日本史

信仰に慰めを見出した「細川ガラシャ」の人生を歴女が解説!嫉妬深い夫の束縛・モラハラ・パワハラが彼女をキリスト教への道に…?

よぉ、桜木健二だ、今回は、明智光秀の娘で細川忠興の妻、キリシタンでもあった細川ガラシャを取り上げるぞ。美貌で芯の強い女性だったようだが、独占欲の強い夫のきつい束縛のせいで悲劇的な最期を遂げたんだ。

代々クリスチャンの家に育って女性史に詳しいあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。子供の頃に伝記を読んでショックを受けた細川ガラシャの生涯をもう一度じっくり調べ、5分でわかるようまとめた。

1、 細川ガラシャは明智光秀の三女として誕生

image by PIXTA / 13043933

細川ガラシャは永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子(伏屋またはお牧)の間の三女として越前の国で誕生。(四女説もあり)
名前は珠(たま)、または玉子。
ガラシャは後にキリシタンとして洗礼を受けたときの洗礼名です。

明治時代までの女性は、正式に結婚した後も実家の名字で呼ばれることがほとんどなので、ガラシャも生存中、死後も明智珠と呼ばれたはずですが、細川ガラシャと呼ばれているのは、明治時代になってキリスト教解禁後の日本のキリスト教徒たちが、キリシタンとしての「細川ガラシャ」を発掘し、偉業を讃えたからというのが理由。

1-1、ガラシャの父明智光秀とは

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By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 05:17, 14 June 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

ガラシャの父明智光秀は出自もはっきりせず謎の多い半生ですが、生地は岐阜県可児市広見・瀬田(旧名は明智荘)の明智城と言われていて、美濃国(岐阜県南部)生まれなのは確からしい。
光秀は美濃国の守護の土岐氏の一族で、土岐氏にかわって美濃の国主となった斎藤道三に仕えたが、弘治2年(1556年)、道三と息子義龍の親子の争いで道三方につき、義龍に明智城を攻められて一族が離散、その後光秀は越前国の朝倉義景に10年間仕えたが、光秀の叔母は斎藤道三の夫人で、信長の正室濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であったらしく、その縁を頼って信長家臣になったと言われています。

ガラシャが生まれたのは父光秀が越前朝倉家に仕えていた頃で、母お牧が髪を切って売ったこともあるというほど貧しい時代、ガラシャはわがまま贅沢なお姫様育ちではなかったんですね。

2、ガラシャ、細川忠興に嫁ぐ

ガラシャの子供時代の話は伝わっていませんが、美人で名高かったということ。
天正6年(1578年)、ガラシャは15歳の時に父の主君織田信長の仲介で細川藤孝の嫡男、同い年の忠興と結婚。
ガラシャの父明智光秀と忠興の父細川藤孝はかなり親しい仲で、双方とも教養人として知られているうえに、珍しく側室がいなくて正室ひとりだけとその子供たちのみ、こういう家族構成は戦国時代には稀有でしょう。ガラシャと忠興は、双方の家族関係には恵まれた結婚だったと言えるのでは。


天正7年(1579年)には長女おちょうが、続く天正8年(1580年)には長男の忠隆が生まれました。

2-1、ガラシャの夫細川忠興は武家貴族の出身の教養人だが欠点も

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By 不明。 – 永青文庫所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link

忠興の父細川藤孝(幽斎)は足利家に仕えた名門で、いわば武家貴族のような家柄、最初は長岡姓を名乗っていました。
細川藤孝は足利義晴の御落胤説もあるほどなのですが、当代一の教養人で多種多芸、武将としても有能です。
息子の忠興も父譲りの教養があり、兜や刀などに造詣が深くそのうえに医学薬学にも興味を持つ多才さ、茶道にいたっては後に利休七哲の一人に数えられ、茶道の流派三斎流の開祖。まさに趣味を逸脱した教養人の父子ですね。
しかし、忠興は気が短く怒りっぽいことで有名で、ちょっとしたことで家来を手打ちにしたりするという、かなり気性が激しく荒っぽい性格、それは身内にも容赦がなく、丹後攻略戦のときに同じ足利一門である名門の一色義定氏を騙し討ち、敗残兵を皆殺しにしたせいで、一色義定に嫁いでいた忠興の妹は夫謀殺を恨み、戦後に兄忠興に斬りかかり顔に傷を負わせた話も。

そういう忠興はガラシャに愛情というか執着はなはだしく、彼女の喜ぶことは何でもするが、屋敷の奥深くに閉じ込めて家来にも会わせないようにするほどで、異常なほど嫉妬深く独占欲丸出しで束縛がきつかったといわれています。

3-1、本能寺の変でガラシャの立場は激変

忠興とガラシャは、勝竜寺城で盛大な婚礼後、勝竜寺城で新婚時代を過ごしていましたが、4年後、ガラシャ19歳のとき、天正10年(1582年)6月、ガラシャの父明智光秀が主君の織田信長を本能寺で討つという事件が勃発しました

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