今回は独眼竜として名高い戦国武将の伊達政宗を紹介していきます。政宗の先祖である伊達氏は、鎌倉時代から続く守護職として東北地方に君臨していた名家であったようです。
幼くして伊達家を継いでいたところから晩年の1636年まで政宗が行ってきたことを一緒に勉強していきます。

そして、歴史ライターであるwhat_0831と一緒に伊達政宗について紹介していきます。

ライター/what

現役のサラリーマン。戦国という動乱の時代が好きで、沢山の書籍を読んできた。自分の知識を用いて、独眼竜政宗について丁寧に紹介する。

奥州覇者 政宗誕生

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東北の戦国時代の武将と言えば、知っている人であれば伊達政宗と答えるでしょう。さらに三英傑の信長・秀吉・家康よりも人気がある武将の一人です。政宗が東北ではなく、関東若しくは近畿地方で生まれていたら時代が大きく変わっていたとも言われています。そこでまずは、政宗の幼少時代から見ていきましょう。

幼くして右目を失明

1567年9月5日に出羽国の米沢城(山形県山形市)で誕生する。父の伊達輝宗と正室である義姫から誕生し、伊達家の時期当主の嫡男として育てられていきます。四歳の時に高熱にかかり右目に天然痘が感染してしまった結果、失明してしまいました。政宗は元々、引っ込み思案なところがあり天然痘に感染した時さらに内向きな性格となってしまったようです。

このことが要因で、義姫と輝宗の一部家臣から跡継ぎとして相応しくないと思われていました。ただ輝宗だけは、そんな政宗のことを目にかけていて父の代に繋がりがあった名僧の虎哉宗乙を政宗の教師役として招き入れます。

そして、政宗は虎哉宗乙から教養と帝王学をしっかりと学びました。さらに勉学だけでなく剣術などのお目付け役として片倉景綱と伊達成実を抜擢し、幼少期の政宗を支えていきました。

異例の元服と初陣

輝宗からの期待された政宗は、片倉景綱と伊達成実の力で文武両道を備えつつありました。政宗が十二歳の時に家督を直ぐに譲れる準備として異例の元服儀式を行いました。

元服は通常、十五歳で行うことが当たり前でしたが反政宗派を押さえつけるために輝宗は政宗を元服させたと言われています。またこの時に、本名として梵天丸から伊達藤次郎政宗と名付けました。政宗の由来は、第九代当主の伊達政宗から名前をいただいたとされています。

そして、政宗が十三歳の時に陸奥国田村郡を治めていた田村清顕が佐竹氏と蘆名氏に対抗するべくの一人娘であった愛姫と結婚することになりました。結婚してから二年後に政宗は初陣します。輝宗は因縁のある相馬義胤と長年領土争いをしていました。

景綱は初陣前に、相馬氏とは遠親戚関係であったことを政宗に伝えました。これを聞いた政宗は、迷うことなく敵を倒すのみと頼もしいことをいったとされています。また、伊達成実も初陣だったとされていました。

名門伊達家十七代当主

十三歳にして早々と初陣をした政宗は、ここからさらに成長していきました。確執のあった相馬氏との戦いと家督を相続する流れまでを紹介していきます。

\次のページで「輝宗の時代から政宗の時代へ」を解説!/

輝宗の時代から政宗の時代へ

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十五歳で相馬氏との戦いで初陣したものの、長年の領土争いをしていた戦いであったため主だった功績は残すことができませんでした。1584年4月に金山城の攻略を輝宗から命じられた政宗。中島宗求などの活躍があり約十年間に渡る戦いが終り再び伊達氏の領土となりました。そして、同年の7月に功績のあった中島宗求が城主に知行二千石でその地域を領します。

この活躍を見て、輝宗は政宗に家督を譲ることを決意しました。戦国時代の家督相続は、十八歳から二十代中ごろとなっていたため特に早い相続というわけではなかったようです。ところが政宗は、自分にはまだ相応しくないといい一度は断ったとされています。それでも、重臣達の強い勧めにより家督相続を決意し第十七代伊達家当主の伊達政宗が誕生しました。

伊達家の家督を継ぎましたが、実弟である伊達小次郎を推す者も多くいました。特に義姫は、小次郎を溺愛していて輝宗にも小次郎を当主にするようにと願い出ていました。

蘆名氏とのしがらみ

1584年10月に政宗が、輝宗から家督を相続している間に蘆名氏当主の蘆名盛隆が暗殺されてしまいます。盛隆は元を辿ると二階堂家からの人質の養子でした。蘆名家に人質として養子に出され、後継ぎのいない蘆名盛興は盛隆に蘆名家を継がせます。

最初は蘆名家のために奔走していましたが、力を付けてくると元の生まれの二階堂家を再興させようと行動していきました。こうした動きをみた蘆名家の重臣達から恨みを買い暗殺されてしまいます。

これにより盛隆の後継ぎは、生後一か月の亀王丸が相続しました。生まれて間もない赤ん坊に当然ながら采配が握れるわけもなく盛隆の、妻彦姫が父輝宗を頼り亀王丸の後見人となりました。また、蘆名隆氏が当主の時に輝宗との間で小次郎を養子に迎え入れるとの書状を交わしておりました。蘆名氏の養子に出すことにより東北での伊達家の力が拡大する予定でしたが、佐竹義重が反対したため養子計画が失敗してしまいます。

 

隣国への見せしめ

養子計画が失敗したことで、政宗は蘆名氏との同盟破棄しました。このことが要因となり、蘆名氏・佐竹氏と敵対することになり当主となったばかりの政宗には少々荷が重すぎる状況でした。こうした中で、田村氏の支配下にいた大内定綱が畠山義継と協調して反旗を翻しました。

独立した大内氏は、蘆名氏を頼り田村氏は伊達氏に頼りました。義継は、何度か輝宗・政宗に和睦するよう勧められるも和睦不成立となり蘆名氏と戦いが始まっていきます。

1585年5月に蘆名領へ侵攻した政宗は、8月に小手森城を攻めました。この時、隣国への見せしめとして城内にいた者を撫で斬りにしました。撫で斬りした人数ははっきりとしていませんが、政宗が師の虎哉宗乙へ送った書状には約八百人と書かれています。

大内領の城が惨劇によって落城したところを目の当たりした義継は、伊達氏に和議を申し入れることを決意。輝宗の計らいで五ヶ村だけ二本松領として許されました。

 

輝宗の死から摺上原の戦いへ

政宗の行動に恐れをなした義継は、和議を申し入れることで領土を安堵されました。ところが、義継は輝宗を連れ去り人質にしてしまいます。このことが引き金となり政宗は、隣国の敵を撃ち滅ぼしていきました。輝宗が人質となり政宗が、領土を拡大していくところから見ていきましょう。

義継と輝宗を銃撃

義継は和議の誠意を、見せるべく輝宗が滞在していた宮森城へ訪れました。そして、一通りの面談が終わり義継の見送りをしようと門まできたところでいきなり義継と家臣達に刃を向けらたと成実記に書かれています。動機は和睦したものの、輝宗の決断で所領を安堵されていたので政宗に説明されていませんでした。小手森城での一件で自分も同じ目に合うことを恐れて義継は、輝宗を連れ去り政宗との交渉材料にしたのではと考えられています。

通説である伊達治家記録によると、輝宗が連れ去られた直後に成実と留守政景が兵を引き連れ義継を追いました。阿武隈川河畔で追いつきその場で、輝宗は自分を、気にして伊達家に恥をさらすなとの一喝します。この声が鉄砲の合図となり輝元もろ共義継に銃弾を浴びせ亡くなりました。

事件が起きた日に、鷹狩をしていた政宗は輝宗のことを聞き急いで現地に向かいました。現地に到着した時には、輝宗は銃弾により亡くなっていたとされています。

\次のページで「輝宗の死をめぐる謎」を解説!/

輝宗の死をめぐる謎

輝宗が亡くなってしまったこの事件には、史実と異なった記録が残されていました。まず成実が残した成実記では、輝宗の掛け声はなく成実の兵が鉄砲を撃ちこんだことが、きっかけとなり兵が一斉射撃してしまい亡くなってしまったと記録。

その他に、義継家臣が書いた山口道斎物語には近くの高田城に鉄砲の音が聞こえ現場に行くと義継は息絶えていたと記録に残っています。ところが、政宗と地元の村人が残した記録を見ると刺殺したとなっていました。

政宗は輝宗の元へ急いで向かうとまだ息絶えておらず、政宗が輝宗も切り伏せてしまえと兵へ命令しました。しかし、前当主へ切りかかれる兵はいなく躊躇している間に義継は懐の脇差で輝宗を刺殺して自害したと書かれています。その結果、歴史漫画などではこの二つの記録が合わさり政宗が輝宗を撃ったことにもなってしまったのでしょう。

反政宗連合軍

政宗はまず輝宗の弔い合戦として二本松城へ攻め込みました。総攻撃に耐えている間に佐竹氏を筆頭とした連合軍が結成されます。輝宗を失い伊達家の力が、弱まったと考えた佐竹氏をはじめとする大名達が同盟を交わしました。

政宗の背後から佐竹氏・蘆名氏・二階堂氏らが挙兵し二本松氏と手を組み伊達軍へ攻め入ります。政宗は佐竹氏らの接近する情報を聞き、兵を分割して自身で約七千を率いて連合軍を迎え撃つべく進軍しました。

兵力は、政宗側が約七千に対して佐竹氏・蘆名氏連合軍は約三万と圧倒的不利な状況でした。兵力差で勝る連合軍は、次々と政宗の兵を倒していき、遂には本陣まで侵入されてしまい政宗は窮地に立たされてしまいます。そこで、政宗を逃がすべく重臣の鬼庭良直が殿役を務めました。

良直は兵力差で劣りつつも、本陣に侵入してきた連合軍の兵を迎撃して約二百もの首を上げたと記録されています。良直は討ち取られてしまいますが、奮戦してくれたおかげで本宮城まで逃れることができました。

摺上原の戦い前哨戦

人取橋の戦いで、良直の働きにより一命を取り留めた政宗。そこに、佐竹氏と蘆名氏が攻めてくると思われましたが常陸に里見氏を攻め入るなどして撤退していきます。これによって、伊達軍対反伊達連合の戦いが引き分けという形で閉幕しました。

その後も、佐竹氏と蘆名氏から攻めらてきますが和睦を交わして事なきを得ました。ところが、田村氏の領土に向けて相馬氏と岩城氏が侵攻してきました。同盟を交わしている政宗は、田村氏を救援するべく兵を集めます。景綱を先鋒とした伊達軍は、相馬氏の城を瞬く間に攻略していき相馬氏を撤退させることに成功しました。

また、中立を保っていた猪苗代盛国が息子の亀丸を政宗に人質にして恭順しました。このことがきっかけで、小倉城に向けて侵攻していた佐竹氏と蘆名氏は黒川城へ急ぎ兵を戻します。

 

摺上原の戦い

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遂に1589年6月5日政宗と義広が激突します。義広は、猪苗代城から少し離れた高森山に本陣を構えました。そして、政宗を挑発するべく猪苗代城の民家に火を放っているところを見た政宗は兵を率いて猪苗代城から出陣してきます。摺上原は、ゆるやかな丘陵地帯であるものの西から東に向けて強風が吹いていました。

これにより、砂塵が巻き上がり東側にいた伊達軍は目も開けられない状態でした。そこに、蘆名軍は猪苗代家から追放されてしまっていた盛胤を先鋒に攻め入っていきます。当初は、風向きと盛胤の活躍で優位になっていた蘆名軍であったが後詰に位置する富田氏実らが兵を失いたくない理由で傍観していました。

突然風向きが東から西へと変わり伊達側が優位な状況になります。伊達軍の津田景康が、鉄砲隊を引き連れて蘆名軍の真横を狙撃しました。この狙撃によって蘆名軍は、混乱していき傍観していた氏実らが撤退を開始。軍の立て直しが図れず、総崩れとなり義広は敗走し伊達軍の勝利となりました。

豊臣政権から徳川政権へ

東北を手中に収めた政宗は、想定で百五十万石の大国となっていた。ところが、世の情勢は秀吉の天下統一の目前となっており相模国の北條氏直と戦寸前という状態でした。北條氏とは、輝宗の代で同盟に近しい親交があったので政宗はどちらに付くか悩んでいました。悩んだ結果どちらについたのか、秀吉の天下が決まった小田原征伐から見ていきましょう。

\次のページで「秀吉の天下統一」を解説!/

秀吉の天下統一

秀吉は、北條家当主の氏直に書状を送り軍門に降るように働きかけていた。しかし、氏直は秀吉の軍門に降らず徹底抗戦の構えを取っていました。これにより北條征伐が決まり各国の大名を総動員して関東に攻め入ろうとしました。

どちらに付くか決めかねていた政宗は、秀吉から催促の書状が届いていたことと浅野長政と前田玄以の説得により豊臣方へ付くことになりました。この時、遅参したことで秀吉のところへと出向きます。死を覚悟した政宗は、真っ白の死に装束で秀吉と面会し秀吉の度肝を抜きました。この出来事で、命を取られることは無くなったが小田原征伐後に所領を狭められてしまいます。

氏直が自刃した結果、秀吉が天下統一を果たしました。その後、伊達家領内で葛西大崎一揆が発生したため兵を動員して鎮圧します。この際、一揆に関与していると疑われてしまいますが弁明しましたが一部所領を氏郷へ移譲させたことで七十二万石から五十六万へと減石されてしまいました。

秀吉から家康の天下へ

秀吉の命で、各国大名と共に朝鮮へ攻め入っていました。ところが、1598年9月に秀吉が病により亡くなってしまいます。これがきっかけとなり五大老の徳川家康が次の天下人となるべく動き出しました。まず、政宗の五女五郎八姫と家康の六男松平忠輝を婚約させます。

この行為に、反旗を翻したのが五奉行の石田三成です。元々、険悪な関係にあった三成と家康でしたが何かと反感を買いやすい三成は秀吉恩顧の武闘派大名との関係も最悪でした。小さい衝突がありましたが、上杉景勝と直江兼続が家康に対して挙兵します。

家康が、上杉軍に向けて進軍していると三成が挙兵し家康へ向けて進軍。三成挙兵を受けて家康は、兵を割き両者は関ヶ原で衝突しました。東北方面は、伊達政景と最上義光が上杉氏と衝突していきます。

山形城・畑谷城・長谷堂城と激戦を繰り広げていたところ、関ヶ原で西軍敗北の知らせが上杉軍に告げられ撤退していき東軍の勝利で戦いが決しました。

エスパーニャと貿易

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関ヶ原戦いが東軍勝利で終わり、政宗が望んでいた石高まで届かなかったものの六十万石へ加増されました。そして、居城を仙台へ移していきます。1609年に、前フィリピン総督のロドリコが大風に遭い上総国の民に救出されました。これにより、エスパーニャとの貿易が始まるきっかけとなります。

遭難直後に、船に乗船していたセバスティアン・ピスカイノとルイス・ステロと出会いました。1612年にピスカイノの船が破損したため、政宗は家康に許可をもらい大型船の製造に取り掛かります。また、ステロが捕縛され処刑寸前であったが陳情して救出して仙台外交使節に任命されました。

そして、政宗家臣の支倉常長らをエスパーニャへ派遣することが決まり一年間その地に留まり仙台を発展させるべく銀精技師を引き連れ日本へ帰国しました。この貿易により仙台を大きく成長させることができましたが、後に鎖国とキリシタン弾圧によってエスパーニャと疎遠となってしまいます。

大坂冬の陣

他国と貿易している最中に、豊臣家を断絶させたい家康は完成した方広寺の梵鐘に書かれていた国家安康を見て徳川家に対する侮辱であると言い放っていました。この事は最初から計画されていたことで、豊臣側と攻撃する理由作りだったとされています。

家康は、豊臣秀頼を攻めるべく大阪城へ侵攻しました。大和口方面を攻めていましたが、元から家康は和議を狙いとしていたことと兵糧不足により和平交渉を織田有楽斎経由で交渉。結果、大阪城の堀を埋め立てすることと秀頼の安全などの条件で交渉は成立しました。堀の埋め立てを担当したのが政宗でした。

 

大坂夏の陣から晩年

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家康は、戦をしないのにいつまでも大阪に居座る豊臣の浪人達を解雇するよう要求。ところが、解雇するどころか雇用し始めているので秀頼討伐に討って出ることなりました。

政宗は、道明寺で片倉重長を先鋒として後藤基次を討ち取り大坂に向けて進軍しようとしました。そこに遅れて真田信繁と毛利勝永隊が到着し猛攻撃を受けて撤退していきます。兵力差で劣っていた豊臣方は、信繁が松平隊により討ち取られてことでさらに劣勢となりました。大阪城に火がつけられ、逃げることができなくなった秀頼は淀殿と共に自刃し豊臣家が滅亡しました。

世の情勢が落ち着いてからは、自国を発展させるべく領地開発に力を入れていました。その後、徳川家へ仕え参勤交代が発せられた時にはいち早く徳川三代将軍家光に近づき命に背くものは仰せ付け下さいといい家光から慕われていきました。

健康には、気を付けていましたが食道癌で亡くなってしまいます。死の直前は、愛姫にも死に顔を見せない心意気でした。

カリスマ性を発揮した独眼竜

輝宗が才能を見抜いてくれたので、東北の土地を支配することができました。また、東北を支配することができたのはもちろん政宗の力だけではありません。伊達成実・片倉景綱・鬼庭綱元ら重臣がいたおかげでもあるでしょう。ここまで優秀な部下達を引き連れていられたのは、政宗という男に魅力があったからでしょうね。

小田原征伐前には、なんと百五十万石までの領土を持っていたので家康・前田・利家に続く大大名でありました。秀吉によって奪われていなけば、秀吉死後の関ヶ原の戦いは無かったかも知れません。その証拠というわけではないですが、東奥老子夜話によれば徳川幕府と一戦交えた作戦を立てていたことが分かっております。

また、貿易によって仙台を見事なまでに発展させ現代の仙台があるのも政宗のおかげです。

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室町時代戦国時代日本史歴史

東北の覇者「伊達政宗」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説!

輝宗の死をめぐる謎

輝宗が亡くなってしまったこの事件には、史実と異なった記録が残されていました。まず成実が残した成実記では、輝宗の掛け声はなく成実の兵が鉄砲を撃ちこんだことが、きっかけとなり兵が一斉射撃してしまい亡くなってしまったと記録。

その他に、義継家臣が書いた山口道斎物語には近くの高田城に鉄砲の音が聞こえ現場に行くと義継は息絶えていたと記録に残っています。ところが、政宗と地元の村人が残した記録を見ると刺殺したとなっていました。

政宗は輝宗の元へ急いで向かうとまだ息絶えておらず、政宗が輝宗も切り伏せてしまえと兵へ命令しました。しかし、前当主へ切りかかれる兵はいなく躊躇している間に義継は懐の脇差で輝宗を刺殺して自害したと書かれています。その結果、歴史漫画などではこの二つの記録が合わさり政宗が輝宗を撃ったことにもなってしまったのでしょう。

反政宗連合軍

政宗はまず輝宗の弔い合戦として二本松城へ攻め込みました。総攻撃に耐えている間に佐竹氏を筆頭とした連合軍が結成されます。輝宗を失い伊達家の力が、弱まったと考えた佐竹氏をはじめとする大名達が同盟を交わしました。

政宗の背後から佐竹氏・蘆名氏・二階堂氏らが挙兵し二本松氏と手を組み伊達軍へ攻め入ります。政宗は佐竹氏らの接近する情報を聞き、兵を分割して自身で約七千を率いて連合軍を迎え撃つべく進軍しました。

兵力は、政宗側が約七千に対して佐竹氏・蘆名氏連合軍は約三万と圧倒的不利な状況でした。兵力差で勝る連合軍は、次々と政宗の兵を倒していき、遂には本陣まで侵入されてしまい政宗は窮地に立たされてしまいます。そこで、政宗を逃がすべく重臣の鬼庭良直が殿役を務めました。

良直は兵力差で劣りつつも、本陣に侵入してきた連合軍の兵を迎撃して約二百もの首を上げたと記録されています。良直は討ち取られてしまいますが、奮戦してくれたおかげで本宮城まで逃れることができました。

摺上原の戦い前哨戦

人取橋の戦いで、良直の働きにより一命を取り留めた政宗。そこに、佐竹氏と蘆名氏が攻めてくると思われましたが常陸に里見氏を攻め入るなどして撤退していきます。これによって、伊達軍対反伊達連合の戦いが引き分けという形で閉幕しました。

その後も、佐竹氏と蘆名氏から攻めらてきますが和睦を交わして事なきを得ました。ところが、田村氏の領土に向けて相馬氏と岩城氏が侵攻してきました。同盟を交わしている政宗は、田村氏を救援するべく兵を集めます。景綱を先鋒とした伊達軍は、相馬氏の城を瞬く間に攻略していき相馬氏を撤退させることに成功しました。

また、中立を保っていた猪苗代盛国が息子の亀丸を政宗に人質にして恭順しました。このことがきっかけで、小倉城に向けて侵攻していた佐竹氏と蘆名氏は黒川城へ急ぎ兵を戻します。

 

摺上原の戦い

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遂に1589年6月5日政宗と義広が激突します。義広は、猪苗代城から少し離れた高森山に本陣を構えました。そして、政宗を挑発するべく猪苗代城の民家に火を放っているところを見た政宗は兵を率いて猪苗代城から出陣してきます。摺上原は、ゆるやかな丘陵地帯であるものの西から東に向けて強風が吹いていました。

これにより、砂塵が巻き上がり東側にいた伊達軍は目も開けられない状態でした。そこに、蘆名軍は猪苗代家から追放されてしまっていた盛胤を先鋒に攻め入っていきます。当初は、風向きと盛胤の活躍で優位になっていた蘆名軍であったが後詰に位置する富田氏実らが兵を失いたくない理由で傍観していました。

突然風向きが東から西へと変わり伊達側が優位な状況になります。伊達軍の津田景康が、鉄砲隊を引き連れて蘆名軍の真横を狙撃しました。この狙撃によって蘆名軍は、混乱していき傍観していた氏実らが撤退を開始。軍の立て直しが図れず、総崩れとなり義広は敗走し伊達軍の勝利となりました。

豊臣政権から徳川政権へ

東北を手中に収めた政宗は、想定で百五十万石の大国となっていた。ところが、世の情勢は秀吉の天下統一の目前となっており相模国の北條氏直と戦寸前という状態でした。北條氏とは、輝宗の代で同盟に近しい親交があったので政宗はどちらに付くか悩んでいました。悩んだ結果どちらについたのか、秀吉の天下が決まった小田原征伐から見ていきましょう。

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