キリシタンでもあったという黒田官兵衛を、大河ドラマになるずっと前から興味津々だったというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、黒田官兵衛は播州姫路の出身
- 1-2、官兵衛は通称で、名乗りは孝高または如水
- 2-1、若き官兵衛、父と共に武将として歩み出し家督を継いで結婚
- 2-2、官兵衛、主君に信長に付くよう進言
- 2-3、西から毛利軍が播磨に押し寄せるなか、官兵衛は東の信長に付くことに
- 2-4、官兵衛、荒木村重の造反で説得のために有岡城に乗り込むが幽閉される
- 2-5、織田家の人質だった官兵衛嫡子の松寿丸はあわや殺されるところを助かる
- 2-6、官兵衛の主君小寺氏は滅びて、官兵衛は秀吉傘下の武将に
- 2-7、官兵衛、秀吉と共に備中高松城水攻めに
- 3-1、本能寺の変が起こり、秀吉真っ青、そのとき官兵衛は
- 3-2、山崎の合戦で秀吉勝利、官兵衛は秀吉の武将として活躍、大名に
- 3-3、官兵衛、四国平定に加わり、その後キリスト教に入信
- 3-4、官兵衛、その後も九州平定に大活躍、豊前の国12万石の大名に
- 3-5、官兵衛、嫡男長政に後を譲り隠居して秀吉側近に
- 3-6、文禄、慶長の役では活躍するも石田三成らと対立、秀吉の怒りも買う
- 4-1、秀吉死後、官兵衛の行動は
- 4-2、関が原前夜の官兵衛は九州でこっそり挙兵
- 4-3、なんと息子長政の大活躍で関が原合戦は半日で終了し、官兵衛の九州制圧も中途に
- 4-4、福崎を福岡と改名し、福岡城を築城したのが最後の大仕事だった
- 軍師どころか築城も得意な智将だった黒田官兵衛
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。歴史上の有能、賢いといわれた人物に目がなく、秀吉に一目置かれ恐れられたという黒田官兵衛には昔から注目。著名人の出身者皆無な姫路において、唯一貴重な偉人黒田官兵衛について今回5分でわかるようまとめた。
1-1、黒田官兵衛は播州姫路の出身
By 不明 – 崇福寺(そうふくじ)所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link
黒田家の父祖は「寛永諸家系図伝」などでは、近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身になっているものの、播磨国多可郡黒田庄(現・兵庫県西脇市)出身という説もあり、地元の寺には、播磨黒田氏に関する系図、黒田職隆、黒田重隆の位牌も伝わっているということ。
黒田家についてはっきりわかっているのは祖父の代からで、官兵衛祖父は若い頃、山陽地方随一の商業都市だった備前国の福岡(現・岡山県瀬戸内市長船町)に在住していましたが、大永5年(1525年)に備前から播磨国に移って、姫路にある広峯神社の神官・井口太夫とこの神社に伝わる目薬を売ることで財を成して、播磨の国人に。
はじめは龍野城主の赤松政秀に仕えたが、次に御着城主の小寺政職(まさもと)に仕え、息子で官兵衛父である職隆(もとたか)が小寺氏に重用されて、天文14年(1545年)には姫路城城代に。そして父職隆は主君政職の養女(明石正風娘)と結婚、小寺姓を与えられて小寺家の家老に。
この小寺家は播磨守護の赤松晴政重臣で、御着城(現、姫路市東部に)が主城で播磨平野に勢力を持っていた家ですね。
官兵衛は天文15年11月29日(1546年12月22日)、職隆の嫡男として姫路城で誕生、幼名は万吉。弟3人と妹が3人。
1-2、官兵衛は通称で、名乗りは孝高または如水
諱(いみな、実名のこと)は、書類でサインする程度で通称としては用いられないもの。官兵衛も最初は祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のちに孝高というように変わっています。同時代ではおそらく通称の黒田 官兵衛と呼ばれることが多く、最晩年に剃髪した後は 如水(じょすい)。
本性は黒田だけれど、主君から小寺を名乗るよう言われているので、官兵衛祖父、父とも信頼厚かったようですね。
2-1、若き官兵衛、父と共に武将として歩み出し家督を継いで結婚
官兵衛は、永禄4年(1561年)に小寺政職の近習に。そして永禄5年(1562年)には、父職隆と共に土豪を討ったのが初陣で、この年から小寺官兵衛に。
永禄10年(1567年)頃には、官兵衛は父から家督と家老職を譲られて、小寺政職の姪にあたる播磨国志方城主の櫛橋伊定(くしはし これさだ)の娘・光(てる、またはみつ)と結婚し、姫路城代に就任。官兵衛父はまだ40代半ばながら息子の官兵衛の方が器量が上とみて、さっさと隠居。
そして永禄11年(1568年)以後、足利義昭が織田信長に上洛を要請し、室町幕府15代将軍に就任した後、毛利元就と尼子氏の残党が衝突し、元就が義昭に救援を要請したため、秀吉率いる2万の兵が差し向けられたのですが、義昭と手を組んでいた赤松政秀が、官兵衛の姫路城に3,000の兵を率いて侵攻。官兵衛はわずか300の兵で奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたって戦った後、三木通秋の援軍などが来て撃退に成功。
播州にも信長、反信長の波が押し寄せて来たのでした。
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2-2、官兵衛、主君に信長に付くよう進言
天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君の小寺政職に、長篠の戦いで武田勝頼を破った織田氏への臣従を進言しました。官兵衛は7月には秀吉の取次で岐阜城まで出向いて信長に謁見して、信長から名刀「圧切長谷部」を拝領。そして年明けには官兵衛の主君の小寺政職と、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らが揃って上洛、信長に謁見。
この頃の官兵衛は近畿地方の端っこ在住で、しかも陪臣で主君小寺政職の下にありながら、尾張の信長の先取性を見抜き接触していたのですね。
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2-3、西から毛利軍が播磨に押し寄せるなか、官兵衛は東の信長に付くことに
天正5年(1577年)5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟を結び、浦宗勝が三木通秋の所領の姫路西部の英賀に上陸。官兵衛は500の兵力で奇襲をしかけて、5,000の兵を撃退(英賀合戦)。
この後、官兵衛は長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ。
そして10月になると信長は秀吉を播磨に進駐させたので、官兵衛は一族を父の隠居城である南西の国府山城に移らせて、自分の居城であった姫路城本丸を秀吉に提供。官兵衛は姫路城の二の丸に住み、秀吉の参謀に。
この後、官兵衛と秀吉は播磨と但馬平定の戦いを開始。竹田城、上月城、佐用城、三木城の合戦が繰り広げられました。
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