
ドイツからオランダへ
アンネが誕生の地であるドイツのフランクフルトを離れたのは1934年、まだ4歳のときでした。ドイツの不穏なユダヤ人政策に危機感を抱いた父のオットーが、一家でオランダに亡命することを決意したのです。
フランク一家は、アムステルダム・ザウト地区のアパートに移り住みました。周囲にはドイツから逃れてきたユダヤ人が多く暮らしていて、当時は彼らにとってはつかの間の平和な場所でした。
アンネはそこで、自由な教育を校風とするモンテッソーリ・スクールに通うようになります。お喋りで奔放なアンネを普通の学校ではなくのびのびとした環境で学ばせたいという、両親の願いだったようです。
オランダの降伏と加速するユダヤ人迫害
1939年、第二次世界大戦が開戦しました。当初オランダは中立の立場をとっていたのですが、1940年5月10日にドイツ軍がオランダに侵攻。そのわずか数日後にオランダ政府はドイツに全面降伏し、ドイツ軍に占領されてしまいました。
オランダ国内では徐々にユダヤ人の生活が制限されていきます。アンネも、好きだった映画やプールに行くことができなくなってしまいました。その後、1941年8月末にはユダヤ人学校以外の学校へユダヤ人が通学することが禁止に。モンテッソーリ・スクールへ通っていたアンネは、ユダヤ人中学校への転校を余儀なくされます。さらに、外出時にはユダヤ人マークの着用を義務付けられたり、外出制限を課せられたりするように。
多くの制限を受けながらも、アンネたちはできるだけ普段通りの生活を送ろうとしていました。学校からの帰り道、ユダヤ人でも利用できるアイスクリーム店に寄り道して友達と一緒に楽しんでいたことなどが知られています。しかし、そうした生活すら続けることが困難になっていきました。
隠れ家への移住
1942年7月5日、アンネの姉マルゴットに対して招集命令通知が届けられます。この招集命令はアムステルダムに住む15歳から16歳のユダヤ人に対して一斉に出されたもので、命令に応じて出頭すると強制収容所に送られることが知られていました。
父のオットーは、すぐに逃げる必要があると判断。危険が差し迫っていると感じていたオットーは、自身が経営していた会社の建物内に身を隠す場所の用意を進めていたのです。アムステルダムの別の地区にあり、会社の従業員らが協力していました。
隠れ家に入ったのは、招集命令を受け取った翌朝のことでした。まずマルゴットが支援者に連れられ、そのすぐ後に残りの3人が徒歩で、隠れ家へ向かったのです。親しい友人にすら、別れを告げることはできませんでした。こうして、アンネたちの2年以上に及ぶ隠れ家生活が始まりました。
隠れ家での生活
運河に面したアムステルダムには、離れのついた形状の建物がよく見られました。アンネたちが隠れ家にしたのは、そのような建物の離れの部分でした。手前の建物の3階にある離れへの入口を本棚で隠し、身を潜めたのです。アンネは隠れ家を「後ろの家」と呼んでいました。
フランク一家のほか、ファン・ペルス一家3人と歯科医のフリッツ・プフェファーの計8人での共同生活でした。また、手前の建物にある事務所で働く非ユダヤ人の支援者たちが食料や物資を調達していました。
カーテンを開けることも昼間にトイレを使うこともできず、隠れ家の生活は困難なものでした。食料も決して十分な量はなく、制約の多い空間で住民が衝突することもありました。アンネは難しい年頃だったこともあり、母エーディトへの不満をたびたび日記に綴っています。物静かで優秀な姉ともそりが合わず、反感を抱いていました。
しかしユダヤ教の儀式や誕生日のお祝いなどの楽しみを見つけ、大変な状況の中でも明るく暮らしていたようです。また、長い隠れ家生活の中でアンネとファン・ペルス一家の一人息子であるピーターは親密な関係になっていきました。
隠れ家生活の終わり
不便で困難ながらも住人たちが助け合っていた隠れ家での生活は、ある日突然終わりを迎えます。
1944年8月4日、隠れ家にナチスの親衛隊がやってきました。いつものように身をひそめながら静かな朝を過ごしていた住民は、全員が発見されてしまいます。アンネたちに成す術はなく、命令に従うことしかできませんでした。
8人の住民とともに、支援者も2人逮捕されました。こうしてアンネたちは連行され、強制収容所へと送られることになったのです。
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