今日は、蜀の国の武将「馬超」について、勉強していこう。漢の名門『馬氏』の家に生まれ、一族200人を曹操に殺された。優れた武勇で魏の英雄「曹操」を追いつめたこともあり、蜀の将軍にもなったんです。そこから馬超の最後の時などをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。
中国史マニアであり、今回は「馬超」について、わかりやすくまとめた。

馬超の生まれは漢の名門『馬氏』

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 「馬超」(ばちょう)、字は「孟起」(もうき)といいます。176年に生まれ、場所は『司隷』(しれい)『扶風郡』(ふふうぐん)というところです。三国志を少し勉強している方は、ここでおっと思ったかもしれませんが、この三国時代の武将で生まれの年が正確に伝わっている人物というのは実は多くありません。

 それの理由としては、馬超が名門の生まれというところでしょう。先祖は『漢』(かん)の「光武帝」(こうぶてい)の部下であり、名将として知られていた「馬援」(ばえん)の血を引いているのです。皇帝の側に仕えていた人物ということですので、馬超の先祖がいかに高い地位にいたかがわかりますね。

 しかし、馬超の祖父「馬平」(ばへい)は天水群で大尉の任についていましたが、ある時官職を失ってしまいます。原因は諸説ありますが、何かしらのミスを犯した、何かしらの事件に巻き込まれた、などがあるようです。その後、馬平は涼州から離れ、『羌族』(きょうぞく)が住む村へと移住することになりました。そこで出会った村の娘と結婚、生まれた男子が馬超の父「馬騰」(ばとう)なのです。

馬超の父「馬騰」は名将となり、中央に大きな影響力を持つ

 羌族の村に生まれた馬騰は、家が貧しかったため材木を切り倒し都市で売り、生計を立てていました。成人した後は、190cmほどもある身長に温厚な性格で周囲の人間から尊敬を集めていたそうです。ある時、涼州で反乱が起き、馬騰もその鎮圧軍に参加します。そこで馬騰を見た役人たちが、彼は只者ではないと一軍を与えるのです。役人たちの目論見通り、馬沸は功績をあげ将軍の属官に任命されました。

 その後中央では様々な動きがあり、涼州での活躍を認められていた馬騰は、将軍に任じられるほどになったのです。このことから馬騰は実質的に、涼州の支配者だと中央には知られることになりました。

 都『洛陽』(らくよう)で悪政を敷いていた「董卓」(とうたく)も、反董卓連合軍として集結した諸将も、董卓亡き後の洛陽を支配していた「李傕」(りかく)や「郭汜」(かくし)も、馬騰はどう出るのか、敵か味方か、常にその動向に目を光らされていた武将だったのです。

後に浅からぬ関係となる、武将「韓遂」との出会い

 ここで武将「韓遂」(かんすい)について、説明しましょう。韓遂とは、後に馬超と大規模な反乱を起こすこととなる武将なのです。馬超の父・馬騰とは同時期に将軍に任命されており、涼州にいた時には義兄弟の契りを結ぶほどの親密さだったといいます。

 しかし、その後は涼州を巡って対立し、互いに殺し合うほどになってしまいました。その際には、韓遂が馬騰の妻子を殺害したため、対立は一層激しいものとなってしまったのです。

 この時行われた戦には馬超も出陣しており、一騎打ちを行っています。三国志正史では、数回しか描かれていない貴重な一騎打ちの一つ、それは韓遂軍の「閻行」(えんこう)という武将です。しかし折れた矛で首を殴られ、敗走してしまったという結末でした。

 この時期、曹操は「袁紹」(えんしょう)との大きな戦を控えていました。そのため、この涼州で大きな戦が起こり、その結果で強大な勢力が出来ることを危惧したのでしょう、使者を派遣し両者の仲を取り持ち、韓遂・馬騰は曹操の元に子を人質として出すことになりました。そして、両者は和解したのです。

211年3月『潼関の戦い』曹操の動きに危機を感じた馬超

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 211年の3月、曹操は『漢中』(かんちゅう)の「張魯」(ちょうろ)討伐に乗り出します。曹操のこの動きを見て、漢中の通り道である涼州で将軍となっていた馬超は、自分達が攻められるのではないかと疑心暗鬼になったのです。

 すると、馬超は韓遂に対して反乱を持ち掛けます。しかし、韓遂は曹操に対して我が子を人質として出しているのです。決して即決はしません。そんな韓遂を見た馬超は「自分は父を捨て貴方を父とします、貴方もまた自分の事を子と思って欲しい」と伝えます。

 こうして、馬超・韓遂は曹操と敵対し、諸侯に呼びかけました。すると、両者に呼応する者が相次ぎ、その軍勢は10万人にもなったそうです。馬超はこの軍勢を率い、黄河の『潼水』の地に布陣したのですが、曹操は「曹仁」(そうじん)に潼関を防がせたのでした。

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河を渡る曹操に奇襲をかけ追いつめた馬超、しかし…

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 曹操が到着したのは、同年の7月でした。配下らに黄河を渡らせ、続いて自身の兵も渡河させました。曹操は護衛である「許褚」(きょちょ)が率いていた100人余りと共に殿軍となりました。

 すると、そこへ馬超が1万人の騎兵を率いて奇襲をかけたのです。馬超軍の猛攻に曹操軍は大混乱、あと一歩で曹操の首をとれる、といった時に許褚が割ってはいります。曹操軍の武将「丁斐」(ていひ)が咄嗟に機転をきかせ、牛や馬を解き放ちました。馬超らの軍は混乱し、曹操は渡河することに成功したのです。あわや曹操は、命を落とすところだったのでした。

曹操、馬超、韓遂の間で会談が設けられる

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 その後も9月まで、両軍の間で激しい攻防が続きましたが、次第に戦局は膠着し始めます。すると曹操配下の軍師「賈詡」(かく)による離間の計が実行され、馬超・韓遂に会談を持ち掛けました。

 そこでは賈詡による策が行われ、曹操は韓遂の父が自らと同年であり、同時期に挙兵したなどの昔話を持ち掛けたのです。するとその様子から、馬超は韓遂への信頼が薄らいでいきました。さらにはその不和を助長する文を、曹操は馬超に送っています。

 曹操は、馬超と韓遂の不和を察すると、攻撃を加えました。そうして、馬超と韓遂は敗走してしまうのです。

「馬超」と「韓遂」の不和についてより詳しく

 『三国志正史』には、知将「賈詡」の離間の計によって『潼関の戦い』の決着はついたとありますが、父子の契りを結んだ二人の信頼がこれほど簡単に薄れるでしょうか。その理由を4点ほどあげてみました。

 その一『馬騰との遺恨』。馬超の父・馬騰と韓遂は、一時期は殺し合うほどの仲になっています。さらに馬騰は妻子までを殺されているのです。馬超にとっての兄弟、表面上は和解しても親族として遺恨は残っていたはずでしょう。

 その二『黄河を渡らせるか否か』。二つ目は戦略の食い違いです。馬超が提案した戦略は、曹操に黄河を渡らせず兵糧切れで退却したところを、機動力のある騎兵で追いつめるといったものでした。一歩韓遂の戦略は、曹操に黄河を渡らせた後、曹操軍の補給を立ちながら戦力を削っていくといったものです。結果韓遂の策が採用されたのですが、曹操は黄河を渡河するや否や第一に、補給路の補強を行ってしまいました。こうして戦いは長期化したのです。

 その三『権力への志向の違い』。三つ目は、馬超の独立心と韓遂の権力の寛容さでしょう。馬超は曹操に対し、涼州の完全独立を主張していましたが、韓遂は涼州の自治さえ認めてもらえれば、協力も構わないといった姿勢です。実際に漢から官位をもらっていたり、曹操に対して恭しく一礼をしたという逸話も残っています。

 その四『言葉の違い』。四つ目は言語ではないでしょうか。中国の中央で使われていた言語は漢語です。一方、馬超が使っていたのは異民族が使っていた言語でした。現在の中国語にも種類があるように、当時はさらにモンゴルなども言葉も入っていた可能性が高いのです。韓遂はその両方に精通していたようですが、馬超の言語力はそこまで高くなかったといいます。会談の際に使われた言葉は漢語でしょう、曹操と韓遂が、仲良く漢語で会話していた様子を見た時の馬超の心境を考えると、信頼が薄らいだのも納得がいきますね。

