河を渡る曹操に奇襲をかけ追いつめた馬超、しかし…
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曹操が到着したのは、同年の7月でした。配下らに黄河を渡らせ、続いて自身の兵も渡河させました。曹操は護衛である「許褚」(きょちょ)が率いていた100人余りと共に殿軍となりました。
すると、そこへ馬超が1万人の騎兵を率いて奇襲をかけたのです。馬超軍の猛攻に曹操軍は大混乱、あと一歩で曹操の首をとれる、といった時に許褚が割ってはいります。曹操軍の武将「丁斐」(ていひ)が咄嗟に機転をきかせ、牛や馬を解き放ちました。馬超らの軍は混乱し、曹操は渡河することに成功したのです。あわや曹操は、命を落とすところだったのでした。
曹操、馬超、韓遂の間で会談が設けられる
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その後も9月まで、両軍の間で激しい攻防が続きましたが、次第に戦局は膠着し始めます。すると曹操配下の軍師「賈詡」(かく)による離間の計が実行され、馬超・韓遂に会談を持ち掛けました。
そこでは賈詡による策が行われ、曹操は韓遂の父が自らと同年であり、同時期に挙兵したなどの昔話を持ち掛けたのです。するとその様子から、馬超は韓遂への信頼が薄らいでいきました。さらにはその不和を助長する文を、曹操は馬超に送っています。
曹操は、馬超と韓遂の不和を察すると、攻撃を加えました。そうして、馬超と韓遂は敗走してしまうのです。
「馬超」と「韓遂」の不和についてより詳しく
『三国志正史』には、知将「賈詡」の離間の計によって『潼関の戦い』の決着はついたとありますが、父子の契りを結んだ二人の信頼がこれほど簡単に薄れるでしょうか。その理由を4点ほどあげてみました。
その一『馬騰との遺恨』。馬超の父・馬騰と韓遂は、一時期は殺し合うほどの仲になっています。さらに馬騰は妻子までを殺されているのです。馬超にとっての兄弟、表面上は和解しても親族として遺恨は残っていたはずでしょう。
その二『黄河を渡らせるか否か』。二つ目は戦略の食い違いです。馬超が提案した戦略は、曹操に黄河を渡らせず兵糧切れで退却したところを、機動力のある騎兵で追いつめるといったものでした。一歩韓遂の戦略は、曹操に黄河を渡らせた後、曹操軍の補給を立ちながら戦力を削っていくといったものです。結果韓遂の策が採用されたのですが、曹操は黄河を渡河するや否や第一に、補給路の補強を行ってしまいました。こうして戦いは長期化したのです。
その三『権力への志向の違い』。三つ目は、馬超の独立心と韓遂の権力の寛容さでしょう。馬超は曹操に対し、涼州の完全独立を主張していましたが、韓遂は涼州の自治さえ認めてもらえれば、協力も構わないといった姿勢です。実際に漢から官位をもらっていたり、曹操に対して恭しく一礼をしたという逸話も残っています。
その四『言葉の違い』。四つ目は言語ではないでしょうか。中国の中央で使われていた言語は漢語です。一方、馬超が使っていたのは異民族が使っていた言語でした。現在の中国語にも種類があるように、当時はさらにモンゴルなども言葉も入っていた可能性が高いのです。韓遂はその両方に精通していたようですが、馬超の言語力はそこまで高くなかったといいます。会談の際に使われた言葉は漢語でしょう、曹操と韓遂が、仲良く漢語で会話していた様子を見た時の馬超の心境を考えると、信頼が薄らいだのも納得がいきますね。
馬超の反乱により一族は…
馬超らの反乱を退けた曹操は、人質としていた韓遂の子や、都にいた馬騰をはじめ、馬超の三族200人余りを処刑したといいます。
これは反乱を起こした馬超らへの報復でした。ここまでの苛烈な報復をした理由としては、馬超の有能さにあるでしょう。曹操自身、黄河での馬超の奇襲を受けた時は死を覚悟するほどだったはずです。馬超の武勇は恐れるべきものでした。
さらに馬超の怖さはその血筋にあります。父・馬騰は羌族その混血であり、馬超自身も羌族からの尊敬を集めていました。異民族というのは強い人物に尊敬の念を抱きます。しかしそれは同じ血を引く者に限定されており、漢民族がいくら武勇に優れていようとも恐れを抱かれるだけなのです。馬超は武勇に優れ、羌族の地を引いていたため彼らは従っていました。馬超を勢い着かせれば、さらに何十万という異民族を相手にしなければなりません。まさに曹操にとってはその存在が恐怖であり、それが一族を超え皆殺しにした背景でしょう。
馬超の復習による蜂起に、諸侯は呼応する
父、そして一族を殺された馬超は復讐のため、再起を図ります。この再起には羌族をはじめとし、諸侯も再び呼応したようです。さらには漢中の張魯も協力していました。
213年、涼州の「韋康」(いこう)討伐に乗り出し、降伏させることに成功します。さらには、援軍としてやってきた「夏侯淵」(かこうえん)も撃破しました。降伏した韋康は、民の命を守るための苦渋の決断だったのですが、馬超は躊躇いもなく処刑してしまうのです。復讐心に燃えた馬超の攻撃は苛烈だったといいます。
韋康を殺され、その復讐に燃えたのは部下であった「趙昂」(ちょうこう)でした。趙昂は自身の妻である「王異」(おうい)と策を練りました。この王異は三国志では珍しく、女性として戦場に立った記述のある人物です。王異は兵達の士気を高めるため、自身の宝飾品を褒美としてとらせるなど、夫・趙昴をよく助けました。
この二人の抵抗、さらには援軍としてかけつけた夏侯淵と「張郃」(ちょうこう)の活躍もあり、馬超は敗走してしまいます。その後も張魯に兵を借り、何度も涼州攻略を目論みましたが、全て失敗に終わってしまいました。
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