今回は、豊臣秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛です。黒田官兵衛はもともとは播州の侍ですが、秀吉に仕えて戦略顧問として活躍し、息子長政は関が原での戦功で筑前の国福岡藩の大大名となって黒田家は江戸時代も続いたんです。

キリシタンでもあったという黒田官兵衛を、大河ドラマになるずっと前から興味津々だったというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。歴史上の有能、賢いといわれた人物に目がなく、秀吉に一目置かれ恐れられたという黒田官兵衛には昔から注目。著名人の出身者皆無な姫路において、唯一貴重な偉人黒田官兵衛について今回5分でわかるようまとめた。

1-1、黒田官兵衛は播州姫路の出身

Yoshitaka Kuroda.jpg
By 不明 - 崇福寺(そうふくじ)所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

黒田家の父祖は「寛永諸家系図伝」などでは、近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身になっているものの、播磨国多可郡黒田庄(現・兵庫県西脇市)出身という説もあり、地元の寺には、播磨黒田氏に関する系図、黒田職隆、黒田重隆の位牌も伝わっているということ。

黒田家についてはっきりわかっているのは祖父の代からで、官兵衛祖父は若い頃、山陽地方随一の商業都市だった備前国の福岡(現・岡山県瀬戸内市長船町)に在住していましたが、大永5年(1525年)に備前から播磨国に移って、姫路にある広峯神社の神官・井口太夫とこの神社に伝わる目薬を売ることで財を成して、播磨の国人に。
はじめは龍野城主の赤松政秀に仕えたが、次に御着城主の小寺政職(まさもと)に仕え、息子で官兵衛父である職隆(もとたか)が小寺氏に重用されて、天文14年(1545年)には姫路城城代に。そして父職隆は主君政職の養女(明石正風娘)と結婚、小寺姓を与えられて小寺家の家老に。
この小寺家は播磨守護の赤松晴政重臣で、御着城(現、姫路市東部に)が主城で播磨平野に勢力を持っていた家ですね。
官兵衛は天文15年11月29日(1546年12月22日)、職隆の嫡男として姫路城で誕生、幼名は万吉。弟3人と妹が3人。

1-2、官兵衛は通称で、名乗りは孝高または如水

諱(いみな、実名のこと)は、書類でサインする程度で通称としては用いられないもの。官兵衛も最初は祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のちに孝高というように変わっています。同時代ではおそらく通称の黒田 官兵衛と呼ばれることが多く、最晩年に剃髪した後は 如水(じょすい)。

本性は黒田だけれど、主君から小寺を名乗るよう言われているので、官兵衛祖父、父とも信頼厚かったようですね。

2-1、若き官兵衛、父と共に武将として歩み出し家督を継いで結婚

image by PIXTA / 12102794

官兵衛は、永禄4年(1561年)に小寺政職の近習に。そして永禄5年(1562年)には、父職隆と共に土豪を討ったのが初陣で、この年から小寺官兵衛に。
永禄10年(1567年)頃には、官兵衛は父から家督と家老職を譲られて、小寺政職の姪にあたる播磨国志方城主の櫛橋伊定(くしはし これさだ)の娘・光(てる、またはみつ)と結婚し、姫路城代に就任。官兵衛父はまだ40代半ばながら息子の官兵衛の方が器量が上とみて、さっさと隠居。

そして永禄11年(1568年)以後、足利義昭が織田信長に上洛を要請し、室町幕府15代将軍に就任した後、毛利元就と尼子氏の残党が衝突し、元就が義昭に救援を要請したため、秀吉率いる2万の兵が差し向けられたのですが、義昭と手を組んでいた赤松政秀が、官兵衛の姫路城に3,000の兵を率いて侵攻。官兵衛はわずか300の兵で奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたって戦った後、三木通秋の援軍などが来て撃退に成功。

播州にも信長、反信長の波が押し寄せて来たのでした。

2-2、官兵衛、主君に信長に付くよう進言

天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君の小寺政職に、長篠の戦いで武田勝頼を破った織田氏への臣従を進言しました。官兵衛は7月には秀吉の取次で岐阜城まで出向いて信長に謁見して、信長から名刀「圧切長谷部」を拝領。そして年明けには官兵衛の主君の小寺政職と、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らが揃って上洛、信長に謁見。