馬超の反乱により一族は…

 馬超らの反乱を退けた曹操は、人質としていた韓遂の子や、都にいた馬騰をはじめ、馬超の三族200人余りを処刑したといいます。

 これは反乱を起こした馬超らへの報復でした。ここまでの苛烈な報復をした理由としては、馬超の有能さにあるでしょう。曹操自身、黄河での馬超の奇襲を受けた時は死を覚悟するほどだったはずです。馬超の武勇は恐れるべきものでした。

 さらに馬超の怖さはその血筋にあります。父・馬騰は羌族その混血であり、馬超自身も羌族からの尊敬を集めていました。異民族というのは強い人物に尊敬の念を抱きます。しかしそれは同じ血を引く者に限定されており、漢民族がいくら武勇に優れていようとも恐れを抱かれるだけなのです。馬超は武勇に優れ、羌族の地を引いていたため彼らは従っていました。馬超を勢い着かせれば、さらに何十万という異民族を相手にしなければなりません。まさに曹操にとってはその存在が恐怖であり、それが一族を超え皆殺しにした背景でしょう。

馬超の復習による蜂起に、諸侯は呼応する

 父、そして一族を殺された馬超は復讐のため、再起を図ります。この再起には羌族をはじめとし、諸侯も再び呼応したようです。さらには漢中の張魯も協力していました。

 213年、涼州の「韋康」(いこう)討伐に乗り出し、降伏させることに成功します。さらには、援軍としてやってきた「夏侯淵」(かこうえん)も撃破しました。降伏した韋康は、民の命を守るための苦渋の決断だったのですが、馬超は躊躇いもなく処刑してしまうのです。復讐心に燃えた馬超の攻撃は苛烈だったといいます。

 韋康を殺され、その復讐に燃えたのは部下であった「趙昂」(ちょうこう)でした。趙昂は自身の妻である「王異」(おうい)と策を練りました。この王異は三国志では珍しく、女性として戦場に立った記述のある人物です。王異は兵達の士気を高めるため、自身の宝飾品を褒美としてとらせるなど、夫・趙昴をよく助けました。

 この二人の抵抗、さらには援軍としてかけつけた夏侯淵と「張郃」(ちょうこう)の活躍もあり、馬超は敗走してしまいます。その後も張魯に兵を借り、何度も涼州攻略を目論みましたが、全て失敗に終わってしまいました。

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成都攻めを行っていた劉備との出会い

 214年、馬超は『益州』(えきしゅう)の「劉璋」(りゅうしょう)を、成都で包囲していた劉備に密書を送ります。そこで降伏を申し入れたのです。劉備は馬超の来訪を聞くと、すぐさま使者を送り馬超の軍兵を迎えとらせました。この時馬超の元にいたのは、従弟の「馬岱」(ばたい)、子の「馬承」(ばしょう)、そして娘が1人だけです。

 馬超が劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、劉備に降伏しました。これはまさに馬超の功績でしょう、一族を殺され再起もままなりませんでしたが、馬超は確かに涼州で名をはせていました。馬超は劉備により軍に任命され、臨沮を治めることになったのです。

 この後、馬超は劉備による漢中攻略戦に参戦します。しかしそこでは目立った功績はあげられていません。

馬超は47歳で史実から姿を消す。その理由は病死?隠居?暗殺?

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 馬超は劉備陣営に身をおいてからは、三国志正史から殆ど姿を消してしまうのです。この年は、蜀陣営の英雄が次々と命を落とします。軍神「関羽」(かんう)をはじめ、一騎当千の武を誇った「張飛」(ちょうひ)、さらには弓の名手「黄忠」(こうちゅう)も病没、蜀の崩壊が始まったのです。そして関羽、張飛の弔い合戦として行われた、蜀の総力を挙げた『夷陵の戦い』。なんとここに馬超の参戦の記録はありません。

 その次の年である222年、馬超は47歳の若さで突然亡くなります。

 ここで、馬超が史実から姿を消した理由を少し探っていきましょう。

 一つ目が隠居説です。涼州においての独立を目指していた馬超が、何故か突然劉備の元に降ります。これは、馬超が戦いに明け暮れ、父も弟も妻も子も、全て処刑されました。そんな中で燃え尽きていた可能性は考えられないでしょうか。遺言として、従弟である馬岱に全てを譲り、山の奥で隠居してしまいました。

 二つ目が自害説です。理由は隠居説と同じですが、蜀軍の将軍である馬超が自害というのは格好がつかないので、病死とされた、というものも考えられるでしょう。

 三つ目が暗殺説です。曹操は馬超のことをことさら危険視していたはずでしょう。でなければ、群雄割拠の時代たった一度の反乱で200人余りも処刑するでしょうか。馬超が武勇に優れた羌族との深いつながりを持つ以上、捨て置けはしないと思うのです。実際に暗殺によって命を落とした武将は大勢います。

『演義』での馬超、渾名は『錦馬超』

 最後に『三国志演義』での馬超についても勉強しましょう。演義における馬超の渾名で『錦馬超』(きんばちょう)というものがあります。『錦』とは色鮮やかな織物という意味であり、使われた色は、赤、白、金、黄、など戦場ではとても目立ったことでしょう。

 まずは馬超の初陣から、17歳であった馬超は「顔の色は冠の玉のようで、眼は流星のよう、体躯(は虎のようで、(は猿のよう、腹は豹)のようで、腰は狼のようである」とあります。眼は流星とありますので、キラキラとした瞳だったのでしょうか。虎のような体躯で腰は狼、逆三角形の筋肉質な体であったと想像ができます。腹は豹のようとは、鎧のことでしょうか『錦』と名についた通り、金が基調だったのでしょう。

 続いては曹操と対峙したところから、35歳の馬超は「白い粉をはたいたような顔の色に紅をさしたような唇、腰は細く、肩幅は広い。まさに他人を圧倒する雄姿である」とあるのです。まるで三国一の美女「貂蝉」(ちょうせん)を称賛するような文句ですね。色気のある美丈夫といったところでしょうね。

 馬超の甲冑の描写は「帯は獣面模様、白銀の甲冑に純白の袍、そして獅子頭の兜」というものがあります。

 そして馬超を始めてみた劉備は、彼を「まさに錦馬超だ」と感嘆したそうです。それにほどに印象的な姿だったのでしょう。

\次のページで「蜀のため、反乱の時期が変えられた。」を解説!/

蜀のため、反乱の時期が変えられた。

ここまで馬超のことについて、勉強してきました。すると、あれ、という部分が出てくると思います。

馬超は父をはじめ一族を殺されたため、復讐を誓い曹操に戦いを挑んだ。そう、時系列が違っています。

これは、演義の脚色なのです。「馬超が反乱を起こしたために、一族が皆殺しの目にあった」当時の価値観で言えば、親が殺されるような原因を作った馬超は断罪されてしかるべきでした。しかし、主人公劉備が喜んで迎えた人物がそのようではいけない、と脚色を加えられたのだと思います。

馬超のことを勉強する際には、当時の価値観などもふまえていくと良いでしょうね。

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

【三国志】武勇で曹操を追いつめた「馬超」!その一生をわかりやすく解説

蜀のため、反乱の時期が変えられた。

ここまで馬超のことについて、勉強してきました。すると、あれ、という部分が出てくると思います。

馬超は父をはじめ一族を殺されたため、復讐を誓い曹操に戦いを挑んだ。そう、時系列が違っています。

これは、演義の脚色なのです。「馬超が反乱を起こしたために、一族が皆殺しの目にあった」当時の価値観で言えば、親が殺されるような原因を作った馬超は断罪されてしかるべきでした。しかし、主人公劉備が喜んで迎えた人物がそのようではいけない、と脚色を加えられたのだと思います。

馬超のことを勉強する際には、当時の価値観などもふまえていくと良いでしょうね。

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