安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

数少ない播州出身の偉人「黒田官兵衛」を歴女が5分で徹底わかりやすく解説!歴史的事件とは無縁なことで有名?な播州の軍師とは

3-2、山崎の合戦で秀吉勝利、官兵衛は秀吉の武将として活躍、大名に

官兵衛は山崎合戦では天王山に陣をしいて明智軍と戦闘、その後は毛利、宇喜多氏と国境線について安国寺恵瓊と交渉したり、天正11年(1583年)、大坂城築城のための縄張りに当たりました

官兵衛の得意なのは、少人数でのゲリラ戦で大軍の攻撃を撃退すること、調略や交渉、そして城の築城と、秀吉にとってはオールマイティーで小回りの利く役に立つ人材だったはず。

官兵衛は天正12年(1584年)7月、播磨国宍粟郡を与えられて5万石の大名に。

3-3、官兵衛、四国平定に加わり、その後キリスト教に入信

天正13年(1585年)頃、官兵衛は四国攻めで活躍しました。讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わって、先鋒になって諸城を陥落させ、囮を見破り四国の梟雄長宗我部元親の策略を打破したことも。そして阿波国の岩倉城を攻略後、長宗我部軍は撤退して降伏。官兵衛はこの頃、高山右近や蒲生氏郷らと親交があり、以前から興味を持っていたキリスト教の洗礼を受けて入信、洗礼名はシメオン

3-4、官兵衛、その後も九州平定に大活躍、豊前の国12万石の大名に

image by PIXTA / 46363854

官兵衛は天正14年(1586年)、従五位下、勘解由次官に叙任(大名の官位)。10月の大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として豊前国に赴き、数々の城を陥落させ、翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて島津義久の軍勢と戦って戦勝に貢献しています。

そして九州平定後の天正15年(1587年)7月3日、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(そのうち宇佐郡半郡は大友吉統の領地)の約12万石をもらい、中津城を築城開始することに。
7月には肥後の国の国人一揆の鎮圧に駆けつけるが、これが豊前の国も巻き込んだ大規模な反乱となったので官兵衛得意の持久作戦を行い、徐々に鎮圧。

3-5、官兵衛、嫡男長政に後を譲り隠居して秀吉側近に

天正17年(1589年)5月、官兵衛は黒田家の家督を嫡男の長政に譲った後、秀吉の側近として仕えることに。完成した中津城は長政に任せて、聚楽第付近の猪熊の屋敷、伏見城下の屋敷や天満の大坂屋敷を拠点に。そして天正18年(1590年)の小田原征伐では、官兵衛は北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得、無血開城させました

秀吉による高評価と官兵衛の反応は

秀吉は生まれながらの武士ではないため、漢籍などの武士としての教養はありませんでした。しかし頭が良いことは間違いないので、耳学問で知識を会得するのが得意だったよう。なので、お伽衆という、足利義昭や織田有楽斎なども含めた教養のある元大名などを側に集めて、色々な話を聞きおしゃべりするのが楽しみだったようです。
そのなかで、秀吉以外に誰が天下をとるか、どの大名がその器量を持っているかという話が出たときに、秀吉はずばりと、「官兵衛だ」あれに100万石もやれば、さっさと天下をとってしまうと話したというのは有名。
これを聞いた官兵衛の反応は、ちょっとどきっとして身の危険も感じたらしく、まだ50歳前と言うのにあっさりと長政に家督を譲ってさっさと隠居、秀吉にそんな野心はないとアピールしたんでしょうね。

3-6、文禄、慶長の役では活躍するも石田三成らと対立、秀吉の怒りも買う

文禄元年(1592年)からの文禄の役、慶長2年(1597年)からの慶長の役には、官兵衛は名護屋城の縄張りを任され、朝鮮半島にも渡って戦ったものの他の多くの武将と同じく、秀吉の怒りを買ったり、石田三成らと対立という結果に。
官兵衛は頭を丸めて如水と号し、秀吉の怒りで死を覚悟したが結局は許されることになりました。

4-1、秀吉死後、官兵衛の行動は

そして慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去。官兵衛は吉川広家に宛てた手紙に、「秀吉の死去で遠からず天下統一の覇権のための最後の争いが起きるだろう」と予想。官兵衛は12月に九州から上洛、伏見屋敷で情勢を伺っていたのですね。
そして徳川家康と石田三成との対立があからさまになって来ると、官兵衛は最初から家康側に立ち、息子長政、加藤清正らにも家康側に付くよう進言したということ。

慶長5年(1600年)、息子長政は、家康の姪で養女の保科家の栄姫と結婚、秀吉肝いりで結婚した蜂須賀家の娘と離婚してまでの再婚は、かなり露骨な家康寄り宣言では。

\次のページで「4-2、関が原前夜の官兵衛は九州でこっそり挙兵」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: