今回はフェリペ2世を取り上げてみた。カール5世の息子でスペインを統治してスペインを「太陽の沈まぬ国」と言われるまでにした王様です。

今回は世界史、特にハプスブルク家について詳しいまぁこと一緒にフェリペ2世について解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこが特に好きなヨーロッパの名門ハプスブルク家の一員であるフェリペ2世について紹介していく。

スペイン黄金時代に君臨した王

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フェリペ2世は、16世紀に活躍したスペインの王です。父王のカール5世が1556年に退位した際に、スペインを継承しました。ちなみにカール5世はスペインの他にオーストリア領も支配しており、こちらは実の弟であるフェルディナントが継承しています。フェリペ2世はスペインを「太陽の沈まぬ国」へと築きました。

またカトリックの保護にも力を入れ、レパントの海戦ではオスマン帝国を破りました。しかしカトリックの保護に力を入れるあまり、オランダを弾圧しその結果オランダが独立することになってしまいます。

ちなみにフェリペ2世には「書類王」というあだ名があるのをご存知ですか。これは戦場に出かけることなくずっと宮殿で仕事をしていたため、そう呼ばれるようになりました。執務はたびたび14時間に及ぶことも。

それではフェリペ2世のルーツやフェリペ2世自身のこと、そして彼の生きた時代の様子を紹介していきます。

そもそもハプスブルク家とは?

フェリペ2世はハプスブルク家出身でした。ハプスブルク家とはヨーロッパの名門です。他にも有名な名門として、ロシアのロマノフ家、イタリアのメディチ家などがありますね。

ハプスブルク家は650年間王朝を保ちました。とても長いですよね。そのためハプスブルク家からは、何人もの有名な人物が登場します。有名な例を挙げるなら、フランツ・ヨーゼフエリザベート皇后マリー・アントワネットなど。

ハプスブルクの起源 スイスの豪族

ハプスブルク家のルーツは、10世紀頃まで遡ります。もともとはスイスの田舎の豪族でした。ハプスブルクという名前の語源は、11世紀に建てた城からだと言われています。この城は「ハービツブルク城」と呼ばれ、この城の名前を取ってハプスブルクを名乗るようになったようです。

神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、歴史の表舞台へ

その後13世紀に入ってハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれることになりました。神聖ローマ帝国の皇帝と選ばれたルドルフ伯は当時55歳と高齢でした。皇帝に選ばれると領土は増えませんが、カトリックの盟主という権威が与えられます。

しかし一体なぜルドルフ伯は選ばれたのでしょうか。これは選帝侯たちの思惑がありました。できるだけ自分たちの言いなりになりそうな人物を皇帝にしようと考えたのです。しかしルドルフ伯が皇帝になることに異を唱えた人物がいました。ボヘミア王のオットカル2世でした。オットカル2世は勢力を拡大しているさなかだったため、選帝侯たちは警戒していました。そこからルドルフ伯とオットカル2世との間に亀裂が生じます。そしてついに1278年のマルヒフェルトの戦いで両者は衝突しました。結果はルドルフ伯の勝利でした。そしてそこからハプスブルク家はボヘミアオーストリアへと領土を拡大していきます。

ハプスブルク家の顔立ち

ハプスブルク家と言えば、特徴的な顔立ちをしていることで有名ですよね。

ハプスブルク家の肖像画ではかなり特徴的な顔立ちが描かれています。それは鼻が鷲鼻になっていて、顎がしゃくれていることです。

では、フェリペ2世も特徴的な顔立ちだったのでしょうか。フェリペ2世にもハプスブルク家の顔立ちの特徴が表れていますが、とても整った顔立ちをしていました。

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冷淡な性格のフェリペ2世

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フェリペ2世の言い伝えにこんなエピソードがあります。フランスでサンバルテルミの虐殺の知らせが届いた時に初めて笑ったと。フェリペ2世にとってカトリックは保護の対象であり、異教徒は弾圧するべきと考えていました。したがってフランスでプロテスタントたちが虐殺されたのを当然だと思っていたのかもしれませんね。

お洒落なフェリペ2世

ここではフェリペ2世の服装について注目していきます。ティツィアーノ「軍服姿のフェリペ皇太子」から考察していきましょう。

暗い背景を背に、鎧を着たフェリペ2世がこちらを向いています。右手にはテーブルの上に置かれた兜。黒い鎧に身を包み、その鎧には金色の金具がついていて洗練されたデザインとなっています。彼のファッションセンスの良さがにじみ出ていますね。鎧はフェリペ2世の太もも辺りまであり、鎧の下には短いカボチャパンツと白いタイツ。

現代人からすると、男性がカボチャパンツに白タイツを履くのはかなり勇気がいりますね。しかし当時のファッションでは、ズボンを短くして足を出すことで脚線美を出していたんです。ちなみにフランス王ルイ14世はリボン付きの赤いハイヒールを履いていました。

フェリペ2世の結婚について

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フェリペ2世は生涯で4回結婚をしています。結婚相手のプリンセスは、イギリス、ポルトガル、イングランド、フランス、オーストリア出身です。全て各国の女王や王女たちばかり。

しかし4人ともフェリペ2世よりも先に亡くなってしまいました。ここではより詳しく紹介していこうと思います。

ハプスブルク家の血族結婚

フェリペ2世の結婚の詳細を説明する前に、ハプスブルク家の結婚政策について見ていきましょう。

ハプスブルク家と言えば、結婚政策が有名ではないかと思います。

「戦争は他の者にまかせておくがいい、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」という名言もありますよね。これは結婚によって他国と結びついてその国の領土を手にしていく方法。結婚することで、争わないで領土が拡大していくとは、なかなか策士ですね。これによってハプスブルク家は多くの領土を手に入れることに。

そしてもう1つ有名なのが血族結婚。ハプスブルク家は血族結婚を繰り返してきました。そのため子孫たちに多大なる影響が出始めます。血族結婚により産まれても幼いうちに亡くなってしまったり、身体や知的障害を持って生まれてくる子どもが多かったのです。またフェリペ2世のひ孫にあたるカルロス2世は世継ぎを作れず、スペイン・ハプスブルク家は幕を閉じることに。血族結婚のリスクはとても恐ろしいですよね。

初めの妻は従妹

初めの結婚相手はポルトガル王女で、彼女はフェリペ2世にとって従妹でした。しかし結婚からわずか2年足らずで、彼女は難産が原因で亡くなってしまいます。余談ですが、その時生まれた息子は、「ドン・カルロ」のモデルです。

2回目の結婚は政略結婚

フェリペ2世は27歳の時、自分よりも11歳も年上のイングランド女王メアリ1世と結婚します。2回目の結婚でした。これは父のカール5世からの命令であったと言われています。

メアリ1世は子どもを望んでいましたが、その思いが強すぎたのか想像妊娠でした。結局メアリ1世とフェリペ2世の間には子どもは生まれず、メアリ1世は亡くなってしまいました。

ブラッディメアリと呼ばれた女

イギリスの王様ヘンリー8世キャサリン妃の間に生まれたメアリ1世。ちなみにキャサリンはフェリペ2世の祖母フアナと姉妹だったので、メアリ1世とフェリペ2世は遠縁の親戚となりますね。

さて「ブラッディ・メアリ」をご存知の方はいますか?これはカクテルの名前です。このカクテルの語源となったのが、このメアリ1世でした。メアリ1世はプロテスタント教徒を血祭りに挙げていたため、彼女の名前を取って名付けられました。

次の妃は息子の婚約者

フェリペ2世の3番目の再婚相手はフランスのアンリ2世の娘でした。フェリペの時代では遠い国同士の皇太子らの結婚では代理を立てて結婚式を挙げていました。(この時はフランスで結婚式が行われ、フェリペ2世の代わりの人物が新郎役をしています。)

余談ですが、このアンリ2世の娘はもともとはフェリペ2世ではなくフェリペの息子の婚約者でした。フェリペ2世とこの妃との間には娘が2人生まれますが、息子の出産の際に母子ともに亡くなってしまいました。

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最後の妃は姪

3番目の妻が亡くなった後にフェリペ2世は次の妃として自分の姪であるアナと結婚します。アナが妃として選ばれたのは、アナの母(フェリペ2世にとって実の妹)が多産であったためでした。

現代人の感覚からするととても恐ろしいですよね。血族結婚リスクでしょうか。アナは多産でしたが、産まれた子ども達は次々に亡くなりました。結局アナも産褥が原因でフェリペ2世よりも早くこの世を去ることに。

この4回の結婚からみてわかるのは、当時の女性にとって出産はかなりリスクが大きく身体にダメージを受けるということです。フェリペ2世は4番目の妃を亡くしますが、アナとの間に後のフェリペ3世が生まれています。

フェリペの治世の間に起こったこと

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By Anonymous; Flemish school. Uploaded by qp10qp. - Karen Hearn, Dynasties, London: Tate, 1995, ISBN 1854371576, p. 87., パブリック・ドメイン, Link

ここまでフェリペ2世のルーツや彼自身のファッションや結婚について紹介してきました。

続いてフェリペ2世の治世時代の世界情勢はどのような状況だったのか解説していきます。

ネーデルランドの独立

フェリペ2世は異教徒に対して弾圧を行いました。スペインの領土であったネーデルランドも例外ではありません。ネーデルランドはプロテスタントを信仰していましたからね。しかしこれに反発し1568年に独立戦争が起こりました。そして1581年にネーデルランドは独立を宣言。これによってフェリペ2世は経済基盤を失い、スペイン・ハプスブルク家が没落するきっかけとなりました。

レパントの海戦について

レパントの海戦とは、フェリペ2世率いるスペインとローマ教皇、そしてヴェネツィア共和国の連合艦隊とオスマン帝国の艦隊が戦った海戦です。ちなみにこの海戦の33年前には、プレヴェザの海戦がありました。この時スペインはオスマン帝国に敗北しています。当時スペインを率いていたのはフェリペ2世ではなく、その父のカール5世でした。レパントの海戦によってプレヴェザの雪辱を果たしました。

背景を知る オスマン帝国について

レパントの海戦で戦ったオスマン帝国とはどんな国で、なぜ海戦することになったのでしょうか。

オスマン帝国はイスラム王朝でした。当時はフランスと同盟を結んでおり、スペインの船舶が襲われていました。オスマン帝国がキプロス島を攻め込んだことをスペインが危惧したため海戦することになったのです。

無敵艦隊アマルダ、イギリスへ

Spanish Armada.jpg
By フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ - BHC0264_700 orginaly uploaded to http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Loutherbourg%2C_Spanish_Armada.jpg, パブリック・ドメイン, Link

1588年にフェリペ2世はイギリスへ無敵艦隊アマルダを差し向けました。しかしなぜフェリペ2世はイギリスを攻めこんだのでしょうか。これには以下の3つの理由があります。

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エリザベス女王がネーデルランドを援助したから

まず1つ目の理由としては、エリザベス女王がオランダを援助したためでした。当時のオランダはネーデルランドと呼ばれ、フェリペ2世が統治していました。フェリペ2世はネーデルランドに対してカトリック化政策を強行してプロテスタントらを弾圧していました。それに対してエリザベス女王はプロテスタントを保護するため1585年に援軍を送っています。

メアリ・ステュアートを処刑したから

2つ目の理由としては、エリザベス女王がメアリ・ステュアートを処刑したからでした。これはエリザベス女王とメアリ・ステュアートの因縁を理解する必要があります。

エリザベス女王とメアリ・ステュアートは従妹関係にありました。しかしエリザベス女王はプロテスタントを信仰し、一方のメアリ・ステュアートはカトリックを信仰していました。メアリ・ステュアートはスコットランドの女王であり、イングランドの王位継承権も持っていました。そのため、エリザベス女王にとってはかなりの脅威でした。イングランドで反乱が起きて、自分が廃位させられる危険がありましたからね。

そんな脅威のメアリはフランス王太子妃としてフランスで暮らしていましたが、夫のフランソワ2世が亡くなったため帰国しました。

しかしメアリはスコットランド国内の宗教対立で、エリザベス女王のイングランドに亡命しました。そしてエリザベス女王は亡命してきたメアリを幽閉しました。メアリが処刑されたきっかけはなんとフェリペ2世でした。メアリと手紙でやり取りしていたのをエリザベス女王が危険視し、メアリの処刑にサインをしたのでした。

フェリペ2世にとってカトリック教徒のメアリ・ステュアートが処刑されたとなればイングランドを敵視しますよね。

スペインの船をエリザベス女王が襲っていたから

そして最後の理由として、スペインの船舶をエリザベス女王が襲っていたためでした。スペインがアメリカ大陸からの銀を運んでいる際にイギリスが海賊行為を行っていました。これらの理由により、フェリペ2世は無敵艦隊アマルダを送ることにしたのでした。この戦いの結末は、イギリスの勝利に終わりました。もしもスペインが勝利していたら、イギリスはプロテスタントではなくカトリックになっていたかもしれませんね。

フェリペ2世、ユグノー戦争に介入する

フェリペ2世はユグノー戦争に介入しました。ユグノー戦争とは、カトリック教徒とプロテスタントの宗教戦争です。プロテスタントのことをユグノーと呼んでいたことから、ユグノー戦争と呼ばれています。フェリペ2世はカトリックの支援のために介入しました。

この戦争は次第に単なる宗教戦争ではなく、貴族間も争いでもあり、スペイン(カトリック)とイギリス(プロテスタント)の代理戦争という様相を呈していきました。

この戦争は休戦を挟みながらも40年続き、ブルボン朝アンリ4世がカトリックに改宗し、その後ナントの王令を出したことで終結しました。

スペインは実は多額の借金まみれに

スペインの黄金時代に君臨していたフェリペ2世でしたが、国家の財政はかなり厳しいものでした。原因は多額の戦費です。父王カール5世の時代から各地で戦争をしていたため、借金だらけでした。戦費を捻出するためにメアリ1世から援助を依頼したこともあったフェリペ2世。

また各国の富豪から借りるなどしていました。そしてインカ帝国からの銀を返済に充てていました。しかし4回もの破産宣言を出すことに。

歴史はなぜ起こったのかを考えるとより一層楽しい。

16世紀の顔ともいえるスペインに君臨したフェリペ2世。

スペインの黄金時代を築いたフェリペ2世と彼のルーツであるハプスブルク家、フェリペ2世が君臨した当時の世界情勢について紹介していきました。

フェリペ2世は4回も結婚しましたが、それだけ当時の女性の出産はリスクが高かったことと血族結婚による影響があったと伺えますね。

黄金時代を築いたフェリペ2世でしたが、国家の財政はかなり厳しかったのは意外でしたね。

歴史は単純に人物の名前や起こった出来事を暗記するだけでは面白くない。大事なのはその出来事の背景を知ること。そこから歴史の面白さに触れられるのではないかと考えています。

今もなお世界中から愛されているハプスブルク家。あなたもぜひ手に取って、フェリペ2世の時代を読み取ってみてください。

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ヨーロッパの歴史世界史歴史

3分で簡単「フェリペ2世」!太陽の沈まぬ国を導いたカトリックの守護者に迫る!

今回はフェリペ2世を取り上げてみた。カール5世の息子でスペインを統治してスペインを「太陽の沈まぬ国」と言われるまでにした王様です。

今回は世界史、特にハプスブルク家について詳しいまぁこと一緒にフェリペ2世について解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこが特に好きなヨーロッパの名門ハプスブルク家の一員であるフェリペ2世について紹介していく。

スペイン黄金時代に君臨した王

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フェリペ2世は、16世紀に活躍したスペインの王です。父王のカール5世が1556年に退位した際に、スペインを継承しました。ちなみにカール5世はスペインの他にオーストリア領も支配しており、こちらは実の弟であるフェルディナントが継承しています。フェリペ2世はスペインを「太陽の沈まぬ国」へと築きました。

またカトリックの保護にも力を入れ、レパントの海戦ではオスマン帝国を破りました。しかしカトリックの保護に力を入れるあまり、オランダを弾圧しその結果オランダが独立することになってしまいます。

ちなみにフェリペ2世には「書類王」というあだ名があるのをご存知ですか。これは戦場に出かけることなくずっと宮殿で仕事をしていたため、そう呼ばれるようになりました。執務はたびたび14時間に及ぶことも。

それではフェリペ2世のルーツやフェリペ2世自身のこと、そして彼の生きた時代の様子を紹介していきます。

そもそもハプスブルク家とは?

フェリペ2世はハプスブルク家出身でした。ハプスブルク家とはヨーロッパの名門です。他にも有名な名門として、ロシアのロマノフ家、イタリアのメディチ家などがありますね。

ハプスブルク家は650年間王朝を保ちました。とても長いですよね。そのためハプスブルク家からは、何人もの有名な人物が登場します。有名な例を挙げるなら、フランツ・ヨーゼフエリザベート皇后マリー・アントワネットなど。

ハプスブルクの起源 スイスの豪族

ハプスブルク家のルーツは、10世紀頃まで遡ります。もともとはスイスの田舎の豪族でした。ハプスブルクという名前の語源は、11世紀に建てた城からだと言われています。この城は「ハービツブルク城」と呼ばれ、この城の名前を取ってハプスブルクを名乗るようになったようです。

神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、歴史の表舞台へ

その後13世紀に入ってハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれることになりました。神聖ローマ帝国の皇帝と選ばれたルドルフ伯は当時55歳と高齢でした。皇帝に選ばれると領土は増えませんが、カトリックの盟主という権威が与えられます。

しかし一体なぜルドルフ伯は選ばれたのでしょうか。これは選帝侯たちの思惑がありました。できるだけ自分たちの言いなりになりそうな人物を皇帝にしようと考えたのです。しかしルドルフ伯が皇帝になることに異を唱えた人物がいました。ボヘミア王のオットカル2世でした。オットカル2世は勢力を拡大しているさなかだったため、選帝侯たちは警戒していました。そこからルドルフ伯とオットカル2世との間に亀裂が生じます。そしてついに1278年のマルヒフェルトの戦いで両者は衝突しました。結果はルドルフ伯の勝利でした。そしてそこからハプスブルク家はボヘミアオーストリアへと領土を拡大していきます。

ハプスブルク家の顔立ち

ハプスブルク家と言えば、特徴的な顔立ちをしていることで有名ですよね。

ハプスブルク家の肖像画ではかなり特徴的な顔立ちが描かれています。それは鼻が鷲鼻になっていて、顎がしゃくれていることです。

では、フェリペ2世も特徴的な顔立ちだったのでしょうか。フェリペ2世にもハプスブルク家の顔立ちの特徴が表れていますが、とても整った顔立ちをしていました。

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