
アウシュビッツへの収容
オランダ北部のヴェステルボルク通過収容所に連行された隠れ家の住人は、8人全員が9月にポーランドのアウシュビッツ強制収容所に移送されました。到着時、ユダヤ人たちは男女に分けられて収容されます。アンネにとっては、オットーやピーターとの永遠の別れとなってしまいました。
アウシュビッツは、多くのユダヤ人がガス室で殺害される悲惨な収容所でした。しかしアンネは労働可能と判断されてガス室送りを免れ、エーディトやマルゴットと身を寄せ合って暮らしていました。
その後、アンネとマルゴットはドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送されることが決まります。エーディトはアウシュビッツに残されたため、母娘はその後二度と会うことはできませんでした。
ベルゲン・ベルゼンでの死
ベルゲン・ベルゼンで、アンネはアムステルダムに住んでいたときの親友ハンネと再会します。隠れ家で暮らしていた頃、アンネはハンネがもう生きていないのではないかと身を案じる日記を綴っていました。しかし2人は別の区画に収容されていて、有刺鉄線越しに涙の再開を遂げたのです。このときアンネが「もう私には両親がいない」と涙ながらに語っていた様子を、後にハンネが回想しています。
ベルゲン・ベルゼンは、衛生状態の非常に悪い収容所でした。囚人はアウシュビッツのようにガス室に送られることがない代わりに、十分な食料もなく伝染病は蔓延し、多くの人が衰弱死していきました。アンネとマルゴットも、ここでみるみる弱っていったと言われています。姉妹はチフスに罹患し、まず姉のマルゴットが、そしてその数日後にはアンネが息を引き取りました。1945年2月末から3月初旬ごろのことだと言われていますが、正確な日付はわかっていません。ベルゲン・ベルゼン強制収容所はそのわずか1か月ほど後に、イギリス軍によって解放されました。
現在、敷地内には姉妹の墓碑が建てられています。しかしあまりに多くの人が亡くなったため、2人の遺骨が特定されることはありませんでした。
世界に広まったアンネの日記
By 撮影者不詳; Collectie Anne Frank Stichting Amsterdam – Website Anne Frank Stichting, Amsterdam, パブリック・ドメイン, Link
隠れ家の生存者
アンネが共に暮らした8人の隠れ家の住人の中で、戦争を生き延びたのはオットー・フランクただ一人でした。オットーはアウシュビッツで終戦を迎えてアムステルダムに戻り、家族の無事を祈って情報を探し続けます。しかし、妻のエーディトも2人の娘マルゴットとアンネも、もう生きてはいないことを知らされたのです。
自らの危険を顧みずにアンネたちの隠れ家での生活を支援した4人の人物は、全員が無事でした。ヴィクトール・クーフレルとヨハンネス・クレイマンは隠れ家が発見されたときに住人と共に連行されましたが、その後クーフレルは収容所から脱走、クレイマンは釈放され、戦後はオットーとの親交が続きました。
女性支援者のミープ・ヒースとベップ・フォスキュイルは、逮捕を免れています。2人はアンネたちが連行された直後、隠れ家からアンネの日記を見つけ出していました。ミープはその日記を保管し、戦争が終わってアンネと再会したときに返すつもりでいました。
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