安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

数少ない播州出身の偉人「黒田官兵衛」を歴女が5分で徹底わかりやすく解説!歴史的事件とは無縁なことで有名?な播州の軍師とは

4-2、関が原前夜の官兵衛は九州でこっそり挙兵

慶長5年(1600年)官兵衛は九州に帰り、中津城の留守居役をしていましたが、石田三成の挙兵の知らせを聞き、中津城の金蔵を開いて座敷に銭をてんこ盛りにして、その金を募集に応じて来た人たちに官兵衛が自ら一人一人に配って9000人の兵を雇用、即席に手勢を作りました。このとき二度並びした人にも文句を言わずに支度金を与えた太っ腹な話は有名。

そして大友義統が豊後に攻め込んで細川忠興の飛び地を攻撃し、城を守っている細川家臣からの援軍要請で出陣したのをきっかけに、3ヶ月あまりで約7つの城を落とし、その後は鍋島、加藤清正も参戦して合計4万の軍勢で島津討伐に向かい、11月12日に肥後国の水俣まで進軍するも、家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受けたので、軍を退いて解散に。

4-3、なんと息子長政の大活躍で関が原合戦は半日で終了し、官兵衛の九州制圧も中途に

官兵衛が九州で寄せ集め軍を指揮してこつこつと城を攻め落としていたのは、関が原合戦が長引くと踏んで、その間に加藤清正と連携して九州での勢力拡大を狙ったものだったらしい。

しかし関が原合戦でがんばっていたのは、官兵衛の長男長政でした。合戦で活躍したのはもちろんのこと、小早川秀秋や吉川広家などの諸将の裏切りの交渉役まで努めたので、東軍の勝利への一番の功労者とされて、筑前国名島52万5千石加増で黒田家は大大名に。

官兵衛は慶長5年(1600年)12月、家康に呼ばれて大坂へ赴き、息子長政の働き共々感謝されて加禄を提示されますが、隠居を理由にすべて辞退。

なんというか、潔いまでの権力欲、物欲のなさ、息子の活躍で大大名になるとはさすがの官兵衛も予想したでしょうか。

4-4、福崎を福岡と改名し、福岡城を築城したのが最後の大仕事だった

image by PIXTA / 19723620

慶長6年(1601年)1月下旬、官兵衛は筑前名島城へ帰城したが、名島城は52万5千石にしては規模が小さいので、新たに那珂郡福崎の地に黒田の本城を築くことに。九州随一の商売の都である博多の近くにある福崎を、祖父のいた備前福岡にちなんで福岡と改名して、低い丘陵を利用した壮大な規模の平山城の福岡城を築城。これが官兵衛最後の大仕事。

官兵衛は、その後上洛して伏見屋敷などで過ごしましたが病気がちとなり、慶長9年3月20日(1604年4月19日)に京都伏見屋敷で死去。享年59歳。

官兵衛は病床に家臣たちが見舞いに来ても態度が冷たく、暴言を吐く体たらくで息子の長政がたしなめると、家臣たちが自分を見限って息子に尽くすためにということ、自分が死んだときに家臣たちが殉死をしないための気遣いだ、ちゃんと理由があってのことだと話したそう。長政への遺言も自分の葬式などについても、華美に行うなとしっかりと指示した後に亡くなったなんて、さすがオールマイティーの軍師らしい最期と言えますね。

辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じて胸に置き、自らの葬式をキリスト教式で行うよう指示したというのは、秀吉の伴天連追放令のとき、棄教したはずだけど信仰は捨てていなかったということでしょう。

軍師どころか築城も得意な智将だった黒田官兵衛

黒田官兵衛は、自ら槍や刀をもって先陣を切って突っ走り軍功を挙げるタイプではなく、熟考して戦略を立ててその通りに軍勢を動かして勝利する、敵に条件を提示して説得し和議に応じるなどの戦略家タイプの武将でした。家臣たちも愛情を持って育て上げた人ばかりで、色々あった主君小寺氏の息子も面倒を見ているし、人間関係も大事にする人なので調略も巧い、おまけに築城も出来、教養もある人で妻以外の女性もいなかった、歴女としては文句のつけようもありません。

非常に頭が良いけれど、キレッキレの剃刀タイプではなく、なるほどと納得させる説得力があり、この人に任せれば安心と敵でさえ信頼できる人だったのでしょう。ただ惜しまれるのは、本能寺の変の知らせを受けたときに、(おそらく)うっかり秀吉の本心を口に出して言ったことで、秀吉に警戒されたこと。あのときに黙っていればどうなったか、それと関が原合戦が長引いていれば九州はどうなったか、そしてあと20年ほど長生きしていれば大坂冬の陣は起こったでしょうか。

この時代としては長生きかもしれないけれど、官兵衛と言い加藤清正といい、この世代の名だたる武将たちが家康以外はほぼ一斉に同じ頃に亡くなったのは、返す返すも残念ですよね。

1 2 3 4
Share: