世界史

三国志で最も悪辣といわれた「董卓」とは、本当に悪人だったのか?その一生を中国史マニアがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。今日は三国志最大の暴君「董卓」について、勉強していこう。帝を操り悪政を行う、都・洛陽を焼きはらう、皇族の墓を荒らすなど、暴虐なエピソードには事欠かない「董卓」だが、その生い立ちはどんなものだったのか?青年時代から、長安で殺害されるまでをわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/Kana

年間100冊を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は暴君「董卓」について、わかりやすくまとめた。

武勇に優れ、義侠心に富んだ青年時代

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 董卓の生まれた正確な年は、詳しくは伝わっていません。故郷は現在の甘粛省であり、当時、この地域は涼州(りょうしゅう)といいました。

 後漢時代、この地域は羌族(きょうぞく)の侵略の被害に苦しんでおり、実質的な前線基地です。董卓は若い頃から任侠を好んだとされ、この羌族の居住地で暮らしては、その首長達と親睦を深めました。

 後に董卓が漢民族の居住地に帰る際には、首長達は彼に従い、また董卓も耕作用の牛を彼らにもてなしました。この出来事で、董卓は義侠心に富んだ人物として知られるようになりました。

 やがて董卓は軍に官吏(かんり・国家公務員のこと)として登用され、最初に与えられた任務は、盗賊の監督でした。当時、盗賊とは単なる物取りだけでなく、異民族の事も指しており、董卓は羌族担当だったと考えられています。
 董卓が兵を統括して羌族と戦うと、羌族はその武勇をとても恐れました。董卓は腕力が非常に強く、左右どちらの手でも弓を扱うことが出来たからです。

 この時の董卓の活躍は目覚ましく、拉致された住民を救い出したり、4桁に上る盗賊たちを斬ったり、捕虜にしたと言われています。

『涼州三明』の一人「段珪」という長官に、中央に推薦される

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 当時、異民族討伐で知られていたのは「段珪」(だんけい)「張奐」(ちょうかん)「皇甫規」(こうほき)という3人でした。彼らは共に涼州出身で、字(あざな)に「明」の文字があったことから『涼州三明』と呼ばれていました。

 そのうちの一人である「段珪」という長官が董卓を中央に推薦し、軍の兵馬担当としました。西暦161年の出来事です。その6年後、董卓は名家の子弟として皇帝直属の警備兵となりました。

 後漢末期、中国地方の北方は数多くの異民族によって侵略されていました。先述した羌族もその一つです。後漢王朝はこれに対して、張奐(ちょうかん)を辺境に派遣し、討伐の指揮をとらせます。

 この時、張奐の副官として羌族や、同じく侵略を行っていた匈奴(きょうど)の討伐に赴いたのが、董卓でした。この討伐の功績を持って、董卓は中央の官僚予備軍に出世していきます。この時、董卓は褒美として大量の絹をもらいますが、その全てを部下に分け与えたそうです。

 

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 この当時の董卓は、武勇に優れた青年だったようだな。盗賊討伐でも活躍し、部下へその褒美を全て分け与えるなど、好青年な印象を受けるが、なぜ董卓は三国志最大の暴君と呼ばれるようになってしまったのだろう。

儒教学派の官僚と、宦官の対立により起きた『党錮の禁』

 この頃、異民族の侵略と同じくらい問題となっていたのが、宦官(皇帝の傍に使える去勢された男子)と官僚(中・上級の公務員)の対立です。当時は宦官の勢力が強く、これら宦官の多くは自らの利権の追及に専念し、汚職が蔓延していました。

 こうした状況に対して、一部の官僚らが立ち上がろうとしていましたが、これに気付いた宦官は、官僚達を集団検挙し、幽閉・一切の任官を禁止しました。『党錮の禁』(とうこのきん)と呼ばれる一大政変です。この禁は、有名な『黄巾の乱』が起きた際に解かれます。追放された党人らが乱に加担する事を恐れたのです。

黄巾の乱での、「董卓」の苦渋

 董卓は、その武勇によって中央に名を知られていました。功績をあげたことにより各地の盗賊討伐に派遣されます。かねてより後漢王朝に対する民衆の不満は溜まっており、異民族だけでなく、山賊や民衆蜂起も数多く起こっていました。 

 董卓は特に羌族に対してあてがわれており、百戦以上をこなしたとされています。

 そして西暦184年、道教系の宗教『太平道』の「張角」を首領とする大反乱が起こりました。信者たちは頭に黄色い布を巻いたことから、『黄巾の乱』と呼ばれました。

 後漢王朝は、各地に討伐軍を派遣します。その1人「盧植」(ろしゅく)は、陣中で賄賂の献上を断った事から宦官の怒りを買い、罷免されてしまうのです。この後任が董卓でした。ですが、この時の董卓は旗色が悪く、敗戦しました。董卓は敗戦の責を取らされ、免官されてしまいます。

 この時董卓が指揮していた軍は、「皇甫嵩」(こうほすう)の率いる討伐軍に編入されました。皇甫嵩は、涼州三明の一人「皇甫規」の甥にあたります。戦乱の最中、張角は本陣で病死しました。皇甫嵩は黄巾軍の本陣に攻め入り、埋葬された遺体を掘り起こして首級を上げる大手柄を立てました。

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 董卓が率いていた軍は、皇甫嵩(こうほすう)という武将に引き継がれ、さらには反乱終結を実現したんだな。この活躍は董卓の耳にも届いていたはずだ、この時の気持ちはいかなるものだったんだろう。

第12代霊帝が崩御、その子らを保護したことにより、強大な権力を手にする

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 『黄巾の乱』は終息しましたが、その年の冬に再び西方で羌族が主体となった反乱が起こります。この時派遣されたのが、董卓と皇甫嵩だったのです。皇甫嵩は一度罷免されますが、西暦188年、反乱軍が陳倉城(ちんそうじょう)を包囲した際に、再び犬猿の仲である二人が派遣されます。

 董卓と皇甫嵩は作戦を巡り対立していきました。そんな中、皇甫嵩が董卓の進言の逆を突き、その作戦で反乱軍に大勝してしまったのです。皇甫嵩は「董卓は全く的を射ていない」と言い放ち、董卓はまたしても美味しい所を取られてしまいました。

 そんな中、中央では一大事が起きていました。第12第霊帝が没したのです。霊帝には2人の子がおり、兄である劉弁(りゅうべん)が第13第小帝となりました。しかし同時に権力争いが起き、その最中、宦官の一人により小帝とその弟である劉協(りゅうきょう)が連れ去られる事件が起こります。

 その時追撃を行ったのが、董卓だったのです。董卓に追いつめられ、その宦官は自害してしまいます。董卓は徒歩でさまよっていた小帝と劉協を保護したあと、帰路で二人と話をしました。この時、小帝はオロオロと、満足に会話が出来なかったのに対して、劉協は一連の事情を滞りなく話したことから、董卓は劉協の賢さに気付きます。

三国志最大の猛将「呂布」を護衛に

 董卓は2人を丁重に保護し、都・洛陽に凱旋しました。皇帝の保護者として、董卓はあっという間に王朝の中枢に入ってしまったのです。しかし、この時の董卓の軍勢は3000人ほどしかいませんでした。

 中央を抑えるには不十分だと感じていた董卓は、まず小帝の叔父にあたる「何進」(かしん)の軍を自軍に編入します。何進は権力争いの最中に、罠に嵌められ殺されていました。

 次に目をつけたのが、「丁原」(ていげん)です。丁原は騎馬の扱いに長けた名称であり、その暗殺には失敗してしまいます。しかし、丁原の部下である「呂布」(りょふ)に働きかけました。呂布は三国志最強の武勇を持ち、弓馬に優れた『飛将』と称される英傑でした。呂布は董卓の誘いに乗ると、丁原を殺害し、帰順、董卓の養子となります。

 そして丁原の部下も董卓の手中に納まったのです。董卓は自身に向けられる遺恨に気付いていたのか、呂布を護衛として常に傍に置いていたと言われています。

第14代献帝を立て、中央権力を我が物にする

 このようにあっという間に権力を手に入れた董卓は、宰相を罷免し、自らがその地位につきました。そして、ついに大きな一手を打ちました。董卓は皇帝廃立を宣言、小帝は廃位され、その弟・劉協を第14代献帝としたのです。宰相となった董卓は、政権の基盤を築くため、『党錮の禁』で排斥・処刑されてしまった名士を取り立てていきます。

 その中には、将軍時代から付き従っていた地元の優秀な部曲(私兵のこと)達も入っており、武官としていました。董卓は本来、一介の将軍です。そんな董卓が中央に入るなど、異常なこと。これも王朝がまともに機能出来ていなかった乱世だからこそ、起こりえたことでしょう。

自らは相国(しょうこく)という、皇帝をも超える地位に昇格する

 董卓はついに、臣下としての最高位、『相国』(しょうこく)と呼ばれる地位につきます。

 相国とは、古来の中国で劉邦に仕えた名宰相「蕭何」(しょうか)と、それに次ぐ功臣であった「曹参」(そうさん)が任命されて以来、この2人だけのもの、というほどに位の高い地位です。実際、董卓が相国に昇格するまで、永久欠番となっていた称号でした。

 これ以来董卓は、朝廷で靴を履いたまま昇殿し、献帝に謁見する際に、名も名乗らず、帯刀すらも許されていました。董卓はもはや、皇帝以上の力を持っていたのです。

 都・洛陽では富豪を襲って金品・財宝を奪い、陽城(ようじょう)という土地では、祭りに参加していた住民を皆殺しにしました。婦女を捕らえては兵士の娼婦にしてしまい、凱旋する際には、殺した人間の首を車に掛けて巡行していました。刑罰を厳しくして、些細なことでも必ず報復したため、人々は安全を保つことが出来ませんでした。董卓は、暴虐の限りを尽くし、暴君へと変貌していきます。

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ついに董卓は、皇帝を超える力を持ってしまったのだな。暴虐の限りを尽くし、暴君へと変貌していく…。武勇に優れ、義侠心に富んだ青年はなぜここまで変貌してしまったのだろう、また、董卓を止める者はいなかったのか?董卓の悪政はまだまだ続いていくようだ。

反董卓連合軍の挙兵

 西暦190年、董卓の暴挙に反発した袁紹・袁術などの有力者は、諸侯に反董卓の挙兵を呼びかけました。
反董卓軍は、盟主を袁紹とし、曹操・孫堅・袁術・張邈・鮑信などです。面子こそ錚々たるものですが、積極的に打って出ようとはしませんでした。諸侯は連合軍解散後のことを考えてお互いに牽制し合っていたのです。

 そんな中でも果敢に行動を起こす者もいました。孫堅と曹操です。孫堅は董卓に任命された長官達を打ち倒し、洛陽へと北上を続けていました。一方曹操は、行動しようとしない諸侯に業を煮やし、進軍を開始しました。これに対して董卓は、名将の徐栄(じょえい)を派遣し、曹操軍を打ち破ります。そしてそのまま、孫堅軍をも撃破していきました。

 西暦191年、孫堅は敗残兵を集め、陽人(ようじん)という砦に駐屯しました。董卓はこれに対して、呂布と胡軫(こしん)を派遣しましたが、孫堅は用兵の達人であり、武将の華雄(かゆう)を討ち取られるなど、敗走してしまいました。敗走した董卓はその足で、遷都を行っていた長安へと帰還します。

包囲された「董卓」は洛陽を炎上させる

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 董卓は反乱軍の挙兵を知った頃から、防衛に不利な洛陽から、自身の本拠地に近い長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を決行していました。当時わずか9歳であった献帝を連れ、兄である廃位した先帝はなんと、毒殺してしまうのです。
さらに董卓は呂布に命じて、歴代皇帝の墓を暴き、埋葬されていた財宝を全て長安に輸送してしまいました。

 そして、連合軍の追撃を防ぐため、董卓は洛陽に火をつけたのです。この時洛陽の住民達は、強引ではあったものの、長安へと引き連れていったといいます。

長安に到着した董卓は、連合軍に対峙するため、砦を建設する

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 長安へと帰還した董卓を前に、連合軍は進軍を止めてしまいます。連合軍内での利権争いにより、董卓どころではなくなってしまったのです。

 この間に董卓は、またしても悪政を敷いていきました。自らを太師(皇帝の師となり、補佐する役目)と称し、一族を次々と朝廷の高官に昇進させていきます。銅貨の五銖銭を改鋳し、貨幣価値を乱したり、長安の近くには、長安城と同じほどの高さを持った城塞を築きました。この砦には、一生涯籠城出来るよう、30年分の食料を備蓄させたといいます。

 この頃長安には、あの皇甫嵩もいました。董卓とは因縁浅からぬ『黄巾の乱』で功績を上げた武将です。
董卓が太師に就任する儀式の時には、皇甫嵩一人だけが頭を下げなかったことに気付き、「義真(皇甫嵩の字)、まだ(頭を下げないの)かな?」と改めて促しました。皇甫嵩は恭しく言葉を返し、忍従し続けたため、董卓は皇甫嵩と和解したそうです。

 ある晩董卓は、逆らった捕虜を余興として、目を抉り、舌を抜き、最後には大きな釜で彼らを煮殺してしまいました。それでも死にきれなかった者は、机や盃の間でのたうち回り命を落としていきました。董卓はそれを見て、笑い声をあげると平然と食事を続けていたといいます。

義理の親子の契りを結んだ「呂布」の裏切り

 もはや誰一人として、董卓を止める事は出来なくなっていきました。この時の董卓は、後漢の最高職のひとつである使途に「王允」(おういん)を据え、政治を任せていました。王允は若い頃に『王佐の才』(おうさのさい・仕えた主君を偉大にする才能の持ち主)と称された優れた政治家でした。
 
 しかし、董卓の残虐な振る舞いを憎み、董卓暗殺計画を進めていきました。王允が目をつけたのは、董卓の養子・呂布です。当時呂布は董卓との信頼関係が揺らいでおり、王允はそこに付け込みました。

 西暦192年、董卓は献帝の快気祝いとして、未央宮(びおうきゅう)に呼び出されました。しかしそこで待ち受けていたのは、王允の仲間でした。襲われた董卓は、護衛者である呂布を呼び出しましたが、呂布は詔(しょう・帝の命令を直接伝える文書)を取り出すと「逆賊董卓を誅殺致す!」と董卓を斬り捨てます。

 こうして、三国志最大の暴君「董卓」は最期を迎えました。

「董卓」死後、深まる乱世

 董卓の死後、その一族は皆殺しにあいました。その中には、90歳を超える董卓の母もいたといい、その討伐軍には、皇甫嵩の姿もありました。

 その後、政権を主導したのは、王允と呂布でした。王允は董卓の一族だけでなく、董卓を支持したとされる人物に関しても、厳しい制裁を与えていきました。 しかし、董卓の配下たちが長安へと奇襲をかけ、呂布は逃走、王允は殺害されてしまいます。その配下たちもまた、最終的には仲違いによって瓦解してしまいました。
 董卓死後の長安は、まさに混乱の嵐でした。皇甫嵩もまた、混迷の渦に巻き込まれる都を嘆きながら病死してしまいます。

 ここからの乱世は『魏』『呉』『蜀』と、三国が生まれ、さらに深まっていくのです。

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専横を極めた董卓は、やはり誅殺されてしまうのだな。
しかし、ここまで乱世をかき乱した董卓あったからこそ『三国志』が始まるのかもな。

武勇に優れた青年は、最悪の暴君に変貌させられた?

『三国志』は三国時代終焉後間もなく、晋によって記された歴史書です。
魏の後継ともいえる晋にとって董卓は、君主・曹操の最初にして最大の敵として殊更悪く描かれたのかもしれません。

確かに董卓は、暴虐な振る舞いをしていたのでしょう。
敵に対しては一切の優しさも見せず、圧倒的な武力で支配していったと思います。

しかし、拉致された住民を救い出す、自身の褒美を部下に分け与える、炎上させた洛陽の民は、強引とはいえ長安まで連れていったことは事実でしょう。
第14代献帝を擁立した後は、遷都の際も守り抜き(董卓自身がその座につこうとはしなかった)、その最期は献帝の快気祝いと騙されてしまう、などどこかに人間らしい部分もあったのではないかと思います。

『暴君・董卓』は非常に魅力的な人物です。
時代が違えば、主君が違えば、彼もまた英雄の一人となっていたことでしょう。

『英雄・董卓』としての一面も、見てみたかったものです。

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