2000年代にドラマや漫画で注目を浴びた大奥。劇中では泥沼の人間関係がピックアップされたが実際はどんな場所だったのかを日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。漫画「大奥」にドはまりして資料を読み漁った。

大奥成立に暗躍した春日局

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By 橋本(楊洲)周延(Hasimoto chikanobu)1838-1912 - an original print(The contributor has this source.), パブリック・ドメイン, Link

大奥といえば、江戸城の奥に置かれた将軍の正室や側室が住んでいる場所というイメージですよね。将軍以外の男性の立ち入りを禁じた男子禁制の女の園。一昔前のドラマではこの大奥で巻き起こる愛憎劇が話題を呼びました。実際、その見識にあまり間違いはありません。正室、側室に関係なく男子が生まれれば、その子は徳川将軍になる可能性があります。なので、「将軍の母」の座を巡って大奥の女性たちは必死になるわけです。そこになんのドラマもないというわけにはいかないでしょう。

大奥ってどんなところ?

将軍が側室を持つこと自体は新しいものではありません。前世紀に政権を取っていた朝廷には天皇のための後宮がありましたし、どの大名も古くから行ってきたことでした。すべては世継ぎのため、お家の存続のためです。子孫がいなければ、その家系がどんなに立派なものでもそこで終わってしまいます。家系の断絶は将軍から農民まですべからく恐れた問題でした。

特に将軍は国のトップにあたるわけですから、途絶えさせるわけにはいきません。もしものときのために紀州徳川家や尾張徳川家、水戸徳川家の御三家がありましたが、できれば将軍の直系を戴きたい。そんな想いで大奥を成立させたのが、春日局という女性でした。

苛烈すぎる女傑・春日局の半生

大奥を私たちの知る「大奥」へ作り替えたのは春日局という女性でした。彼女は三代目の将軍・徳川家光の乳母です。なぜ、乳母がそのような権限を持っていたのでしょうか。春日局の経歴を辿ると、その波乱万丈な人生から苛烈な性格が見えてきます。

春日局こと、本名・斎藤福。美濃国(岐阜県南部)の名門斎藤家に生まれ、父はかの明智光秀の重臣・斎藤利三でした。世が世ならお嬢様というわけですね。ただし、斎藤利三は明智光秀と共に処刑されてしまいます。父の死後、福は母方の稲葉家に引き取られ、後に稲葉家に婿入りした稲葉正成の後妻となりました。ところが、この結婚は上手くいかなかったのです。

稲葉正成は西軍でありながら徳川家康と通じ、関ケ原の戦いで小早川秀秋を寝返らせた立役者でした。しかし、終戦後に秀秋と仲違いしてしまいます。さらに秀秋の死で小早川家が断絶してしまうと浪人にまで身を落とし、愛人まで作ってしまうのです。一説によると、激怒した福がこの愛人を殺してしまったとか。これが真実かは微妙なところですが、そんな話ができるほど福が苛烈な女性だったということでしょう。

春日局が人生をささげた将軍

正成と離婚する前、福は徳川家康の孫・家光の乳母の求人に合格していました。しかも、福と正成の息子・正勝も家光の小姓として取り立てられます。その後、福は家光が成人するまで見守り続けるわけですが、ここでひとつ問題が起きました。

家光の両親である二代目将軍秀忠とお江の方は、次の将軍は長男の家光ではなく弟の忠長にしようとしていたのです。危機感を抱いた福は、駿府(静岡県)にいる家康に直談判に赴きます。ただの乳母でしかなかった福が大御所である家康に訴えかけるなんて、なかなかできることではありません。けれどその結果、家康が動き、家光が跡目を継ぐことが決定したのです。

かくして家光が将軍となり、江戸幕府を治めることとなりました。そうすると、今度は家光の跡継ぎが必要になりますよね。お江の方が亡くなられたあと、福が大奥を取り仕切ることになりました。これがいわゆる大奥総取締です。その後、福は1629年に京都の御所に昇殿する際に従三位の位と「春日局」の名を賜りました。

大奥に集められた女性たち

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当時、すでに家光には鷹司孝子という正室がいましたが、夫婦仲は険悪であり、彼女は大奥から追放されて事実上の離婚状態にありました。そこで春日局は家光の側室となる女性を探し始めます。

春日局が最初に目を付けたのが、永光院でした。この名前でお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、彼女は京都の尼さんだったのです。尼なのにもかかわらず、家光に謁見した際に見初められてしまったために還俗(僧をやめて一般の人にもどること)せざるを得なくなってしまいました。大奥に入った後は「万」と名乗り、家光は彼女を深く愛します。しかし、残念なことにふたりは子どもには恵まれません。すると、春日局は大奥にどんどん女性を連れてくるのでした。そして、四代将軍家綱の母・宝樹院、五代将軍の母・桂昌院をはじめとした側室たちが誕生したのです。

尼さんを還俗させ、次々と大奥に側室を送り込んでいった春日局。家光の乳母であり、彼を将軍になれるよう尽力したこともあって、家光からの信頼は絶大です。その権力は江戸城の表で政治を扱う老中(平たく言うと江戸幕府の中でも偉い政治家のこと)たちにも引けを取りませんでした。

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大奥を揺るがした江島生島事件

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家光から七代将軍家継まで

春日局が亡くなり、代わりに万が大奥総取締となりますが、彼女も四代将軍家綱の代に再び仏門に入って大奥を去りました。高貴な身分の人が仏門に入ることを落飾と言います。

家光の死後、長男である家綱がわずか十一歳で将軍職を継ぎましたが、家綱は体が弱く、子どもがいませんでした。そこで弟である綱吉にお鉢が回ったのです。

犬将軍や犬公方と言われる綱吉ですが、彼の治世の前半は「天和の治」と呼ばれる善政でした。かの悪名高い「生類憐みの令」は後半、桂昌院が信奉していた僧侶の勧めであったとされています。「生類憐みの令」によって江戸幕府の財政は圧迫され続けますが、これが廃止されるのは六代将軍家宣になってからのことです。

綱吉には徳松という子どもがいましたが、幼くして亡くなってしまいます。そこで白羽の矢が立ったのが、綱吉の弟の息子・綱豊でした。綱豊は六代将軍就任にあたって徳川家宣と改名します。家宣は将軍に就くと即座に「生類憐みの令」をはじめ綱吉が発布した悪法を次々と廃止。真鍋詮房、新井白石らを中心に政治を動かしていきました。家宣は善政を敷きましたが、三年後にこの世を去ってしまいます。この後に将軍を継いだのはわずか三歳の徳川家継でした。

江島生島事件のあらまし

家継の母は側室の月光院。もとは浅草唯念寺の住職の娘でした。彼女に仕えていたのが江島で、大奥でも身分の高い女性です。江島生島事件は、この江島が月光院の名代としてお寺に参詣した帰り、芝居小屋・山村座に寄ったことが発端となります。

当時、江戸幕府は芝居小屋が町の風紀の乱れに通じるとして、山村座を含めた四座にしか興行を許していませんでした。この山村座には二代目市川團十郎と並んで人気の生島新五郎が所属しています。

お寺参りの後、山村座へ寄った江島は生島ら役者を招いて宴会を開いたがために大奥の門限時間に遅れてしまいました。大奥と言えど、江戸城の中に他なりません。規則は規則で、たとえ身分の高い江島でもルールを曲げて通すことはできませんでした。門番と江島の部下が言い争ううちに騒ぎは江戸城中に伝わり、とうとう評定所(最高裁判所)で争いを扱うことになってしまったのです。

関係者はとんでもない人数に

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真偽の結果、評定所は江島を流罪としました。本来なら死罪とするところを彼女の立場から減刑しての流罪です。ただし、月光院がさらなる減刑を求めたために、流罪から高遠藩藩主へと身柄を預けられます。そこで彼女は事実上の禁固刑となりました。

しかし、江島が罰を受けて終わりと思いきや、罪が及んだのは彼女だけではありません。宴会に参加した生島新五郎、山村座座長・山村長太夫は共に流罪となり山村座は潰れてしまいます。さらに、江島の監督責任を問われた江島の兄は斬首、弟は家や財産を没収された上に主要都市への立ち入りを禁止する重追放となりました。しかし、これでもまだ終わりません。大奥勤務の医者に呉服屋、旗本、商人、大奥女中67人などが関係者として罰せられます。一説によると、最終的に1500人が処罰されたとか。

大奥の事件が江戸城内での情勢変化をもたらす

裁判の結果だけ聞くと、呉服屋や医者がこの事件となんの関係があるのか、と首を傾げてしまうところです。そもそもただ門限に遅れただけで死刑やら流罪になること自体がおかしいんじゃないか、と現代の私たちなら思ってしまうところでしょう。けれどそこは江戸時代の江戸城。江島も一般人ではありません。彼女は大奥の重役であり、月光院の片腕でした。

当時、大奥内での勢力は家継の母・月光院と家宣の正室・天英院で真っ二つに分かれていたのです。しかし、月光院は将軍の母である上に、政治を牛耳っていた間部詮房や新井白石と親しく、その影響で大奥でも優位に立っていました。もちろん、天英院もその他の政治家たちも面白くないわけで。そんな折に起こったのが江島生島事件です。この事件を契機に、月光院の派閥は大きく勢力を削られてしまいます。

この大奥内での勢力争いはただの女性間での争いではありませんでした。というのも、将軍家継はまだ幼く病気がちで、たった七歳で亡くなってしまったのです。江島生島事件によって天英院が優勢になることで、かねてより天英院が次期将軍に推していた紀州徳川家の徳川吉宗が八代将軍に就任することになります。

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天璋院篤姫と和宮が迎えた大奥の最後

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徳川吉宗による経費削減

家継の後を継いで八代将軍に就いた吉宗は、紀州藩の財政の立て直しに成功したやり手の政治家です。その功績もあり、彼は当時ひっ迫していた幕府の財政再建に努めました。この一連の改革を「享保の改革」と呼びます。

財政再建にあたって、大奥はかなり幕府の予算を圧迫する場であったため、吉宗はまず大奥の美女50人を呼んでリストラ。美女なら大奥を出たあとでもすぐに嫁入り先が見つかるから、という理屈でした。吉宗の代で人員削減に成功した大奥は九代将軍家重、十代将軍家治までは問題なく存続されて行きました。

その後の十一代将軍家斉は側室40人、子どもはなんと50人以上というとんでもない記録を打ち立てます。もちろん、将軍に就けるのはたったひとり、それも男の子に限りますから、選ばれなかった子どもたちは他家へ嫁入りしたり、養子へ行くことになりました。ただ、これがまたお金がかかるんですよ。吉宗が戻してくれた財政がまた右肩下がりへと雲行き悪くなり、どうしたものかと頭を悩ませていたのと並行するように、この時期にイギリスやアメリカの船がやってくるようになったのです。

鎖国は守り続けるべきか

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家光の代から日本は鎖国政策を取り、長崎の出島でオランダと貿易する以外は専ら外国との付き合いはありませんでした。けれど、実は18世紀半ばあたりからロシア船が通商を求めて来航していたのです。ただ、これは幕府の出した「異国船打払令」によって退けられています。そして家斉の次、十二代将軍家慶の代にとうとうペリーの黒船がやってくるのです。しかし、この黒船の騒動の中で家慶は亡くなってしまいます。心不全だとされていますが、これだけの大騒動ですから彼の心労はすさまじいものだったことでしょう。

家慶の後を継いだのが十三代将軍徳川家定でした。彼の正室が篤姫です。

遠く九州から嫁入りした篤姫

篤姫は薩摩藩(鹿児島市)の島津家の分家の娘として生まれました。島津家と言えば、関ヶ原の戦いで西軍につきながらも戦後に取り潰しになることなく、江戸時代を乗り切ってきた一族です。徳川にとっては因縁深い相手ですね。しかし、篤姫は望まれて家定の正室となりました。というのも、家定はすでにふたりの正室に先立たれており、新しい正室は体の丈夫な人を探さなければならなかったのです。そこで、長寿だった家定の義理の祖母にあたる広大院(家斉の正室)にあやかって同じ薩摩出身の篤姫が選ばれました。「篤姫」という名前も広大院の幼少時代の名前からいただいたものですよ。

国内は荒れに荒れて

篤姫の大奥入りはとてもおめでたいことなのですが、外交問題で江戸幕府は大きく揺れていました。開国について考えるから一年待ってほしいとペリーを本国に返したはいいものの、国内では鎖国を続けるべきだという攘夷派と開国派で割れています。結果は知っての通り開国の道を歩むことになるのですが、それまでが本当に大変でした。はい、ここが世に言う江戸末期、幕末です。みなさんご存じの新選組や勝海舟、西郷隆盛らが名を挙げた時代ですね。

国内が荒れる一方、江戸では一年九ヶ月という短い結婚生活の末に家定が病死してしまいます。そして、「桜田門外の変」での老中・井伊直弼の暗殺。江戸幕府はこれでもかと言うほど揺れていました。そんな中でもともかく新しい将軍を就けなければなりません。選ばれたのは再び紀州徳川家、当時十三歳の徳川家茂でした。そして、大奥には家茂の正室として天皇家から和宮が降嫁します。

天璋院篤姫と和宮の関係

家定の死後、篤姫は落飾して天璋院と名前を改めていました。さて、薩摩生まれの天璋院と生粋の京都人である和宮。義理であるとはいえ、ふたりは嫁と姑の関係になります。そして、その仲は非常に険悪だったのです。不仲の原因のひとつに、和宮が大奥にあっても京都の御所風の生活を改めなかったことなどが挙げられます。ただし、和宮と家茂はとても仲睦まじく、家茂は側室をひとりも取りませんでした。

最初は犬猿の仲だった天璋院と和宮でしたが、それでも徐々に和解していきます。家茂が第二次長州征伐の途中、大坂城で息を引き取ったあとも、天璋院と和宮は協力して十五代将軍徳川慶喜の大奥改革に徹底的に反抗しました。さらに、戊辰戦争で徳川家が危機に瀕した際にはお互いの故郷である薩摩の島津家や朝廷に嘆願書を送っています。こうして、1868年、江戸無血開城をもって江戸城から立ち退くまで、ふたりは大奥にいながらも徳川家を支え続けたのです。

影から幕府を支え続けた女性たちの城

春日局から篤姫と和宮まで、さまざまな女性たちが大奥に入り、そして去っていきました。「将軍の母」の力は非常に大きく表の政治にも影響を及ぼします。そのためにたくさんの争いが起き、涙を流した女性もいたことでしょう。しかし、篤姫と和宮のように世代を超えて友情を育むこともありました。影から将軍たちを支え続けたのも彼女たちだったのです。

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日本史歴史江戸時代

愛憎渦巻く「大奥」ー知るための3つのポイントを歴史マニアがわかりやすく解説

2000年代にドラマや漫画で注目を浴びた大奥。劇中では泥沼の人間関係がピックアップされたが実際はどんな場所だったのかを日本史に詳しいライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。漫画「大奥」にドはまりして資料を読み漁った。

大奥成立に暗躍した春日局

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By 橋本(楊洲)周延(Hasimoto chikanobu)1838-1912 – an original print(The contributor has this source.), パブリック・ドメイン, Link

大奥といえば、江戸城の奥に置かれた将軍の正室や側室が住んでいる場所というイメージですよね。将軍以外の男性の立ち入りを禁じた男子禁制の女の園。一昔前のドラマではこの大奥で巻き起こる愛憎劇が話題を呼びました。実際、その見識にあまり間違いはありません。正室、側室に関係なく男子が生まれれば、その子は徳川将軍になる可能性があります。なので、「将軍の母」の座を巡って大奥の女性たちは必死になるわけです。そこになんのドラマもないというわけにはいかないでしょう。

大奥ってどんなところ?

将軍が側室を持つこと自体は新しいものではありません。前世紀に政権を取っていた朝廷には天皇のための後宮がありましたし、どの大名も古くから行ってきたことでした。すべては世継ぎのため、お家の存続のためです。子孫がいなければ、その家系がどんなに立派なものでもそこで終わってしまいます。家系の断絶は将軍から農民まですべからく恐れた問題でした。

特に将軍は国のトップにあたるわけですから、途絶えさせるわけにはいきません。もしものときのために紀州徳川家や尾張徳川家、水戸徳川家の御三家がありましたが、できれば将軍の直系を戴きたい。そんな想いで大奥を成立させたのが、春日局という女性でした。

苛烈すぎる女傑・春日局の半生

大奥を私たちの知る「大奥」へ作り替えたのは春日局という女性でした。彼女は三代目の将軍・徳川家光の乳母です。なぜ、乳母がそのような権限を持っていたのでしょうか。春日局の経歴を辿ると、その波乱万丈な人生から苛烈な性格が見えてきます。

春日局こと、本名・斎藤福。美濃国(岐阜県南部)の名門斎藤家に生まれ、父はかの明智光秀の重臣・斎藤利三でした。世が世ならお嬢様というわけですね。ただし、斎藤利三は明智光秀と共に処刑されてしまいます。父の死後、福は母方の稲葉家に引き取られ、後に稲葉家に婿入りした稲葉正成の後妻となりました。ところが、この結婚は上手くいかなかったのです。

稲葉正成は西軍でありながら徳川家康と通じ、関ケ原の戦いで小早川秀秋を寝返らせた立役者でした。しかし、終戦後に秀秋と仲違いしてしまいます。さらに秀秋の死で小早川家が断絶してしまうと浪人にまで身を落とし、愛人まで作ってしまうのです。一説によると、激怒した福がこの愛人を殺してしまったとか。これが真実かは微妙なところですが、そんな話ができるほど福が苛烈な女性だったということでしょう。

春日局が人生をささげた将軍

正成と離婚する前、福は徳川家康の孫・家光の乳母の求人に合格していました。しかも、福と正成の息子・正勝も家光の小姓として取り立てられます。その後、福は家光が成人するまで見守り続けるわけですが、ここでひとつ問題が起きました。

家光の両親である二代目将軍秀忠とお江の方は、次の将軍は長男の家光ではなく弟の忠長にしようとしていたのです。危機感を抱いた福は、駿府(静岡県)にいる家康に直談判に赴きます。ただの乳母でしかなかった福が大御所である家康に訴えかけるなんて、なかなかできることではありません。けれどその結果、家康が動き、家光が跡目を継ぐことが決定したのです。

かくして家光が将軍となり、江戸幕府を治めることとなりました。そうすると、今度は家光の跡継ぎが必要になりますよね。お江の方が亡くなられたあと、福が大奥を取り仕切ることになりました。これがいわゆる大奥総取締です。その後、福は1629年に京都の御所に昇殿する際に従三位の位と「春日局」の名を賜りました。

大奥に集められた女性たち

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当時、すでに家光には鷹司孝子という正室がいましたが、夫婦仲は険悪であり、彼女は大奥から追放されて事実上の離婚状態にありました。そこで春日局は家光の側室となる女性を探し始めます。

春日局が最初に目を付けたのが、永光院でした。この名前でお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、彼女は京都の尼さんだったのです。尼なのにもかかわらず、家光に謁見した際に見初められてしまったために還俗(僧をやめて一般の人にもどること)せざるを得なくなってしまいました。大奥に入った後は「万」と名乗り、家光は彼女を深く愛します。しかし、残念なことにふたりは子どもには恵まれません。すると、春日局は大奥にどんどん女性を連れてくるのでした。そして、四代将軍家綱の母・宝樹院、五代将軍の母・桂昌院をはじめとした側室たちが誕生したのです。

尼さんを還俗させ、次々と大奥に側室を送り込んでいった春日局。家光の乳母であり、彼を将軍になれるよう尽力したこともあって、家光からの信頼は絶大です。その権力は江戸城の表で政治を扱う老中(平たく言うと江戸幕府の中でも偉い政治家のこと)たちにも引けを取りませんでした。

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