町で人里離れた場所)にわずかな供回りの擁護だけで幽閉しました。
この幽閉中に次男興秋が生まれていますが、ガラシャは2年余りも過ごした不安な日々のなかで、父光秀の反逆をどう解釈すればいいのか、忠興の独占欲や嫉妬深さと生活する結婚生活の苦悩、自分はどうなるのだろうかなどを考えに考えたのでしょう。そういうガラシャの側に仕えていたキリスト教の知識のある侍女の清原小侍従から、ガラシャが以前から興味を持っていたキリスト教の教えについて、ガラシャが納得できるような、また気が休まるような聖書の話を聞かされたのではないでしょうか。

3-4、ガラシャ、キリスト教に傾倒して受洗

そして天正12年(1584年)3月になると秀吉の取り成しがあって、ガラシャを再び細川家に迎え入れるために、細川家の大坂屋敷に戻すことになりました。
ガラシャはかなりの学問の素養があり、禅宗にも造詣が深かったようなのですが、清原小侍従に聞いたり、夫忠興を通してキリシタン大名の高山右近の話を聞いたりして、だんだんとキリスト教の教えに心を魅かれていき慰めを得たのではないでしょうか。

また、天正14年(1586年)には3男の忠利(幼名・光千代)が誕生、しかし病弱でガラシャの心配の種であったようで、ついに天正15年(1587年)に忠興が秀吉の九州征伐へ出陣した留守の間に、ガラシャは侍女数人と身を隠してお忍びで初めて教会へ赴きました。

教会ではちょうどキリスト教の重大なお祝いであるイースター、復活祭の説教を行っていました。ガラシャは日本人のコスメ修道士にいろいろと質問、コスメ修道士が「これほどまでに明晰果敢な判断ができる日本女性と今まで一度も話したことはない」と驚くほどだったそう。ガラシャはその場で洗礼を受けたかったけれど、これは教会側としてはガラシャは高い身分であるらしいが、素性が分からなかったために断られたということです。

ガラシャは屋敷の家来たちに見つかり連れ戻されたため、再び外出できる見込みは全くなくなりました。その後は侍女を通じて教会とやりとりし、教会からの書物を読んでキリスト教の信仰への理解に励み、まず清原小侍従や侍女たちを教会に行かせて、洗礼を受けさせました。しかし九州の秀吉がバテレン追放令を発令したため宣教師たちは早晩大阪にいられなくなるのではと、何が何でも洗礼を受けたいガラシャはイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、細川屋敷を出ずに清原小侍従マリアから密かに洗礼を受けました。ガラシャの次男興秋、三男忠利、娘たちも洗礼を受けています。

3-5、洗礼名ガラシャの意味はグレース

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ガラシャは、(Gratia、本来はグラツィアが正しい発音)、ラテン語で神の恩寵、神の恵みという意味で、英語ではグレース。
九州から帰国した忠興は逆上して棄教させようとしたが、ガラシャはもちろん拒否、ついに忠興も黙認することに。

本当は洗礼を授けるのは神父の資格がないと出来ないことだけれど、ガラシャの場合は特別処置がとられたようですね。

3-6、夫忠興のモラハラ、パワハラに拍車がかかる

九州征伐から帰ってきた忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対してかなりひどく接するようになり、息子忠利のキリシタンの乳母が些細な過ちを犯したことに対し、鼻と耳をそいで追い出したことも。ガラシャの我慢も限界にきたのか、忠興と別れたいと宣教師に打ち明けると、宣教師に困難に立ち向かってこそ徳は磨かれるなど、聖書の言葉を伝えて励まされたそう。

忠興については、ガラシャの目の前で家来を手討ちにし、その刀の血をガラシャの小袖で拭ってもガラシャは顔色一つ変えずにそのまま数日間も着替えなかったので、結局は忠興が謝って着替えてもらったとか、庭で手入れ中にたまたまガラシャを見た植木職人を忠興が手打ちにしたが、ガラシャは黙って奥の部屋に入ってしまったとかいう話が伝わっています。
忠興は自分で手討ちにしておきながら、ガラシャの反応がそっけないので、そなたは蛇かと問うと、鬼の女房には蛇がふさわしいでしょうと答えたという話まであって、ガラシャは気位が高く気が強い女性であることの証明のように使われますが、これはもう毎日のようにモラハラやパワハラ、DVを受けている人間が、何も感じないように無表情で自分を守る態度に他なりません。

