輝宗の死をめぐる謎
輝宗が亡くなってしまったこの事件には、史実と異なった記録が残されていました。まず成実が残した成実記では、輝宗の掛け声はなく成実の兵が鉄砲を撃ちこんだことが、きっかけとなり兵が一斉射撃してしまい亡くなってしまったと記録。
その他に、義継家臣が書いた山口道斎物語には近くの高田城に鉄砲の音が聞こえ現場に行くと義継は息絶えていたと記録に残っています。ところが、政宗と地元の村人が残した記録を見ると刺殺したとなっていました。
政宗は輝宗の元へ急いで向かうとまだ息絶えておらず、政宗が輝宗も切り伏せてしまえと兵へ命令しました。しかし、前当主へ切りかかれる兵はいなく躊躇している間に義継は懐の脇差で輝宗を刺殺して自害したと書かれています。その結果、歴史漫画などではこの二つの記録が合わさり政宗が輝宗を撃ったことにもなってしまったのでしょう。
反政宗連合軍
政宗はまず輝宗の弔い合戦として二本松城へ攻め込みました。総攻撃に耐えている間に佐竹氏を筆頭とした連合軍が結成されます。輝宗を失い伊達家の力が、弱まったと考えた佐竹氏をはじめとする大名達が同盟を交わしました。
政宗の背後から佐竹氏・蘆名氏・二階堂氏らが挙兵し二本松氏と手を組み伊達軍へ攻め入ります。政宗は佐竹氏らの接近する情報を聞き、兵を分割して自身で約七千を率いて連合軍を迎え撃つべく進軍しました。
兵力は、政宗側が約七千に対して佐竹氏・蘆名氏連合軍は約三万と圧倒的不利な状況でした。兵力差で勝る連合軍は、次々と政宗の兵を倒していき、遂には本陣まで侵入されてしまい政宗は窮地に立たされてしまいます。そこで、政宗を逃がすべく重臣の鬼庭良直が殿役を務めました。
良直は兵力差で劣りつつも、本陣に侵入してきた連合軍の兵を迎撃して約二百もの首を上げたと記録されています。良直は討ち取られてしまいますが、奮戦してくれたおかげで本宮城まで逃れることができました。
摺上原の戦い前哨戦
人取橋の戦いで、良直の働きにより一命を取り留めた政宗。そこに、佐竹氏と蘆名氏が攻めてくると思われましたが常陸に里見氏を攻め入るなどして撤退していきます。これによって、伊達軍対反伊達連合の戦いが引き分けという形で閉幕しました。
その後も、佐竹氏と蘆名氏から攻めらてきますが和睦を交わして事なきを得ました。ところが、田村氏の領土に向けて相馬氏と岩城氏が侵攻してきました。同盟を交わしている政宗は、田村氏を救援するべく兵を集めます。景綱を先鋒とした伊達軍は、相馬氏の城を瞬く間に攻略していき相馬氏を撤退させることに成功しました。
また、中立を保っていた猪苗代盛国が息子の亀丸を政宗に人質にして恭順しました。このことがきっかけで、小倉城に向けて侵攻していた佐竹氏と蘆名氏は黒川城へ急ぎ兵を戻します。
摺上原の戦い
遂に1589年6月5日政宗と義広が激突します。義広は、猪苗代城から少し離れた高森山に本陣を構えました。そして、政宗を挑発するべく猪苗代城の民家に火を放っているところを見た政宗は兵を率いて猪苗代城から出陣してきます。摺上原は、ゆるやかな丘陵地帯であるものの西から東に向けて強風が吹いていました。
これにより、砂塵が巻き上がり東側にいた伊達軍は目も開けられない状態でした。そこに、蘆名軍は猪苗代家から追放されてしまっていた盛胤を先鋒に攻め入っていきます。当初は、風向きと盛胤の活躍で優位になっていた蘆名軍であったが後詰に位置する富田氏実らが兵を失いたくない理由で傍観していました。
突然風向きが東から西へと変わり伊達側が優位な状況になります。伊達軍の津田景康が、鉄砲隊を引き連れて蘆名軍の真横を狙撃しました。この狙撃によって蘆名軍は、混乱していき傍観していた氏実らが撤退を開始。軍の立て直しが図れず、総崩れとなり義広は敗走し伊達軍の勝利となりました。
豊臣政権から徳川政権へ
東北を手中に収めた政宗は、想定で百五十万石の大国となっていた。ところが、世の情勢は秀吉の天下統一の目前となっており相模国の北條氏直と戦寸前という状態でした。北條氏とは、輝宗の代で同盟に近しい親交があったので政宗はどちらに付くか悩んでいました。悩んだ結果どちらについたのか、秀吉の天下が決まった小田原征伐から見ていきましょう。
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