この頃の官兵衛は近畿地方の端っこ在住で、しかも陪臣で主君小寺政職の下にありながら、尾張の信長の先取性を見抜き接触していたのですね。

2-3、西から毛利軍が播磨に押し寄せるなか、官兵衛は東の信長に付くことに

天正5年(1577年)5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟を結び、浦宗勝が三木通秋の所領の姫路西部の英賀に上陸。官兵衛は500の兵力で奇襲をしかけて、5,000の兵を撃退(英賀合戦)。

この後、官兵衛は長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ。
そして10月になると信長は秀吉を播磨に進駐させたので、官兵衛は一族を父の隠居城である南西の国府山城に移らせて、自分の居城であった姫路城本丸を秀吉に提供。官兵衛は姫路城の二の丸に住み、秀吉の参謀に。

この後、官兵衛と秀吉は播磨と但馬平定の戦いを開始。竹田城、上月城、佐用城、三木城の合戦が繰り広げられました。

\次のページで「2-4、官兵衛、荒木村重の造反で説得のために有岡城に乗り込むが幽閉される」を解説!/

2-4、官兵衛、荒木村重の造反で説得のために有岡城に乗り込むが幽閉される

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天正6年(1578年)織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が、突如信長に対して謀反を起こして、有岡城に籠城。このとき、官兵衛主君の小寺政職も村重に呼応しようとしたために、孝高は旧知の村重を翻意させようと有岡城に乗り込んだが、土牢に幽閉されてしまい、官兵衛不在の姫路はパニック状態に、しかし官兵衛父のがんばりでなんとか保持。

そして1年後の天正7年(1579年)有岡城は開城し、村重は逃亡、村重の家族は惨殺の憂き目に。官兵衛はひそかに様子をうかがっていた重臣の栗山利安らに土牢から救出されたが、皮膚病を患い足が不自由になったという。

2-5、織田家の人質だった官兵衛嫡子の松寿丸はあわや殺されるところを助かる

信長は有岡城に入ったきりの官兵衛も荒木村重の味方に付いたと判断して、人質の松寿丸を殺せと命令。しかし秀吉の軍師として官兵衛の友人でもあった竹中半兵衛重治の独断で、信長には松寿丸を殺したように見せかけ、自分の家臣のところで密かに保護。
竹中半兵衛は2年かかった干殺しで有名な三木城攻防の陣中ですでに死去していましたが、官兵衛が救出された後に信長は松寿丸が無事と知ってほっとしたという話。もちろん黒田家の人々は、竹中家への恩は忘れず家紋をもらったりその後も交流が。

官兵衛が人質となっていた間、隠居していた父が姫路城の留守を守り、叔父や弟たちが秀吉への忠誠を誓い、秀吉は黒田家に対する信頼を失うようなことがなかったというのは、官兵衛父も意外にしっかりした武将だったということでしょう。

2-6、官兵衛の主君小寺氏は滅びて、官兵衛は秀吉傘下の武将に

天正8年(1580年)、官兵衛の主君であった小寺政職は荒木村重に付いたり信長に寝返ったりという態度だったので、信長の嫡男の織田信忠によって討伐されて鞆の浦へあっさり逃亡し、大名としての小寺氏は終了。
官兵衛は織田家臣として秀吉の与力となり、それまでの小寺姓をやめて黒田に復姓。秀吉は三木城を拠点としようとしましたが、官兵衛は姫路城が播州統治の適地だと進言。

そして、秀吉に大々的な姫路城普請を命じられて、官兵衛は揖東郡福井庄(姫路の西何部網干周辺)に1万石拝領。 その後、秀吉について、鳥取城の兵糧攻め、淡路島の由良城攻めなどにも関わっています。

2-7、官兵衛、秀吉と共に備中高松城水攻めに

秀吉は姫路城から中国征伐に出かけ、天正10年(1582年)、毛利氏の武将の清水宗治の備中高松城攻略で、巨大な堤防を築いて水攻めを画策、しかし上手く水をせき止められなかったので、官兵衛が船に土のうを積んで底に穴を開けて沈めるアイデアを出して成功させたという話。

秀吉は城攻めのときに、兵糧攻めとか水攻めとか長期戦になっても戦闘で死傷者が出ないような戦法を好んだそう。これは、秀吉本人が死人を出したくないという以上に、本人が小男で非力なので白兵戦や鉄砲が苦手だったからかもという想像も出来ますが、官兵衛もキリシタンであったからか、同じように調略や説得も用いて死傷者を減らす戦法が得意。

3-1、本能寺の変が起こり、秀吉真っ青、そのとき官兵衛は

高松城攻めの最中の6月2日、京都で明智光秀により本能寺の変が起こり、信長が横死。備中の秀吉の陣では、明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえてこの衝撃のニュースをゲット。このとき官兵衛は動転する秀吉に対し、「今こそ天下取りのチャンス」とささやき、実はその気があった秀吉に心を読まれたように思われてドン引きされ、その後も警戒されたと言います。

とにかく毛利輝元に信長横死のニュースが伝わらない前に、さっさと和睦して、光秀を討つ準備に入ることに決定。秀吉は中国大返しという3日で姫路城に帰城するという大技を敢行へ。

尚、和議が整い秀吉軍が引き上げる頃には、毛利方にも信長横死の知らせが届いていたけれど、秀吉に恩を売るためにあえて追走はしなかった、または水攻めの後で土がどろどろ状態で追えなかったという、ふたつの説が。

\次のページで「3-2、山崎の合戦で秀吉勝利、官兵衛は秀吉の武将として活躍、大名に」を解説!/

3-2、山崎の合戦で秀吉勝利、官兵衛は秀吉の武将として活躍、大名に

官兵衛は山崎合戦では天王山に陣をしいて明智軍と戦闘、その後は毛利、宇喜多氏と国境線について安国寺恵瓊と交渉したり、天正11年(1583年)、大坂城築城のための縄張りに当たりました

官兵衛の得意なのは、少人数でのゲリラ戦で大軍の攻撃を撃退すること、調略や交渉、そして城の築城と、秀吉にとってはオールマイティーで小回りの利く役に立つ人材だったはず。

官兵衛は天正12年(1584年)7月、播磨国宍粟郡を与えられて5万石の大名に。

3-3、官兵衛、四国平定に加わり、その後キリスト教に入信

天正13年(1585年)頃、官兵衛は四国攻めで活躍しました。讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わって、先鋒になって諸城を陥落させ、囮を見破り四国の梟雄長宗我部元親の策略を打破したことも。そして阿波国の岩倉城を攻略後、長宗我部軍は撤退して降伏。官兵衛はこの頃、高山右近や蒲生氏郷らと親交があり、以前から興味を持っていたキリスト教の洗礼を受けて入信、洗礼名はシメオン

3-4、官兵衛、その後も九州平定に大活躍、豊前の国12万石の大名に

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官兵衛は天正14年(1586年)、従五位下、勘解由次官に叙任(大名の官位)。10月の大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として豊前国に赴き、数々の城を陥落させ、翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて島津義久の軍勢と戦って戦勝に貢献しています。

そして九州平定後の天正15年(1587年)7月3日、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(そのうち宇佐郡半郡は大友吉統の領地)の約12万石をもらい、中津城を築城開始することに。
7月には肥後の国の国人一揆の鎮圧に駆けつけるが、これが豊前の国も巻き込んだ大規模な反乱となったので官兵衛得意の持久作戦を行い、徐々に鎮圧。

3-5、官兵衛、嫡男長政に後を譲り隠居して秀吉側近に

天正17年(1589年)5月、官兵衛は黒田家の家督を嫡男の長政に譲った後、秀吉の側近として仕えることに。完成した中津城は長政に任せて、聚楽第付近の猪熊の屋敷、伏見城下の屋敷や天満の大坂屋敷を拠点に。そして天正18年(1590年)の小田原征伐では、官兵衛は北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得、無血開城させました

秀吉による高評価と官兵衛の反応は

秀吉は生まれながらの武士ではないため、漢籍などの武士としての教養はありませんでした。しかし頭が良いことは間違いないので、耳学問で知識を会得するのが得意だったよう。なので、お伽衆という、足利義昭や織田有楽斎なども含めた教養のある元大名などを側に集めて、色々な話を聞きおしゃべりするのが楽しみだったようです。
そのなかで、秀吉以外に誰が天下をとるか、どの大名がその器量を持っているかという話が出たときに、秀吉はずばりと、「官兵衛だ」あれに100万石もやれば、さっさと天下をとってしまうと話したというのは有名。
これを聞いた官兵衛の反応は、ちょっとどきっとして身の危険も感じたらしく、まだ50歳前と言うのにあっさりと長政に家督を譲ってさっさと隠居、秀吉にそんな野心はないとアピールしたんでしょうね。

3-6、文禄、慶長の役では活躍するも石田三成らと対立、秀吉の怒りも買う

文禄元年(1592年)からの文禄の役、慶長2年(1597年)からの慶長の役には、官兵衛は名護屋城の縄張りを任され、朝鮮半島にも渡って戦ったものの他の多くの武将と同じく、秀吉の怒りを買ったり、石田三成らと対立という結果に。
官兵衛は頭を丸めて如水と号し、秀吉の怒りで死を覚悟したが結局は許されることになりました。

4-1、秀吉死後、官兵衛の行動は

そして慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去。官兵衛は吉川広家に宛てた手紙に、「秀吉の死去で遠からず天下統一の覇権のための最後の争いが起きるだろう」と予想。官兵衛は12月に九州から上洛、伏見屋敷で情勢を伺っていたのですね。
そして徳川家康と石田三成との対立があからさまになって来ると、官兵衛は最初から家康側に立ち、息子長政、加藤清正らにも家康側に付くよう進言したということ。

慶長5年(1600年)、息子長政は、家康の姪で養女の保科家の栄姫と結婚、秀吉肝いりで結婚した蜂須賀家の娘と離婚してまでの再婚は、かなり露骨な家康寄り宣言では。

\次のページで「4-2、関が原前夜の官兵衛は九州でこっそり挙兵」を解説!/

4-2、関が原前夜の官兵衛は九州でこっそり挙兵

慶長5年(1600年)官兵衛は九州に帰り、中津城の留守居役をしていましたが、石田三成の挙兵の知らせを聞き、中津城の金蔵を開いて座敷に銭をてんこ盛りにして、その金を募集に応じて来た人たちに官兵衛が自ら一人一人に配って9000人の兵を雇用、即席に手勢を作りました。このとき二度並びした人にも文句を言わずに支度金を与えた太っ腹な話は有名。

そして大友義統が豊後に攻め込んで細川忠興の飛び地を攻撃し、城を守っている細川家臣からの援軍要請で出陣したのをきっかけに、3ヶ月あまりで約7つの城を落とし、その後は鍋島、加藤清正も参戦して合計4万の軍勢で島津討伐に向かい、11月12日に肥後国の水俣まで進軍するも、家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受けたので、軍を退いて解散に。

4-3、なんと息子長政の大活躍で関が原合戦は半日で終了し、官兵衛の九州制圧も中途に

官兵衛が九州で寄せ集め軍を指揮してこつこつと城を攻め落としていたのは、関が原合戦が長引くと踏んで、その間に加藤清正と連携して九州での勢力拡大を狙ったものだったらしい。

しかし関が原合戦でがんばっていたのは、官兵衛の長男長政でした。合戦で活躍したのはもちろんのこと、小早川秀秋や吉川広家などの諸将の裏切りの交渉役まで努めたので、東軍の勝利への一番の功労者とされて、筑前国名島52万5千石加増で黒田家は大大名に。

官兵衛は慶長5年(1600年)12月、家康に呼ばれて大坂へ赴き、息子長政の働き共々感謝されて加禄を提示されますが、隠居を理由にすべて辞退。

なんというか、潔いまでの権力欲、物欲のなさ、息子の活躍で大大名になるとはさすがの官兵衛も予想したでしょうか。

4-4、福崎を福岡と改名し、福岡城を築城したのが最後の大仕事だった

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慶長6年(1601年)1月下旬、官兵衛は筑前名島城へ帰城したが、名島城は52万5千石にしては規模が小さいので、新たに那珂郡福崎の地に黒田の本城を築くことに。九州随一の商売の都である博多の近くにある福崎を、祖父のいた備前福岡にちなんで福岡と改名して、低い丘陵を利用した壮大な規模の平山城の福岡城を築城。これが官兵衛最後の大仕事。

官兵衛は、その後上洛して伏見屋敷などで過ごしましたが病気がちとなり、慶長9年3月20日(1604年4月19日)に京都伏見屋敷で死去。享年59歳。

官兵衛は病床に家臣たちが見舞いに来ても態度が冷たく、暴言を吐く体たらくで息子の長政がたしなめると、家臣たちが自分を見限って息子に尽くすためにということ、自分が死んだときに家臣たちが殉死をしないための気遣いだ、ちゃんと理由があってのことだと話したそう。長政への遺言も自分の葬式などについても、華美に行うなとしっかりと指示した後に亡くなったなんて、さすがオールマイティーの軍師らしい最期と言えますね。

辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じて胸に置き、自らの葬式をキリスト教式で行うよう指示したというのは、秀吉の伴天連追放令のとき、棄教したはずだけど信仰は捨てていなかったということでしょう。

軍師どころか築城も得意な智将だった黒田官兵衛

黒田官兵衛は、自ら槍や刀をもって先陣を切って突っ走り軍功を挙げるタイプではなく、熟考して戦略を立ててその通りに軍勢を動かして勝利する、敵に条件を提示して説得し和議に応じるなどの戦略家タイプの武将でした。家臣たちも愛情を持って育て上げた人ばかりで、色々あった主君小寺氏の息子も面倒を見ているし、人間関係も大事にする人なので調略も巧い、おまけに築城も出来、教養もある人で妻以外の女性もいなかった、歴女としては文句のつけようもありません。

非常に頭が良いけれど、キレッキレの剃刀タイプではなく、なるほどと納得させる説得力があり、この人に任せれば安心と敵でさえ信頼できる人だったのでしょう。ただ惜しまれるのは、本能寺の変の知らせを受けたときに、(おそらく)うっかり秀吉の本心を口に出して言ったことで、秀吉に警戒されたこと。あのときに黙っていればどうなったか、それと関が原合戦が長引いていれば九州はどうなったか、そしてあと20年ほど長生きしていれば大坂冬の陣は起こったでしょうか。

この時代としては長生きかもしれないけれど、官兵衛と言い加藤清正といい、この世代の名だたる武将たちが家康以外はほぼ一斉に同じ頃に亡くなったのは、返す返すも残念ですよね。

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数少ない播州出身の偉人「黒田官兵衛」を歴女が5分で徹底わかりやすく解説!歴史的事件とは無縁なことで有名?な播州の軍師とは

今回は、豊臣秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛です。黒田官兵衛はもともとは播州の侍ですが、秀吉に仕えて戦略顧問として活躍し、息子長政は関が原での戦功で筑前の国福岡藩の大大名となって黒田家は江戸時代も続いたんです。

キリシタンでもあったという黒田官兵衛を、大河ドラマになるずっと前から興味津々だったというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。歴史上の有能、賢いといわれた人物に目がなく、秀吉に一目置かれ恐れられたという黒田官兵衛には昔から注目。著名人の出身者皆無な姫路において、唯一貴重な偉人黒田官兵衛について今回5分でわかるようまとめた。

1-1、黒田官兵衛は播州姫路の出身

Yoshitaka Kuroda.jpg
By 不明 – 崇福寺(そうふくじ)所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

黒田家の父祖は「寛永諸家系図伝」などでは、近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身になっているものの、播磨国多可郡黒田庄(現・兵庫県西脇市)出身という説もあり、地元の寺には、播磨黒田氏に関する系図、黒田職隆、黒田重隆の位牌も伝わっているということ。

黒田家についてはっきりわかっているのは祖父の代からで、官兵衛祖父は若い頃、山陽地方随一の商業都市だった備前国の福岡(現・岡山県瀬戸内市長船町)に在住していましたが、大永5年(1525年)に備前から播磨国に移って、姫路にある広峯神社の神官・井口太夫とこの神社に伝わる目薬を売ることで財を成して、播磨の国人に。
はじめは龍野城主の赤松政秀に仕えたが、次に御着城主の小寺政職(まさもと)に仕え、息子で官兵衛父である職隆(もとたか)が小寺氏に重用されて、天文14年(1545年)には姫路城城代に。そして父職隆は主君政職の養女(明石正風娘)と結婚、小寺姓を与えられて小寺家の家老に。
この小寺家は播磨守護の赤松晴政重臣で、御着城(現、姫路市東部に)が主城で播磨平野に勢力を持っていた家ですね。
官兵衛は天文15年11月29日(1546年12月22日)、職隆の嫡男として姫路城で誕生、幼名は万吉。弟3人と妹が3人。

1-2、官兵衛は通称で、名乗りは孝高または如水

諱(いみな、実名のこと)は、書類でサインする程度で通称としては用いられないもの。官兵衛も最初は祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のちに孝高というように変わっています。同時代ではおそらく通称の黒田 官兵衛と呼ばれることが多く、最晩年に剃髪した後は 如水(じょすい)。

本性は黒田だけれど、主君から小寺を名乗るよう言われているので、官兵衛祖父、父とも信頼厚かったようですね。

2-1、若き官兵衛、父と共に武将として歩み出し家督を継いで結婚

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官兵衛は、永禄4年(1561年)に小寺政職の近習に。そして永禄5年(1562年)には、父職隆と共に土豪を討ったのが初陣で、この年から小寺官兵衛に。
永禄10年(1567年)頃には、官兵衛は父から家督と家老職を譲られて、小寺政職の姪にあたる播磨国志方城主の櫛橋伊定(くしはし これさだ)の娘・光(てる、またはみつ)と結婚し、姫路城代に就任。官兵衛父はまだ40代半ばながら息子の官兵衛の方が器量が上とみて、さっさと隠居。

そして永禄11年(1568年)以後、足利義昭が織田信長に上洛を要請し、室町幕府15代将軍に就任した後、毛利元就と尼子氏の残党が衝突し、元就が義昭に救援を要請したため、秀吉率いる2万の兵が差し向けられたのですが、義昭と手を組んでいた赤松政秀が、官兵衛の姫路城に3,000の兵を率いて侵攻。官兵衛はわずか300の兵で奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたって戦った後、三木通秋の援軍などが来て撃退に成功。

播州にも信長、反信長の波が押し寄せて来たのでした。

2-2、官兵衛、主君に信長に付くよう進言

天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君の小寺政職に、長篠の戦いで武田勝頼を破った織田氏への臣従を進言しました。官兵衛は7月には秀吉の取次で岐阜城まで出向いて信長に謁見して、信長から名刀「圧切長谷部」を拝領。そして年明けには官兵衛の主君の小寺政職と、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らが揃って上洛、信長に謁見。

この頃の官兵衛は近畿地方の端っこ在住で、しかも陪臣で主君小寺政職の下にありながら、尾張の信長の先取性を見抜き接触していたのですね。

2-3、西から毛利軍が播磨に押し寄せるなか、官兵衛は東の信長に付くことに

天正5年(1577年)5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟を結び、浦宗勝が三木通秋の所領の姫路西部の英賀に上陸。官兵衛は500の兵力で奇襲をしかけて、5,000の兵を撃退(英賀合戦)。

この後、官兵衛は長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ。
そして10月になると信長は秀吉を播磨に進駐させたので、官兵衛は一族を父の隠居城である南西の国府山城に移らせて、自分の居城であった姫路城本丸を秀吉に提供。官兵衛は姫路城の二の丸に住み、秀吉の参謀に。

この後、官兵衛と秀吉は播磨と但馬平定の戦いを開始。竹田城、上月城、佐用城、三木城の合戦が繰り広げられました。

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