室町時代戦国時代日本史歴史

東北の覇者「伊達政宗」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説!

秀吉の天下統一

秀吉は、北條家当主の氏直に書状を送り軍門に降るように働きかけていた。しかし、氏直は秀吉の軍門に降らず徹底抗戦の構えを取っていました。これにより北條征伐が決まり各国の大名を総動員して関東に攻め入ろうとしました。

どちらに付くか決めかねていた政宗は、秀吉から催促の書状が届いていたことと浅野長政と前田玄以の説得により豊臣方へ付くことになりました。この時、遅参したことで秀吉のところへと出向きます。死を覚悟した政宗は、真っ白の死に装束で秀吉と面会し秀吉の度肝を抜きました。この出来事で、命を取られることは無くなったが小田原征伐後に所領を狭められてしまいます。

氏直が自刃した結果、秀吉が天下統一を果たしました。その後、伊達家領内で葛西大崎一揆が発生したため兵を動員して鎮圧します。この際、一揆に関与していると疑われてしまいますが弁明しましたが一部所領を氏郷へ移譲させたことで七十二万石から五十六万へと減石されてしまいました。

秀吉から家康の天下へ

秀吉の命で、各国大名と共に朝鮮へ攻め入っていました。ところが、1598年9月に秀吉が病により亡くなってしまいます。これがきっかけとなり五大老の徳川家康が次の天下人となるべく動き出しました。まず、政宗の五女五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させます。

この行為に、反旗を翻したのが五奉行の石田三成です。元々、険悪な関係にあった三成と家康でしたが何かと反感を買いやすい三成は秀吉恩顧の武闘派大名との関係も最悪でした。小さい衝突がありましたが、上杉景勝と直江兼続が家康に対して挙兵します。

家康が、上杉軍に向けて進軍していると三成が挙兵し家康へ向けて進軍。三成挙兵を受けて家康は、兵を割き両者は関ヶ原で衝突しました。東北方面は、伊達政景と最上義光が上杉氏と衝突していきます。

山形城・畑谷城・長谷堂城と激戦を繰り広げていたところ、関ヶ原で西軍敗北の知らせが上杉軍に告げられ撤退していき東軍の勝利で戦いが決しました。

エスパーニャと貿易

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関ヶ原戦いが東軍勝利で終わり、政宗が望んでいた石高まで届かなかったものの六十万石へ加増されました。そして、居城を仙台へ移していきます。1609年に、前フィリピン総督のロドリコが大風に遭い上総国の民に救出されました。これにより、エスパーニャとの貿易が始まるきっかけとなります。

遭難直後に、船に乗船していたセバスティアン・ピスカイノとルイス・ステロと出会いました。1612年にピスカイノの船が破損したため、政宗は家康に許可をもらい大型船の製造に取り掛かります。また、ステロが捕縛され処刑寸前であったが陳情して救出して仙台外交使節に任命されました。

そして、政宗家臣の支倉常長らをエスパーニャへ派遣することが決まり一年間その地に留まり仙台を発展させるべく銀精技師を引き連れ日本へ帰国しました。この貿易により仙台を大きく成長させることができましたが、後に鎖国とキリシタン弾圧によってエスパーニャと疎遠となってしまいます。

大坂冬の陣

他国と貿易している最中に、豊臣家を断絶させたい家康は完成した方広寺の梵鐘に書かれていた国家安康を見て徳川家に対する侮辱であると言い放っていました。この事は最初から計画されていたことで、豊臣側と攻撃する理由作りだったとされています。

家康は、豊臣秀頼を攻めるべく大阪城へ侵攻しました。大和口方面を攻めていましたが、元から家康は和議を狙いとしていたことと兵糧不足により和平交渉を織田有楽斎経由で交渉。結果、大阪城の堀を埋め立てすることと秀頼の安全などの条件で交渉は成立しました。堀の埋め立てを担当したのが政宗でした。

 

大坂夏の陣から晩年

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家康は、戦をしないのにいつまでも大阪に居座る豊臣の浪人達を解雇するよう要求。ところが、解雇するどころか雇用し始めているので秀頼討伐に討って出ることなりました。

政宗は、道明寺で片倉重長を先鋒として後藤基次を討ち取り大坂に向けて進軍しようとしました。そこに遅れて真田信繁と毛利勝永隊が到着し猛攻撃を受けて撤退していきます。兵力差で劣っていた豊臣方は、信繁が松平隊により討ち取られてことでさらに劣勢となりました。大阪城に火がつけられ、逃げることができなくなった秀頼は淀殿と共に自刃し豊臣家が滅亡しました。

世の情勢が落ち着いてからは、自国を発展させるべく領地開発に力を入れていました。その後、徳川家へ仕え参勤交代が発せられた時にはいち早く徳川三代将軍家光に近づき命に背くものは仰せ付け下さいといい家光から慕われていきました。

健康には、気を付けていましたが食道癌で亡くなってしまいます。死の直前は、愛姫にも死に顔を見せない心意気でした。

カリスマ性を発揮した独眼竜

輝宗が才能を見抜いてくれたので、東北の土地を支配することができました。また、東北を支配することができたのはもちろん政宗の力だけではありません。伊達成実・片倉景綱・鬼庭綱元ら重臣がいたおかげでもあるでしょう。ここまで優秀な部下達を引き連れていられたのは、政宗という男に魅力があったからでしょうね。

小田原征伐前には、なんと百五十万石までの領土を持っていたので家康・前田・利家に続く大大名でありました。秀吉によって奪われていなけば、秀吉死後の関ヶ原の戦いは無かったかも知れません。その証拠というわけではないですが、東奥老子夜話によれば徳川幕府と一戦交えた作戦を立てていたことが分かっております。

また、貿易によって仙台を見事なまでに発展させ現代の仙台があるのも政宗のおかげです。

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