三国時代・三国志世界史中国史歴史

三国志で最も悪辣といわれた「董卓」とは、本当に悪人だったのか?その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

反董卓連合軍の挙兵

 西暦190年、董卓の暴挙に反発した袁紹・袁術などの有力者は、諸侯に反董卓の挙兵を呼びかけました。
反董卓軍は、盟主を袁紹とし、曹操・孫堅・袁術・張邈・鮑信などです。面子こそ錚々たるものですが、積極的に打って出ようとはしませんでした。諸侯は連合軍解散後のことを考えてお互いに牽制し合っていたのです。

 そんな中でも果敢に行動を起こす者もいました。孫堅と曹操です。孫堅は董卓に任命された長官達を打ち倒し、洛陽へと北上を続けていました。一方曹操は、行動しようとしない諸侯に業を煮やし、進軍を開始しました。これに対して董卓は、名将の徐栄(じょえい)を派遣し、曹操軍を打ち破ります。そしてそのまま、孫堅軍をも撃破していきました。

 西暦191年、孫堅は敗残兵を集め、陽人(ようじん)という砦に駐屯しました。董卓はこれに対して、呂布と胡軫(こしん)を派遣しましたが、孫堅は用兵の達人であり、武将の華雄(かゆう)を討ち取られるなど、敗走してしまいました。敗走した董卓はその足で、遷都を行っていた長安へと帰還します。

包囲された「董卓」は洛陽を炎上させる

image by iStockphoto

 董卓は反乱軍の挙兵を知った頃から、防衛に不利な洛陽から、自身の本拠地に近い長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を決行していました。当時わずか9歳であった献帝を連れ、兄である廃位した先帝はなんと、毒殺してしまうのです。
さらに董卓は呂布に命じて、歴代皇帝の墓を暴き、埋葬されていた財宝を全て長安に輸送してしまいました。

 そして、連合軍の追撃を防ぐため、董卓は洛陽に火をつけたのです。この時洛陽の住民達は、強引ではあったものの、長安へと引き連れていったといいます。

長安に到着した董卓は、連合軍に対峙するため、砦を建設する

image by iStockphoto

 長安へと帰還した董卓を前に、連合軍は進軍を止めてしまいます。連合軍内での利権争いにより、董卓どころではなくなってしまったのです。

 この間に董卓は、またしても悪政を敷いていきました。自らを太師(皇帝の師となり、補佐する役目)と称し、一族を次々と朝廷の高官に昇進させていきます。銅貨の五銖銭を改鋳し、貨幣価値を乱したり、長安の近くには、長安城と同じほどの高さを持った城塞を築きました。この砦には、一生涯籠城出来るよう、30年分の食料を備蓄させたといいます。

 この頃長安には、あの皇甫嵩もいました。董卓とは因縁浅からぬ『黄巾の乱』で功績を上げた武将です。
董卓が太師に就任する儀式の時には、皇甫嵩一人だけが頭を下げなかったことに気付き、「義真(皇甫嵩の字)、まだ(頭を下げないの)かな?」と改めて促しました。皇甫嵩は恭しく言葉を返し、忍従し続けたため、董卓は皇甫嵩と和解したそうです。

 ある晩董卓は、逆らった捕虜を余興として、目を抉り、舌を抜き、最後には大きな釜で彼らを煮殺してしまいました。それでも死にきれなかった者は、机や盃の間でのたうち回り命を落としていきました。董卓はそれを見て、笑い声をあげると平然と食事を続けていたといいます。

義理の親子の契りを結んだ「呂布」の裏切り

 もはや誰一人として、董卓を止める事は出来なくなっていきました。この時の董卓は、後漢の最高職のひとつである使途に「王允」(おういん)を据え、政治を任せていました。王允は若い頃に『王佐の才』(おうさのさい・仕えた主君を偉大にする才能の持ち主)と称された優れた政治家でした。
 
 しかし、董卓の残虐な振る舞いを憎み、董卓暗殺計画を進めていきました。王允が目をつけたのは、董卓の養子・呂布です。当時呂布は董卓との信頼関係が揺らいでおり、王允はそこに付け込みました。

 西暦192年、董卓は献帝の快気祝いとして、未央宮(びおうきゅう)に呼び出されました。しかしそこで待ち受けていたのは、王允の仲間でした。襲われた董卓は、護衛者である呂布を呼び出しましたが、呂布は詔(しょう・帝の命令を直接伝える文書)を取り出すと「逆賊董卓を誅殺致す!」と董卓を斬り捨てます。

 こうして、三国志最大の暴君「董卓」は最期を迎えました。

「董卓」死後、深まる乱世

 董卓の死後、その一族は皆殺しにあいました。その中には、90歳を超える董卓の母もいたといい、その討伐軍には、皇甫嵩の姿もありました。

 その後、政権を主導したのは、王允と呂布でした。王允は董卓の一族だけでなく、董卓を支持したとされる人物に関しても、厳しい制裁を与えていきました。 しかし、董卓の配下たちが長安へと奇襲をかけ、呂布は逃走、王允は殺害されてしまいます。その配下たちもまた、最終的には仲違いによって瓦解してしまいました。
 董卓死後の長安は、まさに混乱の嵐でした。皇甫嵩もまた、混迷の渦に巻き込まれる都を嘆きながら病死してしまいます。

 ここからの乱世は『魏』『呉』『蜀』と、三国が生まれ、さらに深まっていくのです。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

専横を極めた董卓は、やはり誅殺されてしまうのだな。
しかし、ここまで乱世をかき乱した董卓あったからこそ『三国志』が始まるのかもな。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: