室町時代戦国時代日本史歴史

東北の覇者「伊達政宗」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説!

よぉ、桜木建二だ。今回は独眼竜として名高い戦国武将の伊達政宗を紹介していくぞ。政宗の先祖である伊達氏は、鎌倉時代から続く守護職として東北地方に君臨していた名家であったようだな。
幼くして伊達家を継いでいたところから晩年の1636年まで政宗が行ってきたことを一緒に勉強していくぞ。

そして、歴史ライターであるwhat_0831と一緒に伊達政宗について紹介していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/what

現役のサラリーマン。戦国という動乱の時代が好きで、沢山の書籍を読んできた。自分の知識を用いて、独眼竜政宗について丁寧に紹介する。

奥州覇者 政宗誕生

image by PIXTA / 15508598

東北の戦国時代の武将と言えば、知っている人であれば伊達政宗と答えるでしょう。さらに三英傑の信長・秀吉・家康よりも人気がある武将の一人です。政宗が東北ではなく、関東若しくは近畿地方で生まれていたら時代が大きく変わっていたとも言われています。そこでまずは、政宗の幼少時代から見ていきましょう。

幼くして右目を失明

1567年9月5日に出羽国の米沢城(山形県山形市)で誕生する。父の伊達輝宗と正室である義姫から誕生し、伊達家の時期当主の嫡男として育てられていきます。四歳の時に高熱にかかり右目に天然痘が感染してしまった結果、失明してしまいました。政宗は元々、引っ込み思案なところがあり天然痘に感染した時さらに内向きな性格となってしまったようです。

このことが要因で、義姫と輝宗の一部家臣から跡継ぎとして相応しくないと思われていました。ただ輝宗だけは、そんな政宗のことを目にかけていて父の代に繋がりがあった名僧の虎哉宗乙を政宗の教師役として招き入れます。

そして、政宗は虎哉宗乙から教養と帝王学をしっかりと学びました。さらに勉学だけでなく剣術などのお目付け役として片倉景綱と伊達成実を抜擢し、幼少期の政宗を支えていきました。

異例の元服と初陣

輝宗からの期待された政宗は、片倉景綱と伊達成実の力で文武両道を備えつつありました。政宗が十二歳の時に家督を直ぐに譲れる準備として異例の元服儀式を行いました。

元服は通常、十五歳で行うことが当たり前でしたが反政宗派を押さえつけるために輝宗は政宗を元服させたと言われています。またこの時に、本名として梵天丸から伊達藤次郎政宗と名付けました。政宗の由来は、第九代当主の伊達政宗から名前をいただいたとされています。

そして、政宗が十三歳の時に陸奥国田村郡を治めていた田村清顕が佐竹氏と蘆名氏に対抗するべくの一人娘であった愛姫と結婚することになりました。結婚してから二年後に政宗は初陣します。輝宗は因縁のある相馬義胤と長年領土争いをしていました。

景綱は初陣前に、相馬氏とは遠親戚関係であったことを政宗に伝えました。これを聞いた政宗は、迷うことなく敵を倒すのみと頼もしいことをいったとされています。また、伊達成実も初陣だったとされていました。

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政宗の右目は失明したが、政宗の肖像画のほとんどは両目がはっきりと描かれている。どうやら、晩年に片目を失ってしまったことは親不幸であるから両目を描くようにと言い伝えていたそうだ。

また、政宗の性ふき格を見た義姫は政宗の弟を溺愛していた。弟に伊達家を継がせるべく何度か、政宗に毒を盛ろうとしたこともあったようだ。母から嫌われながらも輝宗からは将来が期待された存在だったようだな。

名門伊達家十七代当主

十三歳にして早々と初陣をした政宗は、ここからさらに成長していきました。確執のあった相馬氏との戦いと家督を相続する流れまでを紹介していきます。

\次のページで「輝宗の時代から政宗の時代へ」を解説!/

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