『アンネの日記』という本を読んだことはあるか?ユダヤ人の少女アンネ・フランクが第二次世界大戦中に綴った、有名な日記です。読んだことはなくても、聞いたことはあるでしょう。アンネ・フランクはどんな生涯を送ったんでしょう?

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。子どもの頃から『アンネの日記』を愛読していたため、今回解説する「アンネ・フランク」についても精通している。

アンネの生きた時代

image by PIXTA / 649013

アンネ・フランクとはどのような人物か

アンネ・フランクは『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ人の少女です。

1929年6月12日、ドイツのフランクフルトで誕生。父オットー・フランク、母エーディト・フランクと3歳年上の姉マルゴット・フランクの4人家族でした。一家はそれほど敬虔なユダヤ人家庭だったわけではないようです。しかしもちろん、第二次世界大戦の混乱から逃れることはできませんでした。

アンネの生涯は短く、ナチスの犠牲となり1945年にわずか15歳で息を引き取りました。最期の地は、ドイツにあるユダヤ人強制収容所の中でした。

当時の時代背景

アンネが生きた時代、ドイツを中心にヨーロッパでは反ユダヤ勢力が拡大していました。1933年にナチスが政権を握って以降、ドイツでは国策としてユダヤ人への差別が行われるようになります。

第二次世界大戦下、このユダヤ人迫害はホロコーストとも呼ばれる大虐殺に発展。ユダヤ人であるというだけで強制収容所に送られ、厳しい労働を強いられたりガス室で殺害されたりしました。この悲惨な状況は、ドイツが降伏するまで続きます。その犠牲となった多くのユダヤ人の一人が、アンネ・フランクなのです。

隠れ家に移住する前のアンネ・フランク

image by PIXTA / 14017927

\次のページで「ドイツからオランダへ」を解説!/

ドイツからオランダへ

アンネが誕生の地であるドイツのフランクフルトを離れたのは1934年、まだ4歳のときでした。ドイツの不穏なユダヤ人政策に危機感を抱いた父のオットーが、一家でオランダに亡命することを決意したのです。

フランク一家は、アムステルダム・ザウト地区のアパートに移り住みました。周囲にはドイツから逃れてきたユダヤ人が多く暮らしていて、当時は彼らにとってはつかの間の平和な場所でした。

アンネはそこで、自由な教育を校風とするモンテッソーリ・スクールに通うようになります。お喋りで奔放なアンネを普通の学校ではなくのびのびとした環境で学ばせたいという、両親の願いだったようです。

オランダの降伏と加速するユダヤ人迫害

1939年、第二次世界大戦が開戦しました。当初オランダは中立の立場をとっていたのですが、1940年5月10日にドイツ軍がオランダに侵攻。そのわずか数日後にオランダ政府はドイツに全面降伏し、ドイツ軍に占領されてしまいました。

オランダ国内では徐々にユダヤ人の生活が制限されていきます。アンネも、好きだった映画やプールに行くことができなくなってしまいました。その後、1941年8月末にはユダヤ人学校以外の学校へユダヤ人が通学することが禁止に。モンテッソーリ・スクールへ通っていたアンネは、ユダヤ人中学校への転校を余儀なくされます。さらに、外出時にはユダヤ人マークの着用を義務付けられたり、外出制限を課せられたりするように。

多くの制限を受けながらも、アンネたちはできるだけ普段通りの生活を送ろうとしていました。学校からの帰り道、ユダヤ人でも利用できるアイスクリーム店に寄り道して友達と一緒に楽しんでいたことなどが知られています。しかし、そうした生活すら続けることが困難になっていきました。

隠れ家への移住

1942年7月5日、アンネの姉マルゴットに対して招集命令通知が届けられます。この招集命令はアムステルダムに住む15歳から16歳のユダヤ人に対して一斉に出されたもので、命令に応じて出頭すると強制収容所に送られることが知られていました。

父のオットーは、すぐに逃げる必要があると判断。危険が差し迫っていると感じていたオットーは、自身が経営していた会社の建物内に身を隠す場所の用意を進めていたのです。アムステルダムの別の地区にあり、会社の従業員らが協力していました。

隠れ家に入ったのは、招集命令を受け取った翌朝のことでした。まずマルゴットが支援者に連れられ、そのすぐ後に残りの3人が徒歩で、隠れ家へ向かったのです。親しい友人にすら、別れを告げることはできませんでした。こうして、アンネたちの2年以上に及ぶ隠れ家生活が始まりました。

隠れ家での2年間

image by PIXTA / 49982952

隠れ家での生活

運河に面したアムステルダムには、離れのついた形状の建物がよく見られました。アンネたちが隠れ家にしたのは、そのような建物の離れの部分でした。手前の建物の3階にある離れへの入口を本棚で隠し、身を潜めたのです。アンネは隠れ家を「後ろの家」と呼んでいました。

フランク一家のほか、ファン・ペルス一家3人と歯科医のフリッツ・プフェファーの計8人での共同生活でした。また、手前の建物にある事務所で働く非ユダヤ人の支援者たちが食料や物資を調達していました。

カーテンを開けることも昼間にトイレを使うこともできず、隠れ家の生活は困難なものでした。食料も決して十分な量はなく、制約の多い空間で住民が衝突することもありました。アンネは難しい年頃だったこともあり、母エーディトへの不満をたびたび日記に綴っています。物静かで優秀な姉ともそりが合わず、反感を抱いていました。

しかしユダヤ教の儀式や誕生日のお祝いなどの楽しみを見つけ、大変な状況の中でも明るく暮らしていたようです。また、長い隠れ家生活の中でアンネとファン・ペルス一家の一人息子であるピーターは親密な関係になっていきました。

隠れ家生活の終わり

不便で困難ながらも住人たちが助け合っていた隠れ家での生活は、ある日突然終わりを迎えます。

1944年8月4日、隠れ家にナチスの親衛隊がやってきました。いつものように身をひそめながら静かな朝を過ごしていた住民は、全員が発見されてしまいます。アンネたちに成す術はなく、命令に従うことしかできませんでした。

8人の住民とともに、支援者も2人逮捕されました。こうしてアンネたちは連行され、強制収容所へと送られることになったのです。

\次のページで「強制収容所での様子」を解説!/

強制収容所での様子

image by PIXTA / 1826557

アウシュビッツへの収容

オランダ北部のヴェステルボルク通過収容所に連行された隠れ家の住人は、8人全員が9月にポーランドのアウシュビッツ強制収容所に移送されました。到着時、ユダヤ人たちは男女に分けられて収容されます。アンネにとっては、オットーやピーターとの永遠の別れとなってしまいました。

アウシュビッツは、多くのユダヤ人がガス室で殺害される悲惨な収容所でした。しかしアンネは労働可能と判断されてガス室送りを免れ、エーディトやマルゴットと身を寄せ合って暮らしていました。

その後、アンネとマルゴットはドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送されることが決まります。エーディトはアウシュビッツに残されたため、母娘はその後二度と会うことはできませんでした。

ベルゲン・ベルゼンでの死

ベルゲン・ベルゼンで、アンネはアムステルダムに住んでいたときの親友ハンネと再会します。隠れ家で暮らしていた頃、アンネはハンネがもう生きていないのではないかと身を案じる日記を綴っていました。しかし2人は別の区画に収容されていて、有刺鉄線越しに涙の再開を遂げたのです。このときアンネが「もう私には両親がいない」と涙ながらに語っていた様子を、後にハンネが回想しています。

ベルゲン・ベルゼンは、衛生状態の非常に悪い収容所でした。囚人はアウシュビッツのようにガス室に送られることがない代わりに、十分な食料もなく伝染病は蔓延し、多くの人が衰弱死していきました。アンネとマルゴットも、ここでみるみる弱っていったと言われています。姉妹はチフスに罹患し、まず姉のマルゴットが、そしてその数日後にはアンネが息を引き取りました。1945年2月末から3月初旬ごろのことだと言われていますが、正確な日付はわかっていません。ベルゲン・ベルゼン強制収容所はそのわずか1か月ほど後に、イギリス軍によって解放されました。

現在、敷地内には姉妹の墓碑が建てられています。しかしあまりに多くの人が亡くなったため、2人の遺骨が特定されることはありませんでした。

世界に広まったアンネの日記

AnneFrankSchoolPhoto.jpg
By 撮影者不詳; Collectie Anne Frank Stichting Amsterdam - Website Anne Frank Stichting, Amsterdam, パブリック・ドメイン, Link

隠れ家の生存者

アンネが共に暮らした8人の隠れ家の住人の中で、戦争を生き延びたのはオットー・フランクただ一人でした。オットーはアウシュビッツで終戦を迎えてアムステルダムに戻り、家族の無事を祈って情報を探し続けます。しかし、妻のエーディトも2人の娘マルゴットとアンネも、もう生きてはいないことを知らされたのです。

自らの危険を顧みずにアンネたちの隠れ家での生活を支援した4人の人物は、全員が無事でした。ヴィクトール・クーフレルとヨハンネス・クレイマンは隠れ家が発見されたときに住人と共に連行されましたが、その後クーフレルは収容所から脱走、クレイマンは釈放され、戦後はオットーとの親交が続きました。

女性支援者のミープ・ヒースとベップ・フォスキュイルは、逮捕を免れています。2人はアンネたちが連行された直後、隠れ家からアンネの日記を見つけ出していました。ミープはその日記を保管し、戦争が終わってアンネと再会したときに返すつもりでいました。

\次のページで「アンネの日記とは」を解説!/

アンネの日記とは

『アンネの日記』は、アンネが隠れ家での生活を描写した日記を戦後にオットーが編集して出版した文学作品です。

アンネは1942年、13歳の誕生日のプレゼントとしてサイン帳をもらいました。これが後の『アンネの日記』の元となる日記帳の一冊目となったのです。アンネは日記にキティという名前を付け、キティに語りかける形で日記を書き始めました。日記が記されているのは、誕生日当日の1942年6月12日から連行される直前の1944年8月1日まで約2年間のことです。いずれは出版したいという思いがあり、アンネは隠れ家での生活中に日記の一部を清書していました。