現代ではなんとかひとりで逃げ出して弁護士を頼んで裁判に持ち込めば必ず勝てるはずですが、ガラシャの場合、自分勝手に逃げ出せば忠興が家来たちを皆殺しにしかねないので、がまんして信仰に慰めを見出さざるを得なかったのですね。

また忠興は忠興で、秀吉が美しいという評判の大名の妻を呼び出しては自分のものにするという女房狩りを行うと評判だったので、文禄慶長の役で朝鮮半島に出向いたときも気が気ではなく、ガラシャに何通も手紙を書き、秀吉の誘惑に乗らないようにと心配していたといいます。

4、関が原合戦の前夜、ガラシャは大坂城への人質要請を拒否

秀吉が亡くなった後、忠興はこれでガラシャへの誘惑の心配をしなくて済むとほっとする間もなく、慶長5年(1600年)徳川家康と石田三成との対立が高まる不穏な空気の中、家康に従って、東北の上杉征伐に出陣。
忠興は今までと同様に今回も屋敷を離れる際に「もし自分の不在中にガラシャに危険が生じたならば、まずガラシャを殺して、全員切腹せよ」と屋敷を守る家臣たちに命じていました。
ガラシャはもし屋敷が火事になっても大地震が起こっても、逃げるのを禁じられていたのでした。

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4-1.ガラシャは壮絶な最期を遂げた

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そして石田三成は、大坂屋敷にいる大名の家族を大坂城へ入れて人質に取るべく動きました。もちろん他の大名の奥方は家臣が気をきかせて変装したり長持ちに隠したりして逃亡させていたのですが、細川家の場合、家来たちがガラシャを見る、屋敷の奥へ入るだけでも手討ちにされるので、ガラシャの逃亡なんて論外。
また、忠興の妻への異常な執着は知れ渡っていたので、石田三成もまずガラシャを人質にとろうとしたのでしょう。三成の手勢は真っ先にガラシャを人質に取るつもりでやってきたのです。最初に三成の意志を伝えに来た大坂城の尼に対して、ガラシャは拒絶。その翌日には三成は実力行使に出て細川家の玉造の屋敷を兵で包囲しました。

このときガラシャは自分一人が死ぬと家来たちに伝えて、子供たち、侍女や家臣たち全員を外へ逃がし、家老の小笠原少斎に介錯させて自刃。忠興は何かあれば火を放ち、ガラシャの遺体すら誰の目にも触れないようにとなんと普段から爆薬を用意していたので、少斎は屋敷に火をつけた後自刃、細川屋敷は盛大に爆薬が破裂し火の海になったということ。
ガラシャの辞世は、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」享年37歳。
ガラシャの壮絶な死で恐れをなした石田三成方は、奥方人質作戦は逆効果として沙汰やみに。

4-2、ガラシャの死後、残された人々は

ガラシャが細川屋敷から逃がしたなかには長男忠隆の正室で前田利家とまつの末娘千世もいました。千世は姉豪姫の嫁ぎ先の隣の宇喜多屋敷に避難したのですが、事件後、このことを知った忠興は激昂し、忠隆に千世との離縁を命じたけれど忠隆は拒否したので、廃嫡し勘当してしまいました。

また、ガラシャの姑である細川幽斎の妻麝香もガラシャの影響を受けたせいでガラシャの死から一年後に、キリスト教に受洗、細川マリアと呼ばれています。

4-3、波乱万丈の人生を送ったガラシャの子供たち

長男は忠隆は廃嫡され、京都に住む
慶長9年(1604年)の廃嫡後は剃髪して長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号して、妻の千世(後離縁して前田家に戻って再婚)と長男(夭折)と共に京都の祖父幽斎のところに居候、京都では4人も子供が出来、娘たちは後に公家に嫁いでいます。そして20年ほど後に京都を訪れた父忠興と和解、勘当を解かれたがその後も京都で、和歌や茶の湯の趣味を生かして文化人として公家たちと交流し、朝廷と細川家を結ぶ役目も果たしたそう。忠興は寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解して、八代領6万石の領主として熊本に住むように提案するも休無は固辞して帰京、正保3年(1646年)に京都で死去、享年67歳。

次男興秋は、その後大坂夏の陣で戦う
次男興秋は、ガラシャが味土野(現京丹後市弥栄町)幽閉中に誕生し、一時期は叔父細川興元(後の常陸谷田部藩主)の養子に。尚、興秋も洗礼を受けたキリシタンで、叔父の養父興元もその影響を受けて洗礼を受けたという。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では、父や兄忠隆と共に参戦して戦功を挙げましたが、兄廃嫡後に自分ではなく弟忠利が後継ぎとなったのを不満として剃髪し、後に大坂の陣に豊臣方として参加して活躍したけれど、夏の陣の後匿われていた寺で、父忠興の命令で切腹、生存説もあり。

三男忠利は熊本城主に
幼少時は病弱だったためガラシャが洗礼を受けさせジョアンという洗礼名が。元和6年(1620年)に父から家督を譲られて小倉藩主となり、寛永9年(1632年)には肥後熊本藩の加藤家改易のあとをうけて、熊本54万石に加増移封。寛永18年(1641年)、父に先立って死去、享年55歳。

次女多羅(たら)の子孫は信長の子孫と結婚
豊後国臼杵藩主稲葉一道と結婚、生まれた息子信道はガラシャの孫で明智光秀の曽孫になります。この信道は、織田信長の息子信雄の孫娘と結婚して生まれた後継ぎが景通。
景道は光秀と信長ともに高祖父になるというのはなんとも不思議な感じです。

結局忠興はガラシャとの子供たちよりも長生きして、83歳で死去しました。
現代に生きていればモラハラ、パワハラDV夫として糾弾されること間違いないですが、権力や名刀をたくさん持った大名がモラハラやってしまうとこういう結果になるという恐ろしい例としても記憶されるべきでしょう。

オーストリアでガラシャの殉教が戯曲になっていた

ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたのですが、その文献から伝わった情報をもとにしたラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されていました。

この戯曲は当時のハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝レオポルド1世の皇后エレオノーレ・マグダレーネ(女帝マリア・テレジアの祖母)の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設で、音楽つきの劇で初演。脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の教育施設の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲。 アドルフは、この物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」であると述べていて、参考文献も明記。

戯曲では、グラツィア(ガラシャ)が蒙昧かつ野蛮な君主の夫の悪逆非道に耐えつつも信仰を貫いたが、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教の教訓的な筋書きになっていて、オーストリア・ハプスブルク家の大公女たちに好まれたそう。

マリア・テレジアやマリー・アントワネットがガラシャの物語を劇として見たり戯曲として読んでいたなんて、驚きですね。

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悲劇のヒロインとして名前を残したガラシャ

ガラシャは美貌と言うだけではなくとても頭がよい人であったようですが、父光秀の謀反と敗北に加えて夫忠興の息苦しいまでの束縛で、溢れんばかりの才能が生かせなかったのではないかと残念な気持ちがします。
男性社会で封建社会とはいえ、北政所寧々や前田利家夫人のおまつ、山内一豊夫人など、賢い女性たちは何人もいて業績も名も残しているのですが、ガラシャも忠興の独占欲さえなければ壮絶な最期を遂げずに済み、歌集とかキリシタンとしての書籍とか、何かを後世に残したことは間違いないでしょう。肖像画一つ残っていないなんて、あんまりではないでしょうか。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

信仰に慰めを見出した「細川ガラシャ」の人生を歴女がわかりやすく解説!嫉妬深い夫の束縛・モラハラ・パワハラが彼女をキリスト教への道に…?

今回は、明智光秀の娘で細川忠興の妻、キリシタンでもあった細川ガラシャを取り上げるぞ。美貌で芯の強い女性だったようですが、独占欲の強い夫のきつい束縛のせいで悲劇的な最期を遂げたんです。

代々クリスチャンの家に育って女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。子供の頃に伝記を読んでショックを受けた細川ガラシャの生涯をもう一度じっくり調べ、5分でわかるようまとめた。

1、 細川ガラシャは明智光秀の三女として誕生

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細川ガラシャは永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子(伏屋またはお牧)の間の三女として越前の国で誕生。(四女説もあり)
名前は珠(たま)、または玉子。
ガラシャは後にキリシタンとして洗礼を受けたときの洗礼名です。

明治時代までの女性は、正式に結婚した後も実家の名字で呼ばれることがほとんどなので、ガラシャも生存中、死後も明智珠と呼ばれたはずですが、細川ガラシャと呼ばれているのは、明治時代になってキリスト教解禁後の日本のキリスト教徒たちが、キリシタンとしての「細川ガラシャ」を発掘し、偉業を讃えたからというのが理由。

1-1、ガラシャの父明智光秀とは

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By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 05:17, 14 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

ガラシャの父明智光秀は出自もはっきりせず謎の多い半生ですが、生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧名は明智荘)の明智城と言われていて、美濃国(岐阜県南部)生まれなのは確からしい。
光秀は美濃国の守護の土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えたが、弘治2年(1556年)、道三と息子義龍の親子の争いで道三方につき、義龍に明智城を攻められて一族が離散、その後光秀は越前国の朝倉義景に10年間仕えたが、光秀の叔母は斎藤道三の夫人で、信長の正室濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であったらしく、その縁を頼って信長家臣になったと言われています。

ガラシャが生まれたのは父光秀が越前朝倉家に仕えていた頃で、母お牧が髪を切って売ったこともあるというほど貧しい時代、ガラシャはわがまま贅沢なお姫様育ちではなかったんですね。

2、ガラシャ、細川忠興に嫁ぐ

ガラシャの子供時代の話は伝わっていませんが、美人で名高かったということ。
天正6年(1578年)、ガラシャは15歳の時に父の主君織田信長の仲介で細川藤孝の嫡男、同い年の忠興と結婚。
ガラシャの父明智光秀と忠興の父細川藤孝はかなり親しい仲で、双方とも教養人として知られているうえに、珍しく側室がいなくて正室ひとりだけとその子供たちのみ、こういう家族構成は戦国時代には稀有でしょう。ガラシャと忠興は、双方の家族関係には恵まれた結婚だったと言えるのでは。


天正7年(1579年)には長女おちょうが、続く天正8年(1580年)には長男の忠隆が生まれました。

2-1、ガラシャの夫細川忠興は武家貴族の出身の教養人だが欠点も

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忠興の父細川藤孝(幽斎)は足利家に仕えた名門で、いわば武家貴族のような家柄、最初は長岡姓を名乗っていました。
細川藤孝は足利義晴の御落胤説もあるほどなのですが、当代一の教養人で多種多芸、武将としても有能です。
息子の忠興も父譲りの教養があり、兜や刀などに造詣が深くそのうえに医学薬学にも興味を持つ多才さ、茶道にいたっては後に利休七哲の一人に数えられ、茶道の流派三斎流の開祖。まさに趣味を逸脱した教養人の父子ですね。
しかし、忠興は気が短く怒りっぽいことで有名で、ちょっとしたことで家来を手打ちにしたりするという、かなり気性が激しく荒っぽい性格、それは身内にも容赦がなく、丹後攻略戦のときに同じ足利一門である名門の一色義定氏を騙し討ち、敗残兵を皆殺しにしたせいで、一色義定に嫁いでいた忠興の妹は夫謀殺を恨み、戦後に兄忠興に斬りかかり顔に傷を負わせた話も。

そういう忠興はガラシャに愛情というか執着はなはだしく、彼女の喜ぶことは何でもするが、屋敷の奥深くに閉じ込めて家来にも会わせないようにするほどで、異常なほど嫉妬深く独占欲丸出しで束縛がきつかったといわれています。

3-1、本能寺の変でガラシャの立場は激変

忠興とガラシャは、勝竜寺城で盛大な婚礼後、勝竜寺城で新婚時代を過ごしていましたが、4年後、ガラシャ19歳のとき、天正10年(1582年)6月、ガラシャの父明智光秀が主君の織田信長を本能寺で討つという事件が勃発しました

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