馬超は劉備陣営に身をおいてからは、三国志正史から殆ど姿を消してしまうのです。この年は、蜀陣営の英雄が次々と命を落とします。軍神「関羽」(かんう)をはじめ、一騎当千の武を誇った「張飛」(ちょうひ)、さらには弓の名手「黄忠」(こうちゅう)も病没、蜀の崩壊が始まったのです。そして関羽、張飛の弔い合戦として行われた、蜀の総力を挙げた『夷陵の戦い』。なんとここに馬超の参戦の記録はありません。
その次の年である222年、馬超は47歳の若さで突然亡くなります。
ここで、馬超が史実から姿を消した理由を少し探っていきましょう。
一つ目が隠居説です。涼州においての独立を目指していた馬超が、何故か突然劉備の元に降ります。これは、馬超が戦いに明け暮れ、父も弟も妻も子も、全て処刑されました。そんな中で燃え尽きていた可能性は考えられないでしょうか。遺言として、従弟である馬岱に全てを譲り、山の奥で隠居してしまいました。
二つ目が自害説です。理由は隠居説と同じですが、蜀軍の将軍である馬超が自害というのは格好がつかないので、病死とされた、というものも考えられるでしょう。
三つ目が暗殺説です。曹操は馬超のことをことさら危険視していたはずでしょう。でなければ、群雄割拠の時代たった一度の反乱で200人余りも処刑するでしょうか。馬超が武勇に優れた羌族との深いつながりを持つ以上、捨て置けはしないと思うのです。実際に暗殺によって命を落とした武将は大勢います。