日記を保管していたミープはアンネが亡くなったことを知り、オットーに遺品として日記を渡します。オットーは初め、これを親しい人に読んでもらうために編集しました。その後、生前のアンネの希望を叶えるために奔走。オランダでの本格的な出版にこぎつけました。

『アンネの日記』は現在、世界各国で翻訳され出版されています。厳しい暮らしの中でも希望とユーモアを忘れないアンネは、戦争の犠牲となった多くのユダヤ人のシンボルとして世界中の人々から愛されるようになりました。

アンネの死後

image by PIXTA / 64108

隠れ家の密告者は誰だったのか

アンネたちの隠れ家は、誰かからの密告により捜査されたと言われています。アンネの日記が有名になるにつれ、密告者は誰だったのかということに高い関心が寄せられるようになりました。

隠れ家の手前の家の会社で働いていた倉庫係が怪しいとして戦後に取り調べを受けていますが、その後十分な証拠がないとして取り下げられています。他にもオットーの商売相手だった人物が密告したのではないかなど様々な説が唱えられました。また、偶然発見されたのではないかと考える人もいます。

しかし正確なことは今もわかっておらず、隠れ家の関係者が全員この世を去った今となっては、真相は永遠に謎のままかもしれません。

アンネの国籍は

アンネはドイツで生まれましたが、ナチスから逃げるためアムステルダムに移住した際にドイツ国籍を喪失。その後、記録の上では無国籍となっています。

生涯のほとんどをアムステルダムで暮らしたアンネに、オランダ国籍を与えようという運動が起きたこともありました。しかし、オランダ法務省は死後に国籍を付与することはできないと判断。正式にオランダ人となることは叶いませんでしたが、今でもオランダの著名な人物としてアンネ・フランクは広く親しまれているのです。

アンネの暮らした隠れ家は「アンネ・フランクの家」としてアムステルダムにそのまま保存され、世界中から多くの人が訪れています。

アンネ・フランクは希望を失わず平和を願い続けた

『アンネの日記』の作者であるアンネ・フランクは、ユダヤ人迫害の犠牲となった人々のシンボルとして世界中でその名を知られています。戦争を憎み、もし生き延びることができたら世界と人類のためになることをしたいと希望していました。けれど戦争から逃れることはできず、たった15年の短すぎる人生を終えたのです。もし生まれた時代が違ったら、お喋りで活発などこにでもいる少女として幸せに暮らしていたことでしょう。

第二次世界大戦中にユダヤ人迫害の犠牲となったのは、もちろんアンネ一人ではありません。あまりにも多くの人々が、理不尽にその命を奪われました。私たちは歴史を知り過去から学ぶことで、平和な世界を築く努力をしなければいけません。同じ歴史を繰り返さず、アンネの思いを守っていきたいですね。

" /> 「アンネ フランク」の生きた15年!時代の犠牲となった少女を『アンネの日記』を愛するライターがわかりやすく解説 – Study-Z
ドイツナチスドイツヨーロッパの歴史世界史歴史

「アンネ フランク」の生きた15年!時代の犠牲となった少女を『アンネの日記』を愛するライターがわかりやすく解説

『アンネの日記』という本を読んだことはあるか?ユダヤ人の少女アンネ・フランクが第二次世界大戦中に綴った、有名な日記です。読んだことはなくても、聞いたことはあるでしょう。アンネ・フランクはどんな生涯を送ったんでしょう?

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。子どもの頃から『アンネの日記』を愛読していたため、今回解説する「アンネ・フランク」についても精通している。

アンネの生きた時代

image by PIXTA / 649013

アンネ・フランクとはどのような人物か

アンネ・フランクは『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ人の少女です。

1929年6月12日、ドイツのフランクフルトで誕生。父オットー・フランク、母エーディト・フランクと3歳年上の姉マルゴット・フランクの4人家族でした。一家はそれほど敬虔なユダヤ人家庭だったわけではないようです。しかしもちろん、第二次世界大戦の混乱から逃れることはできませんでした。

アンネの生涯は短く、ナチスの犠牲となり1945年にわずか15歳で息を引き取りました。最期の地は、ドイツにあるユダヤ人強制収容所の中でした。

当時の時代背景

アンネが生きた時代、ドイツを中心にヨーロッパでは反ユダヤ勢力が拡大していました。1933年にナチスが政権を握って以降、ドイツでは国策としてユダヤ人への差別が行われるようになります。

第二次世界大戦下、このユダヤ人迫害はホロコーストとも呼ばれる大虐殺に発展。ユダヤ人であるというだけで強制収容所に送られ、厳しい労働を強いられたりガス室で殺害されたりしました。この悲惨な状況は、ドイツが降伏するまで続きます。その犠牲となった多くのユダヤ人の一人が、アンネ・フランクなのです。

隠れ家に移住する前のアンネ・フランク

image by PIXTA / 14017927

\次のページで「ドイツからオランダへ」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: