
年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。
- 武勇に優れ、義侠心に富んだ青年時代
- 『涼州三明』の一人「段珪」という長官に、中央に推薦される
- 儒教学派の官僚と、宦官の対立により起きた『党錮の禁』
- 黄巾の乱での、「董卓」の苦渋
- 第12代霊帝が崩御、その子らを保護したことにより、強大な権力を手にする
- 三国志最大の猛将「呂布」を護衛に
- 第14代献帝を立て、中央権力を我が物にする
- 自らは相国(しょうこく)という、皇帝をも超える地位に昇格する
- 反董卓連合軍の挙兵
- 包囲された「董卓」は洛陽を炎上させる
- 長安に到着した董卓は、連合軍に対峙するため、砦を建設する
- 義理の親子の契りを結んだ「呂布」の裏切り
- 「董卓」死後、深まる乱世
- 武勇に優れた青年は、最悪の暴君に変貌させられた?
この記事の目次
ライター/Kana
年間100冊を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は暴君「董卓」について、わかりやすくまとめた。
武勇に優れ、義侠心に富んだ青年時代

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董卓の生まれた正確な年は、詳しくは伝わっていません。故郷は現在の甘粛省であり、当時、この地域は涼州(りょうしゅう)といいました。
後漢時代、この地域は羌族(きょうぞく)の侵略の被害に苦しんでおり、実質的な前線基地です。董卓は若い頃から任侠を好んだとされ、この羌族の居住地で暮らしては、その首長達と親睦を深めました。
後に董卓が漢民族の居住地に帰る際には、首長達は彼に従い、また董卓も耕作用の牛を彼らにもてなしました。この出来事で、董卓は義侠心に富んだ人物として知られるようになりました。
やがて董卓は軍に官吏(かんり・国家公務員のこと)として登用され、最初に与えられた任務は、盗賊の監督でした。当時、盗賊とは単なる物取りだけでなく、異民族の事も指しており、董卓は羌族担当だったと考えられています。
董卓が兵を統括して羌族と戦うと、羌族はその武勇をとても恐れました。董卓は腕力が非常に強く、左右どちらの手でも弓を扱うことが出来たからです。
この時の董卓の活躍は目覚ましく、拉致された住民を救い出したり、4桁に上る盗賊たちを斬ったり、捕虜にしたと言われています。
『涼州三明』の一人「段珪」という長官に、中央に推薦される

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当時、異民族討伐で知られていたのは「段珪」(だんけい)「張奐」(ちょうかん)「皇甫規」(こうほき)という3人でした。彼らは共に涼州出身で、字(あざな)に「明」の文字があったことから『涼州三明』と呼ばれていました。
そのうちの一人である「段珪」という長官が董卓を中央に推薦し、軍の兵馬担当としました。西暦161年の出来事です。その6年後、董卓は名家の子弟として皇帝直属の警備兵となりました。
後漢末期、中国地方の北方は数多くの異民族によって侵略されていました。先述した羌族もその一つです。後漢王朝はこれに対して、張奐(ちょうかん)を辺境に派遣し、討伐の指揮をとらせます。
この時、張奐の副官として羌族や、同じく侵略を行っていた匈奴(きょうど)の討伐に赴いたのが、董卓でした。この討伐の功績を持って、董卓は中央の官僚予備軍に出世していきます。この時、董卓は褒美として大量の絹をもらいますが、その全てを部下に分け与えたそうです。
儒教学派の官僚と、宦官の対立により起きた『党錮の禁』
この頃、異民族の侵略と同じくらい問題となっていたのが、宦官(皇帝の傍に使える去勢された男子)と官僚(中・上級の公務員)の対立です。当時は宦官の勢力が強く、これら宦官の多くは自らの利権の追及に専念し、汚職が蔓延していました。
こうした状況に対して、一部の官僚らが立ち上がろうとしていましたが、これに気付いた宦官は、官僚達を集団検挙し、幽閉・一切の任官を禁止しました。『党錮の禁』(とうこのきん)と呼ばれる一大政変です。この禁は、有名な『黄巾の乱』が起きた際に解かれます。追放された党人らが乱に加担する事を恐れたのです。
黄巾の乱での、「董卓」の苦渋
董卓は、その武勇によって中央に名を知られていました。功績をあげたことにより各地の盗賊討伐に派遣されます。かねてより後漢王朝に対する民衆の不満は溜まっており、異民族だけでなく、山賊や民衆蜂起も数多く起こっていました。
董卓は特に羌族に対してあてがわれており、百戦以上をこなしたとされています。
そして西暦184年、道教系の宗教『太平道』の「張角」を首領とする大反乱が起こりました。信者たちは頭に黄色い布を巻いたことから、『黄巾の乱』と呼ばれました。
後漢王朝は、各地に討伐軍を派遣します。その1人「盧植」(ろしゅく)は、陣中で賄賂の献上を断った事から宦官の怒りを買い、罷免されてしまうのです。この後任が董卓でした。ですが、この時の董卓は旗色が悪く、敗戦しました。董卓は敗戦の責を取らされ、免官されてしまいます。
この時董卓が指揮していた軍は、「皇甫嵩」(こうほすう)の率いる討伐軍に編入されました。皇甫嵩は、涼州三明の一人「皇甫規」の甥にあたります。戦乱の最中、張角は本陣で病死しました。皇甫嵩は黄巾軍の本陣に攻め入り、埋葬された遺体を掘り起こして首級を上げる大手柄を立てました。
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